2、意外と気の利く大学生 葛西彰と永沢純の同居生活が始まってから二日目。仕事を終えて帰って来た葛西は「どうしたものか」と非常に複雑な気持ちでいた。 二日前まで二人は全くの赤の他人で、どこの誰かもわかっていない、もっと言えば一生出会うことのない人間同士だった。 が、運命の悪戯が招いたのか、それとも何かの因果なのか、葛西にとってはなんとも最悪な出会いかたをしてしまった。 直訳すると、酔った勢いで家に上がりこませた人間と同居することになってしまったのである。 まぁ八割以上は葛西の意志薄弱というかお人好しな性格が災いしているのだが、一度頷いてしまった以上は仕方がないと、既に諦めている。 リビングと寝室、それにもう一部屋のアパートだったため、いつもは仕事を持ち込んだりしている部屋に葛西は来客用に用意してある布団を敷いた。 改めて永沢の持ち物を確認してみると、ボストンバッグ二つ分しかなかった。私服とバイト先の制服、あとは日用雑貨諸々だ。 永沢は現在二十一歳で、大学はダブっているせいもあり二年生だ。 一年のときにロクに講義に出なかった所為らしい。遊びまくっていたという理由が葛西に言わせれば情けなかったが。 一人暮らしを始めてから、ずっと親戚の仕送りも断って何とか暮らしていたのだが、アパートで風呂の水を出しっぱなしにしたまま出かけてしまったらしく、帰ってきたときには大家の人がカンカンになっていて、出て行けと言われたそうだ。 気の毒だが、反面そんな人間をアパートに住まわせたいとは誰も思わないだろうという気にもなる。その大家も多少短気だっただろうが。 二日目、つまり今日の朝、今日は一日休んで身辺整理しておくと家に残る永沢に対し、多少後ろ髪を引っ張られるような心境でいつも通り出勤した葛西だが、アフターになって早々に帰ってきた葛西はかなり驚いていた。 身辺整理とは、自分の物を広げていろいろと整理しておくことではないのかと葛西は思っていたが、永沢にとっての身辺整理は家主のいないうちに掃除、洗濯、その他諸々の家事までをこなし、夕飯の用意までするということらしい。 何の断りもなくすることはあまり好ましくはないが、綺麗過ぎるほどになっている部屋を見渡して、葛西はやっぱりわけがわからなかった。 キッチンに立っていた永沢が葛西の心境などこれっぽっちも理解することはなく、呑気に「お帰り〜、今日は早かったね」と声をかけた。 「今日は同居記念に腕振るってゼータクにスペアリブとか作っといた。もうちょい煮込まないといけないから、先に風呂でも入ってきたら? もう沸かしてあるからサ」 新妻が「あなた、先にご飯食べる? それともお風呂?」と言っている場面を葛西は思い浮かべた。 今時の学生はこんなにも気が利くのかと驚嘆してしまう。葛西は自分のそう遠くはない学生時代の生活を思い出して、ギャップの差に思わず溜め息を洩らした。 「どしたの? 葛西サン。もしかして具合悪い? 薬とか買いに行ってこようか?」 「いや、何でもない。先に風呂入るよ」 「そっ。じゃあ二十分以内には出てくんない? じゃないと料理冷めるし」 「はいはい」 上着とカバンを無造作にリビングのソファに放り、ネクタイを緩めながら生返事にそう返した。 自分の部屋に入ると、電気を付ける前から少し違和感を覚えた。目を細めてから電気のスイッチを押す。 なるほど明るくなった室内は出かける前よりもスッキリしている。ここまで掃除してくれていたようだ。まぁ予想できないわけではなかったが。 着替えを取って風呂場に向かう途中に永沢にあてがった部屋も覗いたが、荷物の出し入れなどはあまりしていないらしく、分厚い本や、今日買ってきたのか、読書用のライトと小さなテーブルが隅の方に敷布団と一緒に置かれていた。 葛西は風呂に入ると、頭と体を素早く洗い、五分ほど湯に浸かってから早々と上がった。 知り合いでも何でもなかった同居人が自分がすべきはずの家事をこなしていることが逆に不安だった。 あれだけ家事全般が出来ている人間が、まさか鍋をひっくり返したりはしないだろうが。 トレーナーに着替えてリビングに入ると、テーブルの上には鍋とサラダのボウル、ロールパンを乗せた白い皿にパセリを散りばめたスープ、脇にはワイングラスと白ワインのボトルが置かれていた。 これでたたまれたナプキンやら、蝋燭やらがテーブルに用意されていれば、本格的なレストランのスペシャルディナーだ。 「湯加減はどうだった?」 「……あ、あぁ。丁度良かったよ」 「そっか。んじゃ、食べますか。早く椅子に座って座って」 これくらい当たり前、とでも言うように普通に席に着かせようとしている永沢に、葛西は自分の感覚との違いに雲泥の差を感じざるをえなかった。 永沢はワインのコルクを小気味いい音を立てて引き抜き、ワイングラスにトクトクと注ぐ。 「このワイングラス、どうしたんだ? 俺はこんなもの家に置いた覚えは無いぞ」 「ああ、これはバイト先でもらったテイスティングやるときとかに使う本格的なヤツ。何か知らないけど客からもらったの思い出して、ロッカーに取りに行ってきた」 二人分のグラスに少し黄緑がかった透き通った液体が注がれ、永沢がグラスの足を持ち、つられて葛西もグラスを持った。 「ま、テイスティングなんて、知識なんかこれっぽっちも持ってないからしないんだけどさ。……とりあえず乾杯」 「か、乾杯……?」 少々疑問を抱きつつもグラス同士を軽く触れさせる。 乾杯……永沢にとっては喜ばしいことなのだろうが、葛西にはその言葉を使っていいのかといえば違和感がある。 自業自得とはこのことなのだろうかと思いながら、グラスの中で揺れるワインを一気に飲み干した。 永沢の作った本格ディナーはどれもレストラン並に味がよく、二人分にしては少し多すぎではないかと思われた料理も瞬く間に二人の胃の中へ納まった。 飲み口のサッパリしているワインは飲みやすく、食後にも少しずつ飲みながら、雑談をしていた。 「あ、俺あと三十分したら出なきゃいけないから、そろそろ片付けるよ」 永沢の視線の先にある掛け時計を見ると9時を回ったところだ。 「こんな時間にか?」 「そう。バイトだしね。今日はこのまま休めないかって頼んだんだけど、どうしても今日は出て欲しいって言われてさ」 「何のバイトしてんだ? 客から物もらうって、ホストでもしてんのかよ?」 「いんや。店のカウンターでカクテルとか作ってたりする、かな。ワイングラス、客が恋人のために用意したらしいんだけど、振られたって何故か俺にくれたの。…先に寝てていいから。俺帰るの一時くらいだし」 「そんなに遅いのか……」 逆に何かないのか疑ってしまうような帰宅時間だ。大学生のくせに、それでよく講義に出られるなと、その体力に感心する。 同居人のくせにわからない事が多すぎて、いまいち現実味の湧かない現状に、葛西は頬を軽く抓ってみた。 やっぱり目に映るものは変わらず、抓った頬がヒリヒリしてくるのを無駄に感じ取っていた。 鼻歌交じりに食器を洗った永沢は、連絡先をメモに残して、すっかり陽が落ちてしまった夜の外へを出かけていった。葛西がいつも寝ている時間になってもやはり帰ってくる様子はなかった。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |