-1- 重い体を引きずって、早朝の陽に照らされたビルの裏道をコンビニの袋を提げた一人の少年がふらふらと歩いている。 何も持っていない手は力なく歩調に合わせて揺れているだけだが、少年の目はボロボロの体とは反対にしっかりと意識を持って、今はまだ見えない「我が家」の方向へ目を向けていた。 辛くてもだるくても、少年は歩いて出かけ、そしてまた家へ戻ってこなければならなかった。 それがたとえ、金の代わりに全身を撫でまわされ、身の内を汚されるためだとしても。 何も持たない少年には、ただひとつ傍に在る愛しい人を守る方法がそれしかなかった。 住所不定無職、身分証明なしの無力な未成年。少年のここ一年の状況を述べろと言われたら、まずそんなところである。 だが、そんなことははっきり言ってどうでも良かった。「仕事」をし、金や生きていくのに必要なものを報酬として得てきたから、今もこうして生きていられるのだ。 それに、少年にとって自分が生きることというのはさほど問題ではない。出来ることなら、今すぐに雑居ビルの屋上から飛び降りたっていいだろう。 そうしない理由というのは至極単純で明瞭だ。 少年の大切なものを救えるのは、少しでも長く生かすことが出来るのは自分一人、ただそれだけしかないのだということを理解していたからだった。 「涼一兄さん!」 少年―――依岡涼一が、工事途中で打ち捨てられた廃ビルの一番まともな部屋に戻ると、涼一よりも頭一つよりも背の低い弟が布団を跳ね除けて駆け寄ってきた。 「お帰り。『お仕事』、ご苦労様」 疲れ顔をひた隠しにせずとも、可愛らしい笑顔で迎えてくれる弟・涼二の存在を視界に入れた途端、涼一は冷え切った心が徐々に温かみを取り戻していくのを感じた。 「あぁ、ただいま。今朝はサラダとサンドイッチを買ってきたから、一緒に食べような」 「うんっ、準備するね」 手に提げていたコンビニの袋を受け取った涼二は、コンクリート剥き出しの壁に立てかけられた粗大ゴミリサイクルのボロボロのちゃぶ台を埃っぽい床に敷いたブルーシートの上に乗せて、さらにたたんであったチェック柄のテーブルクロスをその上に敷いた。 その様子を見ながら、涼二が掛け布団を被って横になっていたところに腰を下ろした涼一は、シートの敷かれた床が壁際の一部分だけしか温まっていないことに気が付いた。途端、目を見開いて眉間に皺を寄せる。 またか、と涼一は両膝を立ててその足の間に深々と息をついた。 「涼二」 今に始まったことではない。簡単に治るものでもない。けれど時間の経過は心の傷を癒してくれると涼一は信じていた。 だが現実は想像した以上に厳しいものなのだと、まだ十六にも満たない甘えた思考を戒めた。 「なぁに、兄さん」 昨日買ってきた二リットル入りのペットボトルから紙コップにウーロン茶を注いでいた涼二は、何事も無いかのように振舞っている。だから一層、涼一は表情を険しくした。 「また、寝なかったんだな」 低く、怒りさえ孕んだ鋭い言葉は、涼二の「隠し事」をすぐに暴いた。 背を向けていた涼二は、ギクリと肩を強張らせて、その拍子にぼとんと中身がまだ大分入ったボトルを床に落としてしまった。 「あ……っ、お、茶が……」 横に倒れたボトルの口から、薄茶な透明の液体がトクトクと流れ出る様子に涼二はすぐ蓋をしようとしてキャップに手を伸ばした。 その細く病的なまでに骨ばった五指をぎゅっと掴んで、涼一は振り向こうとしない涼二を引き寄せて、同じように痩せ細っている自らの腕の中に抱き込んだ。 「ちが…、……何度も、何度も目が覚めちゃうから……横になってても、意味無いと思って……」 「何でそれを早く言わないんだよ。わざと寝ていたフリして、俺に何も言わずに済まそうなんて絶対思うなって、何度も言ったのに……っ」 「ご、めんな……さ……ごめ……なさ…」 今にも泣きそうな声で涼二は「ごめんなさい」を繰り返した。放したくないのに、それがただ痛々しくて崩れ落ちてしまいそうになる手足に力を込めて、涼一は「もういいから」と穏やかに呟く。 「とにかく、俺はずっと傍にいる。だから安心して寝な。夕方になったら、病院に薬を貰いに行こう」 「でも……薬代、とか……」 「涼二は気にすることじゃない。一回バイトすればそれくらい払える」 腕の中から大きく潤んだ瞳で不安げに見上げる涼二の頭をぽんぽんと叩いて、涼一は苦もなく微笑んだ。 零れたウーロン茶の後始末を軽く終わらせ、今朝は何も口にしていない二人は朝食を摂った。 その後寝床に涼二を寝かせ、涼一はその傍らに腰を下ろして寝付くまで頭を撫でてやった。やがて安心したように目を閉じた涼二の呼気がすぅすぅと穏やかに一定のリズムを刻み始めると、涼一はゆっくり、深く溜め息をついた。 (心の傷は、そう簡単には癒えない。……まさか、ここまで酷いとはな) 恨んでも状況が良くなるわけでもないが、それでも一年前にやっとの思いで抜け出した施設にいる人間の顔ぶれに、今でも殺意を覚えてしまう。 (あいつらさえ、いなければ……) 涼二がこんなにも辛く苦しい思いをしなくても済んだのに。そう考えるのは何度目であろうか。少なくとも、「こんな俺たちを拾ってくれてありがとう」と施設に入った当初、抱いていた感謝の気持ちよりはずっと、遥かに多い。 二人の両親が不慮の事故で亡くなったのは、一年前の夏のことだ。 父親は母親と出会うまで天涯孤独の身であったし、母親も実家が三笠組というヤクザの本家で、結婚するときに組のために愛のない契りなど毛頭結ぶ気はなかったため勘当されていた。 そのため親戚も疎遠で頼れる人間が誰一人いなかったために、養護施設へ入ることになった。 一度だけ、両親の名前を捨てる代わりに三笠の家へ戻ってこないかという誘いが施設を入って一ヶ月が過ぎた頃にあった。しかし涼一と涼二は断固として首を縦に振ることはなく、自分たちから縁を切ることを望んだ。 それまでは何事もなく過ぎた。施設の中でも仲間には恵まれたし、施設の職員の対応も暖かいものだった。 だが、三笠の話を断った日から二人に対する周囲の態度が徐々に変わってきたのだ。 引き取り手があるにもかかわらず、頼るもののいない仲間たちの前でその話を棒に振ったために、こちらの事情になど耳を貸さず、「せっかくの好意を無駄にした」「あいつらは恵まれているのに、わざと可哀想なフリをしている」「捨てられてもしょうがない」と嫌味を言う者が出てきたのだ。 望んで施設に入る子供などそうそういたものではないし、ほとんどが不本意だと思いながらも今の境遇を受け入れているはずである。そんな立場からしてみれば一度は施設に入った子供を「引き取りたい」と申し出る「心優しい存在」を拒むのに、両親の形見代わりの名前など取るに足らない理由なのかもしれない。 どうすればいいかと相談した古参の施設職員でさえ、唯一の引き取り手がヤクザだと知った途端、とばっちりは御免だと言わんばかりに二人から距離を置くようになった。 子供のいじめほど、陰湿なものはない。涼二は外遊びの時間に靴が和式トイレの便器に突っ込まれていたり、食事のときわざと足を引っ掛けて料理をこぼさせるなど、日を追うごとにエスカレートしていった。 一方涼一はあからさまな危害が加えられることはなかったが、冷ややかな対応とひたすらに無視をされ続けていた。 涼一は涼二の、涼二は涼一の理不尽すぎる現状を痛いほどわかっていた。だがここ以外に自分たちの居場所はなくて、いつ終わるか知れない悪質な集団いじめに耐えるしかなかった。 そんな日が続いたある晩、仲間だと思っていた同年代の子供からも無視されるようになってから、消灯時間には眠るようになった涼一の元に、別の部屋で寝ているはずの涼二が涙ながらに飛び込んできた。 暗くてわからなかったが、何事かとスイッチに一番近い者が電気を点けた途端、涼一は言葉を失った。 涼一の前にしゃがみこんで静かに涙を流していた涼二は、絵の具の溶けた水を頭から被ってぽたぽたと赤い水滴を滴らせていた。 その場にいた全員は凍りついた。だが、消灯時間を過ぎた後の騒動に駆けつけてきた職員は、絵の具まみれの涼二を見て、「それくらいのことで、寝ている子まで起こさないでくれる」と怒鳴ったのだ。 涼一はその言葉が信じられなかった。この状況を見て、言うことは他にないのかと胸ぐらを掴んで怒鳴り返してやりたかったが、周囲の視線に圧倒され体が竦んでしまっていた。 二人を責めることはしても、慰めの言葉をかけてくる人など、もう誰もいなかった。涼一は涼二を風呂場に連れて行き、ぬるま湯で絵の具を丁寧に洗い流したが、涼二はまるで生気が失われてしまったような顔色でがたがたと小さく震えていた。 二人を迎えに来てくれる者はもういない。職員にすら敬遠され、四六時中「敵」に囲まれている。安眠すら許されない。そんな状況の中でまともに生きていけるとは到底思えなかった。 だから一年前の秋も深まる頃、涼一は涼二を連れて施設を抜け出したのだった。 不幸にも、涼二が過度なストレスによる不眠の症状を起こしていることに気付いたのは、この廃ビルに腰を落ち着けてすぐのことだった。 どこで選択を誤ったのだろうかと、考えても行き着くところはただ一つ、三笠の家に戻ることを拒んだことだ。しかし、今まで何の音沙汰もなかった三笠が突然しゃしゃり出てこなければ、何も始まりはしなかったのだ。 (駄目だ……。こんなことを考えていたって、何も始まらない。今は涼二の不眠症をどうにかしてやらないと) すぐ隣で小さく寝息を立てている弟の頬を輪郭を辿るように指でなぞり、涼二が起きないことを確かめてから、涼一は小銭を持って音を立てないように部屋を出た。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |