web拍手お礼SS(4) 「A sentiment」 【オーナー×シェフ】



 ない、ない、どこにもない!
 ついさっきまでここに置いといたはずなのに、何故消えた?
 開店準備に動き始めた厨房で、俺は他のスタッフが仕事をしているのをよそにたった今出してきたはずのバンダナの行方を捜してあっちこっちを覗いたり引っくり返したり漁ったりしていた。
 さっきスタッフルームで着替えて、バンダナを厨房でつけようとしたら食材の搬入に借り出されて、流しの脇に置いて出て行った。
 色々あって戻ってきたのが十五分後。
 どこかに落ちたのかとしゃがんで床の隅々まで見渡しても、愛用のバンダナはどこにもない。
 一応コックコートやズボン、ショートエプロンのポケットの中身を引っくり返してもみたが、出てきたのは百円ライターと残り三本しか入っていないタバコの箱だけだ。
 見当たらなかった時点で真っ先に他の厨房スタッフには聞いたが、みんな知らないと言う。
 確かに俺は置いたはずだ。
 戻ってきたら、消えていた。
 ということは、誰かが故意に持っていったということになる。まさかこんな都会のど真ん中にあるカフェの厨房に忍び込んで、バンダナを盗もうなんて奴はいないだろう。
 少なくとも、知らない人間なら。
 だが俺は残念ながらそういうことをしそうな奴を一人だけ知っていた。しかも何故か俺だけを狙う変わり者だ。
 いや、実のところ俺を狙うか狙わないかということに限らず、色んな意味で変な奴なのだが。
 このカフェで働き始めて一年半、気付くとバンダナが隠されていたなんてことは、一度や二度ではない。
 年の差や、雇われ者と雇い主という絶対的な上下関係を差し置いてでも、どうやら一度あの男には灸をすえなくてはならないようだ。
 俺の脳裏に、何を考えているのかわからないが見た目だけは物凄く良い笑みを浮かべたこのカフェのオーナー、青柳留畏の顔が浮かぶ。
「あんのクソオーナー……」
「おっはよーございまーす!」
 俺がわなわなと怒りに拳を震わせていると、厨房のドアが開いて陽気で可愛らしい声がその場に響いた。
「おはよう、さゆちゃん」
「さゆちゃん、今日も元気だねぇ」
「はい、それはもう。ここ来るとそれだけで元気になりますよぅ。目の保養だわ〜」
 俺よりも前から働いている厨房スタッフの先輩方に、さゆちゃんこと有栖川沙由紀(ありすがわさゆき)は、俺には意味のわからないことを呟きながら頬に手を当ててうっとりとした。
 いつもの事ながら、突然響いた大き目の声にうっかり煮え滾っていた怒りも一瞬にして殺がれてしまう。
 毎度毎度、どうしてこんなにもテンションが高いのか。はっきりと聞いたことはないが、おそらく本人の言ったことに嘘はなく、だからといってそれが真実だという証拠などないが、目をきらきらと輝かせている有栖川を見れば納得せざるを得ない。
 働き始めて一年半のペーペーな俺はともかくとして、ここのカフェに勤めるスタッフは美男美女ばかりだ。オーナーの悪しゅ…いや、経営手腕の一端をみることができる。
 勤め始めてからわかったのだが、このカフェは都内一帯に何店舗か店を持っていて、親会社はティーンエイジからヤングアダルト向けの有名なアパレルメーカーだった。
 狙う年齢層が若めなためか、フロアや厨房スタッフの容姿にも一定レベル以上を求める傾向があるらしい。平均年齢も若く、一番年長で確か三十代後半のバリスタがいるくらいだ。
 カフェまでそんなことはしなくてもいいんじゃないかと思うし、大体俺がいる時点でその容姿のレベルがどの程度のものであるのかは疑問に思うところだが。
 かく言う有栖川も、十人に聞けば全員が「可愛い」と答えるくらいの容姿をしている。
 黙っていれば守備範囲に入ってくるのだが、いかんせん元気が良すぎて、若干二十二歳の可愛らしいフロアスタッフは「妹がいたらこんな感じか?」くらいの認識しかなかった。
 そんな妹キャラ・有栖川は何故か俺のところまで来ると、にっこり笑ってもう一度挨拶をしてきた。
「おはよーございます、風見さん。どうしたんですか、怖い顔して。泣く子も黙る凶悪さですよ?」
「……どうしたもこうしたも、またあのオーナーが俺のバンダナ持ってっちまったんだよ。有栖川、あいつ何処にいるか、知ってるか。今すぐ取り返さねぇと、開店に間に合わない」
 泣く子も黙る凶悪さ。さすがにそれは言いすぎじゃないかと、脱力しながら青柳の所在を訊ねた。
 大抵店で、フロアスタッフに混じって注文をとったりテーブルに品を運びながら、客の動向や時間別に客層をチェックしているらしい青柳は、厨房スタッフよりもフロアスタッフの連中と仲が良い。
 有栖川はスタッフの中でも特に勤務期間が長いことから、青柳とは日常茶飯事に言葉を交わしている。
 聞けば居場所を教えてくれると踏んでいたが、有栖川は目を丸くして「今日はオーナー、まだ来てませんよ?」と答えた。
「なんでも、本社で報告をした後、すぐにファッション誌とグルメ誌の取材が入っているそうです。店には来るみたいなんですけど、早くても夕方になるって……。またバンダナなくなったんですか?」
「……あぁ」
 風見さんのバンダナ盗る人なんて、オーナーくらいしかいませんもんね、と有栖川は苦笑した。
 でもそうなると一体誰が……と、頭一つ分小さい有栖川の頭上から、もう一度コンロから調理台の上を見渡すと、見覚えのある色の布が、流しで水を張った鍋の下敷きになっているのに気が付いた。
「……あ」
 俺の視線に有栖川が振り向いて、もしかして、と小さく呟いてから流しに向かった。
「……風見さん、コレ、ですよね?」
 そして有栖川が手にしたのは、さっきまでピシッと糊のきいていたバンダナだった。
 今はすっかり土左衛門と化している。
 その場で捻り上げられたバンダナから、スープの色が移った水がボタボタと流しに落ちていった。
「……これじゃあ、使えませんね。洗濯しなきゃ」
 おそらく、流しの近くに置いたのがあだになったのだろう。きっと俺かその鍋を流しに置いた誰かが落として、気付かないまま鍋の下敷きになってしまったようだ。
 有栖川の言うとおり、俺もスープ臭い湿ったバンダナを使うのはごめんだ。
 だが生憎、俺には予備のバンダナがない。
「……どうするよ、コレ」
 伸ばし気味だった前髪は、目にかかるかかからないかくらいの長さだ。バンダナがなければ、何かで結ぶか後ろに撫で付けるかしなければ衛生面で若干問題になる。
 自分の眉間にかかる髪を両目で軽く睨めつけた。
「風見さん、前から思ってたんですけど、前髪ちょっと長くないですか?」
「長いな」
「切らないんですか? やっぱりこういうとき、困るじゃないですか。横内さんや小城(おぎ)さんは髪の毛短くしてますよ?」
 言われて、他のスタッフ……横内さんと小城さんにちらりと目をやった。二人とも、俺が来る前からここで厨房のスタッフをしていた。
 横内さんは俺と同じで料理担当、小城さんは俺や横内さんの専門外であるスイーツを担当している。
 しかし小城さんはスイーツのスの字も似合いそうにない、黒髪短髪の爽やかな風貌をしている。厨房スタッフの制服なんて着ていなければ、スポーツをやっている大学生にも見える。前髪は垂れるどころか、短いために重力に逆らってツンツンと立っていた。
 横内さんはこげ茶の髪を軽く後ろに撫でつけ、コック帽をかぶっている。前髪は前分けしている上に撫で付けてコック帽までかぶっているのだから、目にかかるはずがない。
「まーなぁ……切りに行くのも面倒だし」
「でも衛生面考えると、あんまり放っておくのも良くないですよ。個人的には、似合ってるからそのままでいて欲しいっていうのもあるんですけどねー」
 しっかり最後には趣味を主張するが、数年も飲食店で働いているだけのことはあるのか、真面目な部分ではしっかりと咎め口調だった。有栖川にまでそんなことを言われるとは思わなかった俺は苦笑した。
「わかってるよ。そのうちな」
 仕方ない、今日だけはこのままでやるしかないか。
 前髪を利き手でかき上げて息をつくと、有栖川がフロアの制服のポケットから何かを取り出して俺に差し出した。
「? 何だコレ」
「髪留め用のゴムとピンです。慰め程度ですけど、ないよりはいいと思いますよ」
 手のひらで受け取ったのは、黒いゴムとヘアピンだった。
 ありがとう、と言いかけた俺は有栖川が……何と言うか、よからぬ事を考えていそうな顔で俺の頭を見ていることに気付く。
「……何」
「いえいえ。風見さんの髪で色々遊ぶのも楽しそうだなって思っただけですよー。あ、私にやらせてもらえますか?」
「……いや、それはお断りさせてもらうよ」
 ふふ、と悪戯に笑った有栖川に、一瞬青柳が重なって見えた。
 あんまりにも話しすぎて、青柳の変態が有栖川にうつったんじゃないのか。
 そうだとしたらますますあの男は許せないな、と思いながら早速借りたピンで前髪を留め、襟足まで伸びた後ろ髪もゴムで結わいた。
「……あ、いいじゃないですかー。カッコイイですよ」
「褒めても何も出ないぞ」
「お世辞じゃないですよー。……あ、そうそう、今日個室に風見さんのコース料理で予約が入ってます。ランチコースを一人分、それとディナーコースもいくつか予約があるので、よろしくお願いします」
「はいよ、了解」
 思いっきりついでだが、おそらくそれを言うのが本来の目的だったのだろう。
 まぁそうでなくても毎日のように厨房に挨拶はしてくるのだが、またいいもの見ちゃった、と言ってフロアに戻った有栖川に、せめて二日に一度くらいにしてもらわないと、さすがの俺も疲れると口に出さずに思った。
 カフェではあるが、ここには予約制の個室もいくつかあって、担当するスタッフがコース料理を作ることになっている。コース料理はランチやディナーが数種類あるが、各種一人で担当するため、メニューも青柳の許可は必要だが自分で考えたものを出すことができた。
 コース料理を任せられて半年になるが、時折有栖川や青柳から入ってくる客の様子や、リピーターが増えてきたことを知ると、それなりに実力はついて来ているのだと思う。
 季節ごとに料理を変えるため、これまでに作ったレシピはランチとディナーをあわせて四コース分。そのどれにもスタッフの話を聞く限りでは目立ったクレームもなく、同じ厨房スタッフ内でも上々の評価を貰っている。
 特殊な形態ではあるが、実力を試される仕事内容には十分やりがいを感じている。
「……ッし」
 バンダナは使えなくなったが、俺の作った料理を食べに客が来ることがわかると、現金ながらも俄然やる気が出てくる。……仕事はいつでもやる気十分なのだが、やはり気分はいい。
 改めて気合を入れなおして、今日一日の仕事に取り掛かった。


 昼時の厨房の忙しさときたら、それはもう殺人的なものだ。
 コンロやオーブンはフル稼働、熱い物は熱いうちに、冷たい物は冷たいうちに、という料理の基本原則を守ろうとすれば自然と口数も少なく、ひたすら鍋をかき混ぜフライパンを振る。もちろん繊細な盛り付けにだって、毎度のことといえども、集中力は欠かせない。
 そんな中、「風見さーん」という間延びした声が配膳用のカウンターから聞こえてきたときは、それはもう自分自身でもわかるほど物凄い形相になって「なんだッ」と乱暴かつ早口で返すくらいの余裕しかなかった。
「さっき風見さんのコース料理を予約された方が、風見さんに会いたいって言ってるんですけど」
「あぁっ? 何?」
「お客さんが、風見さんに、会いたいそうなんですけどーっ」
 よく聞こえなかったためもう一度聞き返すと、炒め物や調理器具の音が響く中、さっきよりは緊張感の篭った声がはっきりと聞こえた。
 丁度盛り付けに取り掛かっていた俺は、数分有栖川を待たせて、料理皿をカウンターに出した。
「誰が、何で。……これは八番テーブルな」
「了解です。……うーん、わかんないんですけど、細身の女の人でしたよ? 三十代くらいで、ちょっと目つきがきつくて、ショートヘアの……」
 どことなく風見さんと同じような雰囲気なんですよー、と顎に人差し指を当てて、思い出すように有栖川が答えた。
 三十代くらいで、短い髪、きつい目つきをした、俺に雰囲気が似ている細身の女……。
 そんな知り合いいたか……?
「あ、彼女ですか?」
「ちげぇよ」
 一瞬目を輝かせた彼女は、否定した途端に堂々と「なんだぁつまらない」と顔に書いた。
 少し考えたが、思いあたる節がない。そもそも今の俺は考え込む時間などないくらい忙しかった。
「ちょっとわからん。今は忙しいからどっちにしろ無理だ。もし会いたいんなら、アポ取るか、閉店時間に来いって言っといてくれ」
「わかりました」
 トレーに出来上がった料理を載せて、有栖川は店内に戻っていった。
 その時は大して気にも留めなかった。というか、気にする余裕がなかった。
 まぁ人様にお金を払ってもらって出す飯を作っている最中に、考え事をして集中力を欠いては料理人として失格だ。
 そう思ってすぐに料理の方へと頭を切り替え、午後のピークを乗り切きることに専念した。
 そして、二時半くらいになってようやく息をつく余裕ができた俺は、簡単に整理をしてから休憩に入った。
 賄い当番が作ったサンドイッチの大皿が置いてあったので、それを一個だけつまんで外に出る。今は食欲を満たすより、とにかく一服したかった。
 いつもゴミを出す時に使う、建物の裏側のドアから外に出ると、隣り合った建物との堺にあるスペースを適当に陣取って壁に寄りかかり、ポケットからタバコの箱とライターを取り出す。
 しかしすぐに馴染みのある紫煙が微かに漂ってきたのを感じて、ふと通りの方を見た。
 そして思わず目を瞠る。
「………っ!」
「―――よぅ、健輔」
 そこには三十代くらいの容貌で、こげ茶のショートカットの髪をした、目つきのきつい細身の女が立っていた。
 見た目だけでなく、久しく聞くハスキーで少し掠れ気味な声も、間違いなく……。
「……おふくろ」
「おぅ」
 若干斜に構えて立っていた正真正銘俺の母親である風見蓮(かざみれん)は、銜えタバコで男らしく微笑んだ。
 反対に俺は眉間に皺を寄せる。
「何だ、元気そうにやってるじゃないか」
「そりゃ、な」
 別におふくろと顔を会わせるのが嫌、というわけではない。ただ単に驚いただけだったが、おふくろ(というか、おそらくほとんどの人間)には拒絶反応に見えたのか「せっかく会いに着てやったのに、その仏頂面は何だ」と、二言目から文句を垂れてきやがった。
「来てくれ、なんて頼んでないだろ」
「あんたが、アポ取るか、閉店まで待てって言ったんじゃないのか」
「今は閉店時間じゃない」
「でも、休憩してんだろ? 別にそんな長々話すわけでもない。ただの様子見さ」
「余計なお世話だよ、まったく」
 気を取り直して、残り三本のうちの一本を取り出して、ライターで火をつけた。
 おふくろと会うのは本当に久しぶりだ。もう一年以上会っていなかった。
 ここで働き始めたのが一年半前だから、今はそこそこ落ち着いてきたものの、それまでは忙しくて実家に帰るほどの余力はなかった。
 コース料理を担当することになってからは、ほとんどの余暇をレシピの考案に費やしていたこともあって、趣味と実益を兼ねているとはいえ、実質的には休みなどあってなきようなものだ。
 息子に会えなくて寂しいなんて思うようなおふくろではない(むしろ人の尻を蹴り上げて有無を言わせずとっとと追い出す類の人間だった)ため、自分から訪ねてくるなんて考えもしなかった。
「何かあったのか」
 俺がそう訊ねるのも、当然といえば当然のことだ。
 おふくろはタバコを指で挟んで持つと、息を吐いてから「別に、何も」と変わらぬ態度で答えた。
「じゃあなんで、ここに来たんだよ。ここは職場だ。いくら親とはいっても、実家にいた頃みたいにからかいに来たんだったら、とっとと帰ってくれ。迷惑だ」
「久しぶりの再会なのに、何て冷たい息子なんだ。何て可哀想な私……」
 頬に手を当てて溜め息をつく振りをしたが、すぐに「そんな子に育てた覚えは嫌というほどあるけど」と喉の奥でクッと気障におふくろは笑った。
 どうして四十六にもなって容姿は三十代にしか見えない上に、そんな笑い方まで決まるのか。おふくろというより親父と呼びたいくらいだが、そうすると真剣に拳が飛んでくる。
 気の弱い男よりよっぽど男らしいおふくろは、親父よりも俺に対して何かと「男なら……」と言って説教を垂れるのが癖だった。
「会わないうちに、またすっかりいい男になって。その格好も板についてるじゃないか」
 今は頭一つ分背が低いおふくろは、俺に歩み寄ると、ばしばしと背中をどついてきた。
「っつぅ……。おふくろこそ、馬鹿力は相変わらずみたいで何よりだよ」
「だぁれが馬鹿だって?」
「馬鹿とは言ってないだろ」
 喧嘩をすると、必ずおふくろより俺の方が重傷になってしまうほど、おふくろの拳の威力は物凄かった。今でさえ、叩かれた背中はジンジンと少し熱を帯びている。
 この細い腕のどこにそんな力があるのか、まったく、この人の奇妙さにはついていけない。レベルで言うなら青柳といい勝負だ。
「最近はまったく連絡も寄越さないから、今の店とっくに辞めて、どこかで飢え死に寸前だったらどうしようかと思ったけど、その様子じゃ大丈夫そうだね」
「誰が飢え死にだ」
「だってあんた、ここ紹介したときに、面接終わったあとすぐ、『ここ嫌だ』って駄々こねたじゃないか」
 訝しげな目で一年半前のことを持ってくるおふくろに、俺は目を泳がせた。
「それは……まぁ……何というか…」
「あの時はオーナーがどうとか言ってたけど、別に悪い奴じゃなかったろ? 青柳は」
「そりゃ……」
 外面は完璧だろうよ、という言葉を飲み込んで「悪い奴じゃなかったよ」と取りあえずやり過ごした。
 面接終わってすぐ、制服に七分丈のパンツを用意してきて、足フェチを公言するようなやつの店で働くなんて、これ以上の不安はなかった。
 フロアスタッフの方はさすがにそぐわないと思ったのか、男はこげ茶のパンツの上に、黒いショートエプロンだ。有栖川も着ている女用の制服も、裾が短めのオーバーオールにこげ茶のニーソックスで、生足が露出するようなものではない。
 横内さんも小城さんも、そのパンツを着てくれれば上に何をあわせても構わないという変わり者ぶりには苦笑していたものの、若くして経営手腕においては業界から一目おかれているらしい青柳にわざわざ招かれた上、元々働いていたところよりも給料がいいという理由で引き受けたようだ。はっきり聞いたことはないが、他のスタッフも似たような理由なのだろう。
 俺は少し違っていて、コネで紹介してもらったというプレッシャーに負けた、とおふくろに思われるのが単に嫌だから、渋々働き始めただけだったが。
 オーナーと言っても、あの男の場合、元々ある親会社の専用オフィスにふんぞりかえっているわけではなく、現場で働く人間や客の観察は欠かさないし、料理に関しても一通りの知識は持っているようで、客が持つ印象なども考慮して盛り付けや使う食材に注文をつけたりすることもしばしばある。頭はいいし、時折腹の底に抱える野心を覗かせて、常に前向きな姿勢を崩さず、一歩ずつ確実に進んでいくことを心がけている。外見もいいし、雑誌でモデルのような仕事をしているわりに、考えることは堅実で真面目そのもの。俺がもしこの店で働いていなかったら、実に興味深い男だと思っただろう。
 しかし、悪戯が過ぎる(しかも、何故か俺だけに)部分が本質を悪い意味で覆い隠してしまっているため、素直に認めることが難しいというところだ。
「青柳とは、二年前に今の店で会ってね。根堀り葉堀りレシピやら食材やらに関して質問してきたんだよ。最初は『何だこいつ』と思ったが、一通りの知識はあったみたいで、業界にも多少精通していたし、こいつにならあんたを預けても大丈夫だと思ってさ。実際、ちゃんとしてるだろ?」
 青柳との出会いを懐かしむように語ってから、まるで昔からの友人のように信頼していると言外に匂わせながら訊ねてくる。
「まぁな」
 それ以外のところは最悪と変態を足して割ったような奴だけどな。
 心の中では毒づくが、おふくろの言っていることも間違っちゃいない。
 それさえなかったらとっとと辞めてやるのに。
「それにしても……」
 一度タバコを指に挟んで煙を吐いてから、おふくろは何を思ったのか前髪を留めたピンをいきなり外した。
「……何すんだよ」
「あんた、彼女でもできたわけ?」
 にやにやと笑みを浮かべながら黒ピンをぷらぷらと振るおふくろに、溜め息を吐きながら「フロアの子に借りただけだ。別に何もない」と奪い返す。途端、おふくろはあからさまに不満げな顔をした。
「あんた今年でいくつだ。未だに彼女がいないなんて、お母さんは情けないよ」
「別に欲しいと思ってない。仕事に専念したいのもあるしな。何か文句あるか」
 どうしてこう、女って生き物は色恋沙汰に興味津々な上に、完全に否定すると勝手に期待したくせに「なんだつまらない」って顔に書くんだ? なぁ、俺のせいなのか?
「ったく、おふくろも所詮女ってことか」
「あったりまえだろ。腹痛めて産んでやった尊い母親に向かってよくもまぁぬけぬけとそんなこと言えるな、あんたは」
「その汚い言葉遣いを改めれば、再婚相手だって引く手数多だろうに……っででで!」
 言ってから「しまった」と思ったときには、俺が逃げるよりも早くおふくろの指が俺の耳を捉えて、馬鹿力で引っ張ってきた。
「何度も言わせんな。私は再婚する気はないんだよ。……あんたの父親以上に愛せる男なんて、この世にはいないさ」
 ありったけの力を込めて気が済むまで耳を引っ張ってくれたおふくろは、真っ赤になった哀れな耳を押さえる俺にそう言って、少し自嘲的に笑った。
「……おふくろ」
「あんたも、あの人と同じ髪型すんの、いい加減やめな。料理するのには適していないだろ。まぁあの人も、料理の『り』の字も知らなかった頃の私がそう言ったって聞きゃしなかったけど」
 目元に落ちてきた前髪を上げて、軽くデコピンをかましてから、またいつもの不敵な表情に戻った。
「……そんなんじゃねぇよ」
 奪い返したピンで前髪を留めなおしながら否定する。
 本当は少しだけ嘘だった。
「そう? ……やぁね、それにしたって、あの人と瓜二つじゃないか。背丈も顔の形も、気持ち悪いくらい似てるし、似合ってる。何かの嫌がらせ?」
「そうだって言ったら?」
「問答無用でぶっ飛ばしてやるよ。……じゃあ私、これから用事あるから帰るわ。この調子で頑張んな」
「……言われなくても、頑張ってるっつーの」
 まぁた可愛げのない、と呆れたように笑って、おふくろは通りへと去っていった。
 俺は既に残像すら残っていないおふくろが見せた、自嘲的な笑みを脳裏に浮かべた。
 確かに、昔は意識してこの髪型にしていた。
 親父と同じ髪型にしていたのは、今じゃ二つ星レストランの看板シェフという肩書きを持つまでに上り詰めたおふくろが、未だに親父の作った飯より美味い物はないと言っていたのを覚えているからだ。
 何かしら親父の持っていたものを纏えば、少しは美味い料理を作れると思っていた。
 馬鹿馬鹿しい、憧れと願かけに過ぎない。
 同じ髪型で、同じくらい美味い料理を作っておふくろに食べさせてやれば。
 親父の遺影に涙しなくなるのではないか、と。
 ……初めておふくろが泣いているところを見たのは、親父が死んだときだった。
 親父よりも精神面に関してはひたすらスパルタ教育だったおふくろに、俺はおふくろの方が親父らしいとずっと思っていた。笑いが絶えず、常に前向きでめげない強気な性格と言葉遣いの荒さもあいまって、女らしいところなんて欠片も見当たらなかった。
 だから親父が不慮の事故で死んだとき、唇を噛んで静かに涙を流すおふくろが余計に痛々しく映った。
 眉につかないほど短くしていた前髪を伸ばし始めたのは、その頃だった。
「俺はもう、何とも思ってねぇけどな……」
 だが今は本当に、切りに行くのが面倒だという理由で放っておいているだけだ。
 紫煙を吐き出しながら空を仰ぐ。建物の隙間を流れる昼下がりの空は、今日も変わらずに青かった。
 ほんの少し感傷に浸っていた俺は、一部始終を見聞きしていた者が静かに立ち去る気配を感じ取ることもなかった。


 休憩から戻った俺は、またいつものように注文をさばき、個室予約の客から入ったディナーコース二組分も完璧にこなして閉店時間を迎えた。
 器具の片付けや厨房の掃除、翌日に備えた下ごしらえをしてスタッフルームに戻ると、丁度有栖川が女子用の更衣室から出てきたところだった。
「あ、風見さん。お疲れ様でーす」
「おぅ、お疲れ。……と、忘れるところだった。ピンとゴム。サンキュな」
 髪から外して差し出すと、それを受け取りながら有栖川はにっこり笑った。
「いえいえー、私も目の保養になりましたし。オーナーとさっき話してたんですよー、似合ってるって」
「はぁ? つーか……あいつ戻ってきてんのか」
 雑誌の取材やらなんやらで、夕方ごろに戻ってくると今朝有栖川から聞いていたことを思い出して、男用の更衣室へ目を向けた。
「まだ、いる? 中に」
 誰がとは、言わずとも心得ているのか、有栖川は軽く頷く。
「えぇ、いると思いますよ。さっき風見さんに用があるとか言ってましたし」
 げっ………。
 よりによってピンポイント指名かよ、とあからさまに嫌な顔をした俺に、有栖川は不思議そうに訊ねてきた。
「風見さんって、オーナーのこと結構苦手っぽいですよね」
「苦手っていうより嫌い、だな。人をおちょくるような奴、俺は嫌いなんだ」
 そういえば、有栖川もおふくろも結構そういうタイプだったな。どうして俺の周りにはそういう人間が多いんだ……と思いながら、低い声で短く本音を語る。
「風見さん、怖いです」
 からから笑いながら、何も本気で怒らなくても、と言って有栖川はスタッフルームから出て行った。時計を見るともう既に十一時を回っていて、おそらく俺と更衣室の中にいるらしい青柳以外は帰ってしまったあとだろう。
 げんなりしながら、更衣室のドアを開ける。
「やぁ、お疲れ」
「……ッス」
 一瞬でも有栖川の空耳であってくれと思っていた俺は、中に入った瞬間目が合ってしまった男に軽く落ち込んだ。
 こういうときは、余計なちょっかいをかけられないうちに、とっとと着替えて帰るのが一番だ。
 おふくろと久しぶりに話して、色々と思うところもあったためか、今はあまりいい気分とは言えない。
 そんな俺の微妙な心境を一ミリも理解していない青柳は、いつもの調子で早速俺の今日の髪型についてつつき始めた。
「今日の髪型、ゴムとピンだけさゆちゃんにもらって、自分でやったんだってね。バンダナも似合うけど、今日のも良かったよ。これからはバンダナと結ぶのと、交互にしてくれるといいな」
「はぁ、そーですか」
「うん」
 何故俺があんたの希望を聞かなきゃならんのだ。
 まったく聞く気がなかった俺は、エプロンを外しながら適当に返す。
「あーでも割合は三対一くらいで、結ぶ方が多いと僕は嬉しい」
「残念ながらもうしません。バンダナは予備のものをロッカーに常備するつもりですし、髪も切ります」
「えー、切っちゃうの?」
「切ります。誰がなんと言おうと切ります」
 やかましい、そんなのは俺の勝手じゃボケ、と心の中で付け足しながらパンツを脱いでジーンズに穿きかえた。
 俺は着替えている間中、ずっと青柳の視線が突き刺さっているような、むずむずとした感覚を背中に覚えた。
 実際上に着ていたシェフコートを脱いでランニングシャツ一枚になりながらふと後ろを向くと、視線が合ってしまった。
「何見てん…ですか」
 思わず敬語を忘れそうになって、慌てて付け足しながら訊くと、青柳は何も後ろめたいことなんてないと言うかのように、にっこりと笑顔を浮かべて「別に」と答えた。
 この笑顔が実にクセモノであると、最近になって気付いたが、今はそういうこともあまり気にしていなかった。
 このやり取りを自分の体と切り離された意識が他人事のように見ているような感覚で、身体とは別の場所で感傷にひたる心を馬鹿馬鹿しく思いながら、それを払拭できずにいた。
 こういうときは、早く帰って酔い潰れて寝てしまうのが一番だ。明日には何もかもが過去の話だと割り切れていて、思い出すこともなくなる。
 カットソーを着てから、丁寧に制服をたたんでロッカーにしまうと、自分のすぐ後ろに人の気配を感じた。それが青柳以外にありえないと冷静に考えながら口を開く。
「何してんですか。どいてください」
「……今日は少し変だね、君。何かあったの」
 いつもあんたは変だけどな、と思いながら、「別に、何も」と答えた。
 今年で大学卒業と同じ年齢になる男が、感傷に浸って他人から心配されるなんて、おふくろが聞いたら何と言うか。俺自身、そんな弱さを知られたくはない。
「……今日はあんたの悪ふざけに付き合ってる暇はないんです。早く帰りたいんで、そこどいてくれませんか」
 足元に置いたショルダーバッグのベルトを持って、その脇をすり抜けようとした。
「―――そんなに、古傷が痛むのかい」
「…………っ」
 その言葉に驚いた俺は足を止め、数センチ自分より高い位置にある双眸を見た。
 誰も知らないはずの事情を何故この男が知っているのかに対して驚き、そしてすぐに答えがわかって眉間に皺を寄せる。
「……盗み聞きなんて、いい趣味してんじゃねぇか」
「雑誌の取材の合間に店に立ち寄って、裏口から入ろうとしたら、たまたま話しているところに出くわしてね。そんなに知られたくないのなら、誰が来るかもしれないあの場所では話さない方が賢明だね」
 悪びれずに答えた青柳に、俺は小さく舌打ちした。
 誰のせいかといえば、俺ではなくおふくろなのだろうが、それによって俺の気分がすぐれないというのは俺自身の問題だった。
「……いずれにしても、あんたには関係のないことだ。吹聴して回るようなバカでないことを願っておく」
「酷いな、そこまで見くびられているとは思わなかった」
「日頃の行いなんじゃないですか」
 気を取り直して再び敬語を使い、それ以上の用はないと視線を外した。
 それじゃ、とドアに向かい始めると、突然バッグを持っていない方の手を強い力で引っ張られ、俺はすぐ隣にあった休憩用のソファに倒れこんでしまった。
「って……何しやが……っ」
 人がせっかく喧嘩腰になりそうだった感情を抑えてやったのに、まだ絡み足りねぇのかこのバカは。
 今度ばかりは、上からのしかかってこようとした青柳に、腹筋を使って上半身を起こしながら拳を突き出した。
 だが五割程度の力に抑えたのがいけなかったのか、素早く動いた青柳の手によって簡単に封じられてしまう。
「いい線だけどね、手を抜いた相手にやられるほど、僕は甘くないよ」
 掴まれた手をそのままソファに押し付けられてしまったため、ソファに逆戻りしてしまった俺は、真上から見下ろす綺麗なだけの両眼を睨めつける。
 すると青柳は何を思ったのか、空いている方の手で伸び気味であまり手入れの行き届いていない髪を数本指で摘んでもてあそんだ。
「これ、君の父親と同じ髪型なんだ」
「だからどうした。あんたにゃ関係ない」
「そんなに君に似ているんなら、お目にかかってみたいと思っただけだよ」
「んなら、とっととくたばれ。そうすりゃ親父にも会えるし、あんたがいなくなって俺にとっちゃ一石二鳥だ」
「君には悪いけど、僕は君にしか興味がない。だから遠慮しておくよ」
「悪いと思うんなら、今すぐそこをどけ。俺を家に帰らせろ」
「それはできない相談だ」
 そのとき、何故か青柳は普段のお綺麗な笑みを引っ込めて顔を歪めた。
 初めて見る苦々しい表情に少し驚いた俺は、その隙に抵抗する間もなく唇を重ねられた。
「……んんん…ッ」
 強引に口蓋を割って滑り込んできた舌は性急に思えたが、意外にも緩慢な動きで口腔を撫でた。
「……ん、ぅ……ふ…」
 角度を変えて何度も舌を吸われ、歯列をなぞられ、粘膜をかき混ぜられるが、そのどれもが奇妙なことに優しいとさえ感じられた。
 どちらともなく唇を離すと、青柳は何を思ったのか、摘んだままの髪を口元に寄せて軽く口付けた。
「僕は君の父親を知らないけどね。でも、この髪は君にこそよく似合う。僕は君に誰の面影を求めない」
「……だから?」
「そんな痛ましい顔をするのはやめて欲しい、と思っただけだよ」
「……はぁ?」
 わけがわからないとばかりに声を上げると、青柳は「自分で気付いていないのかい?」と髪を離した手で頬の輪郭をなぞった。
「今にも泣き出しそうな子供と同じ顔をしている。だから」
「…………」
 青柳の問題ではないはずなのに、無性に殴りたくなるような笑みからは想像がつかないほど、青柳は辛そうに眉根を寄せていた。
 今にも泣きそうなのは、あんたの方じゃないのかと言いかけたが、それは場にそぐわない気がして口を閉じた。
 どうしてこの男との空気を読んで気を遣うのか、自分でもよくわからなかった。
「だから、そんな表情をさせる君の両親が、とても恨めしいよ」
「……何だ、そりゃ」
 すると青柳は「今はわからなくてもいいよ」と口元だけに笑みを浮かべて言った。
 眉間に皺を寄せ、辛そうな表情をしながらも口元だけはいつもの笑った形をしていた。歪なその表情は、初めて見る青柳の「切なげな笑み」だったのかもしれない。
 少し間を置いてからもう一度体を起こそうとすると、青柳は体を離して片手の拘束も解いた。
 少し赤くなった部分を手でさすりながら立ち上がる。
 青柳は何もせず、傍に立って俺を見るだけだった。
「……何だ」
「髪、切るんならいい美容室紹介してあげるよ」
「いらん。床屋で十分だ」
「それは残念。僕好みの髪型にしてもらおうと思ったのにな」
「…………」
 呆れる。
 半目になって青柳を見ると、またいつもの何を考えているかわからない笑みを浮かべ、フフと楽しげに声を洩らした。
 さっきの顔は一体何だったんだ。夢か、幻か?
 って、そんなどうでもいいことを考えてるんだ俺。
「……帰る」
「気をつけて、お疲れ様」
 乱暴にバッグを鷲掴むと、俺は背中にかけられた言葉を無視して、足早にスタッフルームを出た。
「……あ」
 裏口から店を出て駅へ向かう途中、俺は自分が青柳のキスに対して何の抵抗もせず、嫌悪も感じていなかったことに気付いた。
「…………ッ」
 往来で突然立ち止まったまま、顔を赤くした俺は、おそらく青柳並みの不審者だったに違いない。
 今になって、ドクドクと心臓が急速に鼓動する。
「……クソッ」
 ―――調子を狂わされる。
 何度も何度も、この一年半で数え切れないほど思ったが、あの男と同じ場所にいるとろくなことがない。
 いつもは用心して、他の誰かがスタッフルームにいるうちにとっとと後始末をして帰っていたのに、今日は色々とあってそんなことにまで頭が回らなかった。
 明日からはちゃんと気をつけようと思いながら、また早足で歩き始めた。
 目にかかる前髪を摘んでも、思い出すのは青柳がそれに口付けたことだけだった。
 おふくろのことも親父のことも、何をそんなに沈んでいたのかと馬鹿馬鹿しく思えてしまうくらいで―――。
『そんな痛ましい顔をするのはやめて欲しい、と思っただけだよ』
 先ほどの青柳の不可解な言葉を思い出して、一瞬はっとなる。
「……まさかな」
 ふと振り向いて、遠く小さく見えるカフェのオープンテラスのあたりを見た。
 ……んなことあってたまるか。
 あの男が「こういうこと」を見越してちょっかいをかけてきたなんて、考えたくもなかった。



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