夏の災難


 バチン。
 俺の右手と左腕が小気味いい音を立てて、その間に挟まれた害虫をいとも簡単に潰した。
「ぅえ、こいつ血吸ってやがる。どっか刺されたー……」
 数秒前、左腕がやけにむずむずするなと見ると、蚊が止まっていた。俺はそれが逃げないようにゆっくり手を近付けて、瞬殺。潰れた小さな体は、微量(蚊にとってはおそらく腹五分目くらい)の赤い液体に塗れていた。
 フローリングの床に座ってベッドに寄りかかりながらマンガを読んでいた俺は、ティッシュをとるために仕方なく立ち上がる。
 俺に背を向けるようにして机に向かっていた宮村に「悪い」と断って、机の奥の方に置かれたティッシュ箱から一枚ティッシュを引っ張り出した。
 書類の束を前に、俺にも構わず真剣な表情で仕事をしている宮村は、いつもの変態モードと違って本当に格好よく見える。
「…………」
 ちらりと目を落としたままの宮村を見やって、いつもこれくらい真剣な態度なら少しはまともになるのにな、と思いながら血まみれの蚊を拭い取った。
 何故ここで宮村が仕事をしているのかは俺にもよくわからなかったが、特に長谷川さんに頼む用事もなければ、誰かを呼んで話し合うこともないようで、直ったばかりのクーラーでガンガンに冷えているこの部屋に書類の山を持ち込み、二時間ほど前からペンやはんこを代わる代わる持ち替えては俺には何もわからない小難しい内容の文書を処理していた。
 俺はというと、拓海が夏休みの間宮村家に来ることになって部屋を追い出されていたため、仮住居となった宮村の部屋で元々は勉強をしていた。が、いきなり「仕事をするから机を空けてくれないか」と言われてしまったため、一度自分の部屋に勉強道具を戻し、代わりにマンガを数冊持ってきて読んでいた。
 今日は珍しく部活もオフで、夏休みに大量に出ていた課題をとっとと片付けてしまいたかったが、宮村の仕事の都合では仕方ない。
(部屋に戻ろうかな。どうせ拓海のやつも、母屋で他の組員と遊んでるんだろうし)
 こっちに来て、若い者から古参の組員まで賭けゲームで一気に知り合い、仲良くなってしまった拓海は、俺みたいに部活も入っていないため、毎日のようにトランプだの麻雀だのを持ち出してゲームに興じていた。
 時々、未成年が賭け事をしてはいけないと、長谷川さんが注意をしている。
 一度読んだマンガなんて、展開がわかっているから飛ばし読みですぐに終わるし、持ってきた冊数自体が元々少なかったため、すぐに退屈になってしまった。
「…………」
 退屈だからといって、まだ机の左端に分厚いファイルを溜め込んでいる宮村に話しかけるのはやっぱりまずいだろう。
 気を紛らわせないように部屋を出ようと、ドアの方に行きかけて、俺はふと宮村の姿勢の良い後ろ姿に目をやった。
「…………あ」
 相変わらず書類に目を走らせる宮村は全く気付いていないようだったが、ストライプのシャツの襟と短く切りそろえられた後ろ髪の僅かな隙間に覗いた首筋に、蚊がとまっていた。
 蚊は微動だにせず、「ただいま吸引中です」とでも言っているかのようだ。
 多分ここで潰しておかないと、後で宮村は痒い思いをすることは確実だ。だがいきなり「蚊!」と言って人の首を叩くのも如何なものか。
 俺が迷っているうちに、蚊は血を吸って満足したのか宮村から離れ、俺の方へと近づいてきた。
 もちろんそれを両手の平で叩き潰し、もう一度ティッシュで取ってゴミ箱に捨てた俺は、何も感じていない様子の宮村の首筋を暇つぶしに観察することにした。
 表面的にはなんら変わりのない状態だが、そのうち絶対に痒くなる、と掛け時計に目をやって、どれくらいで痒みを感じるのか、何となく測ってみた。
「…………」
 だが宮村の集中力は蚊ごときでは途切れないのか、それから十五分経っても、二十分経っても、書類を左から右へ積みなおす手は動いているくせに、首筋には一回も手を回さなかった。
 すげぇな……。俺だったら蚊がそこにとまってたってだけでむずむずくるのに。まぁ見てないからってこともあるんだろうけど。
 そうして時間が経ってくると、刺された部分とそうでない部分に僅かな色の違いが出てきた。
 見ていた俺はそれだけで「あー痒そ……」と、自分の首筋を刺されてもいないのに掻いてしまった。
 それでも宮村は自分の首の後ろ側で起きている変化を気に留めることなく、ひたすら目の前の書面を読み、時折手に持っているペンを走らせ、はんこを押すという作業を繰り返していた。
 俺は好奇心、というか単なる暇つぶしと悪戯心から、悪いと思いつつ薄っすら赤くなっている部分を指で軽く引っ掻いた。
 すると宮村は俺が驚いて手を引っ込めてしまうくらい、体をビクリと震わせた。
 そして、思わず「わっ」と俺が声を上げたのと、宮村の手が引っ込めた俺の手を掴むのはほぼ同時だった。
「何だ、理人?」
 俺の手を掴みながら振り向いて訊ねてきた宮村は、何故かすごく機嫌が悪いように見えて、俺は「別に何でもないっ」と必死に首を横に振った。
「た、ただちょっと暇だったから……。首んとこに蚊に刺され見つけて、何もしないから、アンタ痒くないのかって思っただけで……」
 まさかそんな過剰反応をされるとは思ってもみなかった。仕事の邪魔をするな、と釘を刺されるくらいのものだと思っていた俺は、そこまで機嫌を損ねる行為とは考えていなかった。
「わ、悪かったって……っ。邪魔したことなら謝るし。気が散るっていうんなら、出てくから―――どわッ」
 今にも雷が落ちてきそうな状況を何とか抜け出そうと、頭をフル回転させながら謝ったが、宮村が掴んだ手を力強く引っ張ってきて、俺は椅子ごと振り向いていた宮村に突っ込んでしまう羽目になった。
「……ってー、何すんだよこの……、……っ!?」
「……それはこっちの台詞だ、理人」
 宮村の腹あたりに頭から突っ込んだ俺は、顔をかばった腕のあたりに、クーラーの効いた部屋では違和感があるほど熱いものが触れていることに気付いて、言葉を途切れさせた。
 ソレが一体何なのかは、深く考えなくてもわかる。だがどうやったらそんな状態になるのかについては理解ができなかった。
 仕事の書類にそんな性的快楽をかき立てるような文書があるなんて普通ありえないだろうし。
 まさか、俺がちょいっと蚊に刺されを引っ掻いたから…じゃ、ない……よな?
「まったく、今の不意打ちは……効いた」
 言うが否や、今まで真剣に仕事に打ち込んでいた組長の姿はどこへやったのか、顎を引っ張ってきた宮村は、有無を言わさず濃厚なキスをかましてきた。
「ふ…んんっ……ぅ…」
 心なしか乱暴に口内をかき回す宮村に翻弄されながら、知らなかったとはいえ自分の不用意な行動を恨めしく思った。
 つまりあの場所は、俺で言う「耳」とか、そういう類のウィークポイントだったわけだ。そして俺は運悪くそれを引き当ててしまった。
 もう、災難としか言いようがない。
「先に仕掛けたのはお前だ。最後まで、責任を取ってもらうからな」
「……ふ…ざけ……っ」
 上手く呂律が回らないまま、今日はにやりともせずに宣言した宮村によって、今まで寄りかかっていたベッドの上に放り投げられた。
 昼が長いはずの夏の日は気付くとどっぷり暮れていて、俺は何事もなかったように机に向かう宮村を睨みながら、動かす気力すらなくなった体をベッドの上で休ませるしかなかった。
 蚊って、色んな意味で、本当に害虫だ……!
 俺は体が動かせるまでに回復すると、すぐに近くのコンビニに走って大量の蚊取り線香を買ってきた。
 宮村は閉め切った部屋の中で蚊取り線香を焚くことに顔を顰めたが、そんな苦情は俺の知ったことではなかった。
 いつも俺の苦情を無視する宮村にはいい気味かもしれないと思いながら、しかし俺自身もその煙たさに嫌気がさしてきて、結局その後数日間は、風通しが良く、蚊取り線香も苦にならない母屋で日中を過ごすことにした。



END




 ――――――――――
 というわけで、理人の偶然に偶然が重なった災難でした。
 私も蚊に刺されやすい体質で、今年からノーマットを導入しました。
 寝首をかかれる(笑)ことはなくなりましたが、やはり油断をしていると刺されます。
 実はこの話、1ヶ月半ほど前、今年初めて蚊に刺された時に「蚊に刺されって、ネタにできんじゃね!?」と思いついたのが始まりでした。
 内容は色々考えておりましたが、時間と体力と予定の都合上、このパターンでした。
 本当に何故かわからないんですけど、無意識のうちに絡みが消えていくんですよ……。
 どうしたものか。
 読んで下さってありがとうございました。

 2008.07.24  葉月 蒼唯





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