1、酔いが醒めたら 葛西彰のいつもの朝。それは、パンの香ばしい香りとコーヒーの程よい苦味を含んだ白い湯気を目の前に、新聞を読みながらニュースに耳を傾けつつ…というものだ。 だが、今日は違った。 平日の朝だというのに、時計は八時をとうに回っているにも拘らず、未だにベッドの中でしかも昨日着ていた服のままだった。 寝坊ではない。三十分前には起きていたのだから。 ただ一つ、動けない理由があったからだ。 「俺は昨日、一体何をしていたんだ……?」 頭を抱えながら横目にチラリと隣でスースーと寝息を立てている男に目をやる。 見た目は大学生。ルックスは悪くはない、というよりははっきりと「カッコいい」だ。 毛布の端から出ている肩を見ると、上半身裸か、もしくは何も身につけていないかだ。確認できないのは、単に葛西に勇気が無いからで。 起こすのもどうしてか気が引けて、どうにもできない状態だ。 このときばかりは、さすがの葛西も仕事のことなど頭からサッパリ消えていた。 二日酔いでズキズキと悲鳴を上げている頭を押さえて、もう一度昨日の夜のことを思い出す。 昨日は課内総出の飲み会だった。葛西の職場は中流企業の営業課だったのだが、葛西と同期の加賀が大手との契約をとりつけたと課内が大騒ぎをし、成り行きで飲みに行くことになったのだ。 元々酒に弱い葛西は断ろうとしたのだが、同期ということで、加賀本人から参加を要請され、主役の頼みも無碍にはできずに結局連れて行かれたのだった。 二次会、三次会と梯子され、3次会の途中で帰ると抜けだしたところまでは覚えているのだが、どうにもその先があやふやで思い出せなかった。 何をどうしたら、朝になって見ず知らずの男と一つのベッドの上で横になれるのか。 俺は同性もいけるような人種だったのか、などと冷や汗をかいたりしているうちに三十分も経過していた。 隣でもぞもぞと動く気配がして、びくりと肩をすくませる。 「んぁ〜……」 わけのわからない声を発して、隣で寝ていた男が目を覚ました。 すぐに葛西の存在は目に入ったらしく、一度目を細めてゴシゴシと腕で擦ってから、何も言わずに上体を起こして葛西と向き直る。 「どーも、おはよーございます」 「……は?」 「いや、『は?』じゃなくて、おはようって挨拶したんだけど」 それはいくらなんでも理解は出来る。葛西がわからないのは、何も思わずにただ普通に挨拶を交わそうとする神経の方だ。 あまりの非現実的な状況に葛西は何もいえなかった。 「あ〜、何も覚えてないって顔してるし。ヒドイな〜、俺はちゃんと覚えてるって言うのにサ、葛西サン?」 拗ねた様子でそう言われても、思い出せないものはしょうがないだろうと言いたげな葛西。 「お前を拾ってやる〜って真面目に呟いてたのは葛西サンだよ?」 その一言で、色々と考え込んでいた葛西の思考が音を立てて一時停止した。 最初の一声を出すのに何分かかっただろうか。反応が無いままの葛西を見つめながら、男は何も言わずに待っていた。 「―――俺が…お前を拾ってやる、だぁ〜!? …まっ、全く覚えてないんだけど」 そんな、今時の三文マンガ並の出来事には程遠い葛西の思考からは、自分のしたことが信じられなかった。 葛西に大の男一人を家で面倒を見るほどの経済的余裕はあるはずがない。一人暮らしなら少々余裕があるくらいだ。 それでも、弟の授業料を毎月仕送りすることになっているので、はっきり言ってそんな余裕など無いに等しい。 そんな無責任なことを言うほど酔いがきていたのかと思うと、家路についた後のことを考えるのがひどく恐ろしい。 とにかく、出来ないものは出来ないと、考えるよりも断ることを優先させる。 「わ、悪いけど、俺昨日かなり酔ってたんだよ。酔っ払いの戯言を信じるお前もお前だけど、俺も悪いと思ってる。だが、今の俺にお前を養うほどの金はないんだ。家に帰ってくれないか?」 「お前じゃなくて、永沢純だよ」 「人の話聞けよ」 「じゅーぶん聞いてるよ。でもさ、俺アパート追い出されちゃったんだよね。それに親戚も最近死んじまったし、身寄りが無いんだよ」 にっこりと笑っていられる永沢が葛西にはわからない。そんな状況なのを知らなかったのはしょうがないにしても、見ず知らずの他人についていくほど子供でもないはずだ。 「ガキかお前は……。友達とかは?」 「いるけど、あんまり頼りない。俺べつにタダ飯食わせてもらいたいんじゃないんだ。バイトはしてるし、新しいアパートが見つかったらすぐに出てくから、せめてそれまで待ってよ。ね?」 金銭的なことはしっかり考えているらしい永沢に葛西はホッとする。宿無しの人間を今すぐ出て行けと言えるほど酷な人間ではない葛西は、取り敢えずはアパートが見つかるまでならと、早々に苦渋の選択をした。 「……わかった。俺も自分の言ったことだから責任はちゃんと持つ。早く見つけろよ」 「まじ!? やった〜! 葛西サンってば太っ腹〜っ」 仔犬のように飛びついてくる永沢を避けようと体を引いた葛西は、そこがシングルベッドの上だということをすっかり忘れ、見事に体を滑らせて床に落ちた。 「……何してんの? 葛西サン」 「お前が飛びついてくるからだろうが。ガキっぽいことすんなよ。俺を殺す気か」 背中を打ったらしく、涙目になりながら葛西は背中をさすった。 「と、ところで、何でお前と俺が一緒にベッドで寝てんだよ。そ、それにお前服は?」 そう、それだ。葛西が物凄く青くなった理由。最悪の事態だけは免れたい一心だった。 「あぁ…葛西サンがシャワー貸してくれて、着替えるモン探すの面倒だったから、ズボンだけ穿いて布団の中もぐった。ついでに葛西サン、スーツ着たままバタンキューしてたから上着だけでもと思って脱がせておいたけど、寒くなかった?」 「あ、あぁ…ありがと、な」 それを聞いて安心したのか、大きく溜め息をついた葛西に「どうかした?」と聞いてくる永沢は他人事のように振舞っている。 気付いていないのならなおさらタチが悪かった。 「あ、それと、これからは俺のこと『お前』じゃなくて『純』って呼んでよ」 そんなのどうでもいいだろ……と葛西は投げやりに心の中で呟いた。 その後、大幅に遅刻しながらも出勤した葛西が、上司に怒鳴られたのは言うまでもなく、踏んだり蹴ったりな一日の始まりはこうして過ぎていった。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |