[PR] SEO対策


それは快楽に似た痛みの傷痕


 暗く澄んだ空気で満たされた夜明け前の首都高速を、一台のBMWが疾走していく。
 追い越し車線に出たり入ったりしては、時折現れる車の間を縫うように走らせる様子を見ながら、東悠人は深く深く溜め息をついた。
「まったくあなたという人は、どうして『普通の運転』が出来ないのですか」
 すると鼻歌交じりに猛スピードで高級車を転がす運転席の男が、口の端を吊り上げて、クク…と小さく笑った。
「これのどこが普通の運転じゃないと言える? 別に後ろから車間距離を詰めて無理矢理退かせるとか、ふらふらと蛇行運転をしているわけでもないよ」
 何が悪い、とでも言いたげな口ぶりだが、実際のところ、俗に言う「ネズミ捕り」に間違いなく引っかかる速度を出しておきながら、何故自信たっぷりに普通の運転だと言えるのか、悠人にはわからなかった。
 しかもネズミ捕りが視界に入った途端、急激に速度を落とされて、いちいち心臓を跳ねさせる悠人の身にもなって欲しい。
「あなたを運転席に座らせるものではありませんね。次からは縛ってでも後部座席に押し込みましょう」
「俺は縛られるより縛る方が好きなんだけどね」
(今、この人はさらりと問題発言しましたね。……あぁもう、こんな男の部下であるということを全力で否定したくなるような変態ぶりだ)
 決して上司に言えるようなことではないが、誰だってそう思わずにはいられないだろう。
 それを億尾にも出さず、至って平常心で悠人は取り付く島もなく否定する。
「私はあなたのような嗜好の人間ではありませんので、そういう好みは理解できません」
「君は本当にストイックだ。そういうのもそそるけどね」
 舐めるような視線を感じて、悠人は無意識に膝の上で拳を握った。
「禁欲的でなければ、あなたの世話役など務まりますか。それに何度言わせれば気が済むんです? あなたのような無節操極まりない悪趣味で最悪な人間を相手になどしたくありませんと、私は口にタコが出来そうなほど言っているではありませんか」
 タコが出来るのは耳の方じゃないのか、という突っ込みを「では耳にタコが出来るほど言い聞かされているはずです」と鋭く返して、咎めても仕方ないのだと運転の仕方を改めさせることを諦めた悠人は顔を逸らすと、細く線を引いて流れていく電灯を見るともなく目で追った。
 そして何故こんなところでこんな時間に車を出しているのかという理由を思い浮かべて、くっきりと眉間に皺が寄った。
 隣に座る里見康孝は、悠人の勤める一流企業の若き社長であり、大学時代の先輩後輩、という間柄である。ちなみに二人は共に同じ学部、同じサークルのメンバーで、悠人は里見より二年下の後輩だ。
 里見本人が教えたのかどうかは定かではないが、里見の父親である会長に、突然「息子の世話を頼みたい」という話を持ち出されたのだ。
 大学時代から、特に女癖の酷かった里見は守備範囲の広さから、年上から年下まで、男も女も関係なく、あっちこっちに手をつけては無責任に振っていくという、悠人にしてみれば最低極まりない男だった。
 ただ不思議なことに、タラシで通る里見の周りには恋人の座を狙う人間が絶えず、余計に「来るもの拒まず、去るもの追わず」の付き合いに拍車がかかっていた。
 不思議に思っていたのは、貞操観念が旧家のお嬢様並みにガチガチな悠人だけで、ある程度の容姿と頭脳、そして何より里見の後ろにある莫大な財産の前には、「それっぽい態度」でゴマを摺る人間の存在に納得せざるをえないというのが哀しい現実というもの。
 唯一の救いといえば、そういう「里見以外のもの」にしか執着のないような人間に対して本気になることがなかった、というところだろう。本気になったことすら皆無なのではないだろうか。
 悠人にしてみれば、さっさと所帯を持ってもらって、嫁に世話役を押し付けたい気分なのだが。
 それに加え、今回の一件。最愛の弟である理人を誘拐し、行為に及ぼうとしたということが、悠人の機嫌の悪さの最大の元凶だった。
 どうして自分はこんな最悪な男の運転する車に乗って自宅に送られているのか。本来ならば自分がさっさと運転席に乗り込んで、安全運転で里見を送り届けなければならない立場だし、そうすれば余計な寄り道などをされる心配もしなくて済んだというのに。
 里見が理人を連れ去った場所は、郊外にある里見所有の別荘だった。管理人が常駐し、電話一本ですぐにでも泊まれるというような別荘へ、里見が何故向かったのか、里見の父親から「迎えに行ってやってくれ(つまり、連れ戻して来い)」と連絡をもらったときは疑問に思っていたのだが。
 渡されていた別荘の合鍵を使って、インターホンを押しても出てこない里見を連れ出そうと中に入ってみると、階段の踊り場で何故か弟の理人とその恋人である宮村組の宮村ジンら一行に出くわすことになった。
 肝心の里見は強面の男たちに両脇をしっかり張られて、宮村と対峙していた。
 いかにも怪しい人間たちと、宮村、そして大事な弟と対峙している里見。この奇妙な組合わせに、悠人は嫌な予感がした。半信半疑のまま鎌かけに言ったその言葉を里見は全く否定しなかった。しないどころか、悪びれもなく「理解しろ」と言ったのだ。
(誰がどんな事情でうちの可愛い弟を強姦しようとしたって、理解できるはずがないだろうがッ!!)
 まぁ自他共に認める筋金入りのブラコンであれば、湧いて当然の怒りである。
 出来ることならその場で地団太を踏んで怒鳴り散らしたい気分だったが、それを踏みとどまらせたのは理人の存在だった。
 里見を会長に引き渡した後で、理人には色々と話を聞かなければならないし、相手が誰であろうと大切な弟を誘拐されるような頼りない男の元に理人を置いてはおけないと、悠人は理人を連れ帰ろうとした。
 しかし理人本人に断られ、その上「嫌いになる」と脅されて、結局どうすることも出来ずに悠人は里見だけを連れ戻すことにしたのだ。
(…うぅ、理人ぉ……っ)
 突然の兄離れ宣言に、感傷に浸る間もなく里見の乱暴な運転に頭を痛めていた悠人は、心の中で人知れず涙を呑んだ。
 幼い頃、雛鳥のようにとことこと後ろをついて歩いてきた理人。
 ワンピースを着せられているのに、意味もわからず嬉しそうに跳んではねてとびきりの笑顔を振りまいていた可愛いい弟は、兄の知らぬ間に多くのことを知り、そして兄より先に愛する人間を見つけて巣立ってしまった。
 全ての愛を弟に注いできたといっても過言ではない悠人は、さすがにショックを隠しきれない。それでも里見の前だと思うと傷心している暇もなく、出来は良いが無節操で下半身のモラルが低い社長の尻を叩いてやらなければならない。
 別に社長付き秘書でもないのに、と思いつつ、それで特別に会長から直接手当ても出ているので、断る理由もなく続けてきたこの役目だが。
(もう我慢できない……!)
 里見の父親に、里見の社会人にあるまじき素行の数々を暴露して、即辞めさせてもらうつもりでいた。
 そんなことをあれこれ考えていた悠人は、里見が車をパーキングエリアに入れたことに気づかなかった。
 駐車スペースが空いているのに、キキッとタイヤを鳴らして里見が車を停めたのは休憩所から遠く、木々の植え込みに近い端の辺りだった。
「……! 何ですか。お手洗いならそうと言ってください」
「別に俺が運転してるんだから、構わないだろ。俺が何を目的としてパーキングに車を入れようが、ね」
 カチャリとシートベルトの金具を外す音が聞こえて、悠人もトイレに行っておこうとシートベルトを外し、ドアを開けようとした。
 だがドアにはロックが掛かっていた。つまみを引っ張っても運転席からセーフティロックを掛けられていたらしく、びくともしない。
「ロックを解除してください。ここでいつまでも休んでいるわけには行きませんし、早く家に帰して欲しいのですが」
 そして出来るなら、あなたの存在など視界の端にすら入れたくないとでもいうような視線を里見に向けた。
 そんな視線に動じる素振りもなく、里見は先ほどと同じように喉の奥で笑うと「本当に君ら兄弟は似ているね」と言った。
「私のことさえよくも知らないあなたに、そんなことは言われたくありませ……ッ、あ!」
 一瞬顔を逸らした悠人の隙をついて、里見は素早く悠人の座る助手席の下に手を入れ背もたれを倒すと、いきなりのことで反応の遅れた悠人が上体を起こす前に助手席に移り、上からのしかかった。
「こ……んな、ところで……また何の冗談ですか。私はこういう悪ふざけは嫌いです」
 里見を睨みつけた悠人は、里見が見つめ返してくる、その眼に、言葉が力を失くしていくのを感じた。
「俺はさっき、何を目的として車を停めようと、君には関係ないと言ったよ」
 里見は鋭い視線を向けていた。何かを寸でのところで押し殺したような声で紡がれたその言葉は、悠人が長い時間をかけて封印した遠い記憶を呼び起こす。
 その強い力に満ちた視線を一身に浴びて、体の内側で何かがゾクリとざわめくのを感じ、悠人はたまらず目を瞑った。
 それでも目蓋の向こう側から、ライオンのように獰猛で絶対的な力を宿す瞳が向けられているのが判る。
「や……っ、め…」
「俺はまだ何もしてないけど?」
 顔のすぐ近くで響いた、笑みを含む低い声に悠人はびくっと肩を竦ませた。
「『あの時』も、君はそう言って何もしていない俺を罵ってくれたよね? 今も覚えているよ」
 そしてその後、何をしたのかも、里見は覚えているのだろう。一度寝た相手の顔さえろくに覚えもしないような男が、たった一度きりの「過ち」を記憶の片隅に置いているというだけで、悠人は顔どころか首まで真っ赤に染まった。
「君が赤くなると本当に可愛いね。周りが暗くて判りづらいのが少し残念だけど」
 パーキングエリア内を照らし出す橙色の屋外灯に浮かび上がる悠人の表情は、家族でさえも見たことがないほどに脆く、弱々しく、そして扇情的であった。
 悠人は左手の甲を目蓋に押し付けて、少しでも里見の視線が触れないようにすることしか出来なかった。里見を退かそうにも、体が小刻みに震えてまともに力が入らないのだ。
 すると里見は拳を握って両目を覆い隠している悠人の指の一つ一つにキスを落とすと、耳元で吐息を交えて囁く。
「ね、悠人。眼を見せて」
「…………」
「いつまでもそうしていると、今度は最後まで君を貰うよ?」
 悠人はその一言に全身を強張らせた。
 同性同士の付き合いを毛嫌いしている悠人が里見の言葉の意味を知っているのは、知識として一応頭に入れているというのではなく、実際にされかけたことがあるからだった。
 同じ、相手に。
 数年前、まだ大学生だった悠人は、里見所有の海辺の別荘でサークルの合宿をしていた時、深夜里見のいる主寝室の前を通りかかり、偶然にも里見が昼間ビーチで逆ナンパをしてきた女性と性交しているのを目撃してしまった。
 そして次の日の夜、里見に呼び出された悠人は、いきなりベッドに押し倒された。
 最悪なことに、偶然見てしまったことを知られていて、その事をネタに責められ、気付くと今と同じようにのしかかられていたのだ。
『悠人は本当に純粋だね。しかも俺に媚びない。だから時々、めちゃくちゃにしてやりたくなるよ』と、幾分か力で押し負けてなす術もなく組み伏せられながら囁かれた台詞に、体の中で何かが生まれた。
 得体の知れないその「何か」は確実に、それまでの悠人には持ち得なかったもので、自らを戒めて封じ込めてきたものだった。
 里見の目は欲望に染まると不思議な力を持つのだろうか。
 ならば、体を惜しげなく差し出してしまう人間の気持ちもわからなくもない。
 自分はこれからどうなってしまうのだろう。
 何かが体の中で疼いている。
 その瞳から、逃れられない。
 ―――堕とされる……。
 それは今考えてみると、悠人がはっきりと「欲望」を自覚した瞬間だったのかもしれない。
 その得体の知れない何かが自分の中にあることを認めたくなくて、そのとき悠人は全てを里見に押し付けた。
 何でもいい。何を言っても構わない。とにかく、こんな感覚を抱かせるのは、目の前で獰猛な視線を向けるこの男だと。里見のせいなのだと悠人は決めつけた。
 無理矢理に引き出された快感が、自ら望んでいたことではないと必死で言い聞かせて、与えられる強烈な悦楽をその身に享受し、その得体の知れないものから解放されたとき、悠人はその胸に封じ込めたのだ。
 これまで築き上げてきたものが壊れないように。
 そして、以前は何も感じなかった同性間の恋愛に対しても、過剰な嫌悪の態度を示すようになった。
 それを今更になって呼び起こされては、悠人もたまらない。
 もう若気の至りでは済まされない。社会人という立場から考えても、法的・社会的見地から見ても、この男と行為に及ぶことは非常に危ないのだ。
 それなのにこの男は、わかっていながら悠人を他の人間と同じように奪おうとする。
「悠人」
 里見は悠人の鎧を一つ一つ剥がしていくように、囁いては、いたる所に口付けていく。
「……ぃや、です……。ど、いて…下さい」
 あくまで頑なに拒み続ける悠人を前に、思案顔になった里見は、すぐに何かを思いついてフッと笑みを浮かべた。不幸にも、目を自ら覆い隠していた悠人は気づかなかった。
 里見は緊張に震える悠人の首筋に唇を落とした。軽く歯を立ててやると、外灯に照らされて橙に浮かび上がる悠人の首筋に小さな痕がついた。
「…………っ」
「そんなに見たくないのなら、そうしていればいい。俺は俺で、勝手にやらせてもらうからね」
 これは自分の体であって、あなたのものではない。勝手にするなど許さない、と言いたいのに、悠人はその眼を見てしまうことが怖くて、唇を噛みしめた。
 そうしているうちに、里見はその宣言通り、悠人のきっちりと着込んだスーツの上着のボタンを外し、ネクタイを抜いて、シャツをはだけさせた。
 そして首筋に痕を残したときと同じように、胸についている小さな乳首をコリ……と甘噛みした。
「……っ、ぅ……!」
「悠人は、ココ弱いね。前も、それだけで結構感じていた。ちゃんと躾けてやれば、そのうちココだけでイけるかもね」
「じょ…だん、は……いい加減に、ぁ、っぃあ……!」
 再び乳首に歯を立てられ、反対側を指で捏ねるように回され、時折爪を立てて引っ掻かれる。
 それだけで悠人は小さく喘ぎ、声を洩らすまいとして必死に右手の指を噛んで耐えていた。その仕草が余計に里見を煽り立てていることなど、当然気づかない。
 薄暗い空の下、屋外灯に照らされて、唾液に濡れた乳首がぬらりと淫靡な輝きを放つ。それは硬く勃ちあがっていて、食(は)んでくれと言わんばかりに張り詰めていた。
「ほら、もうこんなに可愛くなった。悠人はスーツを着込むよりもはだけさせていた方がよっぽど綺麗だね。いつも見るたびに思っていたけど、俺の目に間違いはなかった」
「どこまで…っ、変態、なんですか……!」
「さぁねぇ。君がこの手に堕ちるまで、変態なりにテクを磨いていくことにでもしようか」
「堕ちるわけが……、ひ、ぃぁぁっ!」
 スラックスの上から、半勃ち状態になっていた自身をぐりぐりと押さえられ、悠人は悲鳴を上げた。
 先端からじわりと液が滲んで、下着に染み出していくのがわかる悠人は泣きたくなるくらいの恥辱を味わっていた。
 まさか、もう二度としないと誓った最悪のナンパ男に、隙を突かれて押さえつけられ、性急で淫らで、愛のない行為にこれほどまでに感じさせられているという事実を受け入れさせられざるを得ない状況が、何よりも悔しくて、それ以上に辛かった。
「上の口は素直じゃないねぇ。まぁ、誰だって最初はそうだけどね」
 くすりと笑った里見に、悠人はカッとなった。
 無理矢理押し倒してきて、その上過去、関係を持った他の人間と一緒にされている。もしかしたら、口に出さないだけで比べられているのかもしれない。
 そう考えただけで、悠人の中に猛烈な怒りが湧いてくる。指が白くなるまで拳を強く握り締めた。
「んのやろっ……、人を何だと思って……!」
 悠人は怒りに満ちた体を奮い立たせ、平気で人を侮辱する目の前の男に殴りかかった。
 車の中とはいえ、シートは倒されている為、拳を振るうには充分な間がある。しかし、それも里見は素早く見切り、避けてから手首を掴んで二発目を繰り出せないようにした。
「やっと、眼を見せてくれたね」
 里見はふわりと笑みを浮かべる。いつものうそ臭い愛想笑いだ、と思うのに悠人は胸が高鳴るのを止められなかった。
「お前なんか……昔の相手に恨まれて、刺されちまえばいい……っ」
 感情に任せて出た言葉は、確かに悠人の偽らざる今の「本音」だった。
 敬語も忘れて、相手を傷つけるだけの言葉を叩きつける。けれど胸の内でとぐろを巻いているどす黒い感情は一向に晴れなかった。
 それがだんだんと重みを増して、悠人は息が詰まるほど苦しくなる。
「っ……ぅ、くっ……ぅっ…」
 鉛でも飲み込んだような苦しさに苛まれた悠人は、やがて視界が滲み、里見の輪郭がぼやけて見えた。それは瞬きをするとすぐに治ったが、代わりに頬に熱いものが伝っていた。
「……悠人?」
 それが涙だと理解するのにはさほど時間は要らなかった。だが何故涙が溢れてくるのかはわからないまま、悠人はぽたぽたと零れるものを止めることも出来ずにいた。
 実は怒ると生理的に涙が出る体質なのか、とか、大量の塵が目に入ってきた、などと考えたところで、それで納得できるほど悠人の頭はめでたくない。
 明らかに今、悠人は傷ついていた。
 組み伏せられて何も出来なかったことよりも。
 心の伴わない行為に、快感を覚え、欲望を募らせていたことよりも。
 今までの、数え切れないほどいた相手と同じように扱われ、比べられているのかもしれないと思うだけで、鋭い痛みが、何もないと思っていた心に深く突き刺さる。
 今、こうして気まぐれに手を出すのも、理人に拒絶され、その恋人に乗り込んでこられて、結果的に何も出来ずじまいになって機嫌が悪いためなのだろう。自分の性欲さえ満たされればそれでいいのだ。
 そういう最低の男だと、悠人はわかっていたはずだ。誰よりも近い場所でそれを見てきたのだから。
 情が移ってしまうようなことなど、天地がひっくり返ってもありえない。
 だから、傷ついてはいけない。弱みを見せてはいけない。涙を流してはならない。そうする必要もない。
(頼むから、もうやめてくれ……)
 だらりと力を抜いてうな垂れる悠人の手首を放すと、里見は薄い氷で出来たような壊れやすいガラス細工を持つように、涙に濡れた白い頬を両手で包み、顔を覗きこんだ。
「ごめん、悪かったよ……だから、もう泣かないでくれ。ふざけが過ぎた。君があまりにも頑なで綺麗すぎるから、どうして手に入れてやろうかって昔から思っていた」
 昔とは、いつの話だろうか。
 少なくとも悠人が里見と知り合ってから、相手をとっかえひっかえしては、そういう間柄の人間が切れたことは一度としてなかったはずだ。
 それなのに、昔から、悠人を手に入れたいと思っていた、などと言われても、喜ぶどころか殺意さえ覚えてしまう。
「お、とうとに……手を、出しておきながら、今更何を……っ」
「悠人がそれを咎めるのなら、俺は一生かけて償うよ」
 つい数時間前に、どんな顔をして理人を組み伏せていたのかと考えるだけで、怒りと憎しみがない交ぜになって沸き起こる。
 それを言葉にして、いつものように冷静に詰るには、普段以上に言葉に力を込めなければならなかった。
「あなたの反省など、信じる気にもなれません……っ。あなた好みの人間が現れれば、その罪の意識も風の前の塵に同じです」
「信じられないのなら、俺の傍にずっといて監視でも何でもすればいいさ。それが悠人の仕事なんだろう?」
「あなたの相手になる、という事項は業務内容には含まれておりません」
「君は恋愛も仕事のうちなのか?」
「私はあくまであなたの監視兼世話役です。それ以上の関係になるつもりはないと言っているんです! いいから早く、そこを退いて下さい」
 鼻を啜って、頬に残る涙の粒をシャツの裾で拭うと、悠人は普段の冷静さを次第に取り戻していった。
「いいけど、その前に……」
「なん、……んっ」
 後頭部を押さえられ、重ね合わされた唇から吐息が奪われる。深く舌を挿し込まれて、悠人は甘い痺れがじわりと全身に広がっていくのを感じた。
「んん、ぅ……はっ、ぁ……ぃ、い加減に、しろと言っている……っ!」
 唇を離した途端、里見は悠人の強烈な平手をもろに受けた。バチンと小気味良い音を立てて里見の頬が鳴り、悠人は繰り出した手の平の痺れた感覚に似た熱を払うように、二、三度手をパタパタと振った。
「っつぅ……相変わらず、手厳しいね」
「反対側にもう一発食らいたくなければ、とっとと運転席に座ってエンジンをかけ、指先一寸たりとも私に触れないで下さい」
 はは……と頬を押さえながら、里見は苦笑して隣の運転席に移った。
 密着感がなくなって、悠人はホッと深い息をつくと、それからいそいそとシャツを直し、ネクタイを締め、上着のボタンを留めた。
 エンジンをかけ、悠人がシートベルトを締めるのを待っていた里見は、「はぁ」とあからさまに残念そうな溜め息をついた。
「……何ですか」
「いや、これでしばらくは悠人の綺麗な肌や可愛い乳首も見納めかと思うと切なくてね……」
「……しばらく、ではなく、この先一生の間違いでしょう。ご愁傷様でしたね」
 まったくこの男は本当に悪びれしない性格だ、と悠人は眉間にぐぐっと皺を寄せた。
「ま、キスマークが目に付くところにあるということに、満足しておかないとね」
「なっ……!」
 首筋に残る痕をスイッと素早く撫でられて、蚊でも潰すような勢いで悠人は赤く鬱血した箇所を押さえた。触れた場所は驚くほど熱く、悠人は恥ずかしくてたまらなかった。
「……私は、あなたが嫌いです」
「知ってるよ。君が人一倍素直じゃないこともね」
 普通の人間なら当然ショックを受けるであろう台詞さえ、悠人自身が驚くほどに力を失っていて、それがわかっていた里見には軽くあしらわれ、そして倍にして返されてしまう。
「―――〜〜〜っ」
 それ以上の言葉が見つからず、胸の内で唸る悠人に微笑んで、里見は車を発進させた。
 気づけば夜明けの陽に薄く光る空の下で、一台のBMWは、素直になれない男と愛の見えない不器用な男を乗せて首都高速を颯爽と走り抜けていった。



* * *

 こんばんは。蒼唯です。
 やっとブラコン兄にも春が来た! …と思いきやこちらも前途多難で微妙な関係です。
 どちらかというと、里見の方が前途多難という気もしますが……。
 私的に『兄はブラコンでしっかりものって感じだから、上司にいじめさせてみたい……』という軽いサド心があったので、こんな感じに仕上がりました。
 結構兄は純情キャラなので、即物的なくせにひねくれている愛でぐるぐると掻き乱して欲しいなぁなんて思っているうちに、里見がとんびのごとく油揚げ(=悠人)を奪っていきました。油断も隙もないです(笑)
 これをメインで書いたら、きっと濃厚なオフィスラブに発展してしまいそうな気がします。きゃぁ、大人の世界ダワvv
 ……っとと、暴走気味なのでクールダウンします。
 読んで下さってありがとうございました。


2007.10.11(Thu) 葉月蒼唯

End
*ご意見・ご感想など*



≪MENU≫