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「……で、どうなんだよ、涼二の体は。治るのか」
「今は何とも言えないな。特に、一番側にいてやらなきゃいけない君がこんな状態ではどうしよもうないと思うけ、ど」
「っ、ぁ……! てっめ、人が真面目な話してんだろうが」
 まぁこんな状況で真面目な話もないか、と思い直しながら、涼一はベッドの中でモグリだが腕は確かな医者に「診察代」を払っていた。
 身分証明書もなければ保護者もいない、しかも十六にも満たない年齢ではまともに働かせてくれるところなどないに等しい。こうして抱かれることも、一年近く続けば慣れない方がおかしいだろう。「金を稼ぐため」にいちいち気負いなどしていては、涼一の身が持たない。
 むしろ、これで食べていけるほどの容姿で良かったと思っているくらいだ。
 貞操観念というものは所詮建前で。それさえ気にしなければ、こうも簡単に足を開くことだって出来る。
 涼一の場合、涼二のことさえ考えなければ、の話ではあるが。
(涼二……っ)
 今頃、涼一が抱かれる代わりに一晩貸してもらえることになった、小さいながらも手入れの行き届いた病室のベッドの上で、ぐっすりと眠っているであろう弟を思いながら、生理的な涙を堪えて歯を噛み締める。
 慣れてはいても、心の内では正直なもう一人の自身が叫んでいるのだ。こんなことはしたくない、と。
 涼二のことを考えていると、何も考えずに抱かれるときよりも苦痛が増していくことに涼一が気付いたのは、随分前の事だった。
 その理由も、この行為が本来ならどういう意味合いで為されるものなのかを十分理解していた涼一にはすぐにわかった。信じられないことではあったのだが、それを否定したところで今度は生きる理由をなくしてしまう。
 最愛の人間を助けるためならば、何をしても構わない。いつか、二人で安らかに暮らせる日を無駄だと言い聞かせながらも思い描く。
「りょ……っ、…ぅっ…じ……っ!」
「―――くっ」
 のぼりつめた瞬間、思わず口にしてしまった名前も、だから仕方ないのだと荒い息の下で思っていた。同時に果てた男も、涼一が弟の名前を呼んだことには気付いているだろう。
 本来は望まれない行為に、涼一も相手も、何を考えながらしているのか、思考の域まで制約することはなかった。
 互いがそれを望んでいるので、契約の条件の一つになっている。
 嵐のような一瞬の情動が緩やかに過ぎ去って、男は涼一の中から自身を抜き、落ちていた下着と寝間着のズボンだけ穿くと、涼一が自分で後始末をするために持って来いと要求した濡れタオルを用意した。
 余韻もなければまどろみもない。出会って一年近いが、二人ともセックスが終わっても意識ははっきりしていたし、睦言もなく、ひとつひとつに何の後腐れもない。涼一の相手は星の数ほどもいるが――何せそれ以外に金を稼ぐ方法がないため、慣れない頃は一日に何人も相手をすることさえよくあることだった――、こうしてお互いの距離を初めて会った時のまま保っていてくれるこの男が一番やりやすい相手だと思っていた。
「……望み、あんのかよ」
 ミネラルウォーターのペットボトルを片手にタオルを寄越した男が訊ねる。この男は涼一の許されざる想いに気付いてから、たまにそういうことを訊いてくるのだ。そこだけはいただけないと眉を顰めて、タオルを下肢にあてながら涼一は答えた。
「さぁね。ま、俺はあいつがいつか幸せになってくれたらそれで良いと思ってる。不甲斐ない兄貴ですまないっていうのが今の心境。こんな状況で想いだけ通じたところで、余計辛くなるだけだ。まぁ、どれだけ良い方に考えても結局その程度ってところ」
「お前も大概、意地を張るなぁ。中身はまだまだ中学生ってか。命知らずなマセガキにも怖いことってあるんだな」
「黙ってろ。変態モグリ」
「はいはい」
 こうして交わす言葉は涼一と同じ年頃の子供が友達と会話するものとほとんど変わらない。恋人やアバンチュールの相手というよりも、体の関係さえなければ、ただの友人という言葉がしっくりとくるだろう。
(こーゆーの、セフレっつーのかな)
 もし自分が普通の環境で育ったら、理解できなかったであろうその感覚が、不思議と嫌悪も違和感もなく涼一の身に馴染んだ。
 これもひとつの人生。現状を悲観したところで何も変わらないのだがら、所詮人は人、自分は自分と割り切るしかないのだ。
 聞き分けの良い部分が八割、本当は…と諦め悪く拒む本心が二割。涼一の心の割合を示すとそのあたりが妥当だろう。
 それでも意外と適応能力高い方なんかな……と思いながら、涼一は体液を綺麗に拭い、タオルを折り返して汗ばんだ部分をさっと撫でて、下着を探した。
「……弟くんの側にいてやりな。一応睡眠薬は出しておくが、気休め程度だし、あまり飲みすぎると、薬なしじゃ中々寝付けないようになっちまう。安心できる存在と一緒にいるのがあの子にとっちゃ一番の薬だ。最初からそう言ってるだろう」
 どこから持ってきたのか、そう言って男は新品の服をベッドの上に放った。見ると涼二の分の服もある。こういうところに気付くのもこの男くらいだった。
 特に季節の変わり目に涼一が訪ねてきたときにはちゃんと服を用意してくれるので、着るものに困ることはなかった。
「わーってるよ、そんなことくらい。でも…どうしようもないだろ。人と寝るのに涼二は連れて行けるわけがない。夏場は気温が高いから、電気も使えないあの場所じゃ保冷剤や氷とかも必要だったし、冷蔵庫は無いから使い回しも出来ない。体の弱い涼二には出来るだけ過ごしやすい環境を作ってやりたい。それには金が必要なんだ」
「誰か一人にずっと……っていうのだったら、住み込みもアリだと思うけどな」
「駄目だな。涼二のことはアンタ以外には言っていない。涼二の存在は知られたくないんだよ。手ぇ出される可能性だってある。あくまでも、俺たちは二人で生きていく」
 涼一は男に、三笠組のことを話してはいなかった。話せば、そこに行くのが最良の手だと言うのはわかり切っていたことだし、男が持つ患者の大多数は、暴力団関係者やその類の人間であるため、どこで話が洩れるかも知れない。
 その些か痩せすぎて骨ばった頼りない肩に背負うものは、二人で大切にしてきたものだ。今更まともな一生を送れるとも思わない。
 ただ生きていれば、幸せになれると信じて。
 今を生き延びることさえ出来れば、それでよかった。
 それだけを考えて生きていくことは、間違いなのだろうかと涼一は自問してきた。
 涼二を守りたいと強く願えば願うほど、空回りするばかりの行動に焦りと苛立ち、そして深く傷を抉られるような痛みが募っていく。
 どうしようもないじゃないかと頭を抱えても、一日が過ぎる時間は変わらない。生きるためにやらなくてはいけないことはたくさんあるのだ。
 だから涼一は、いつしかそう自分に問うこともしなくなった。
「決して、自分のところに来いって言わないから、アンタは楽でいい相手」
 へらっと笑う涼一に、男はペットボトルのキャップを閉めながらハァー……と息を吐いた。
「……そりゃ、どうも」
 だからまだまだ子供なんだと言いかけた男だが、結局言わずに相槌を打っただけだった。子供が不器用なのは今に始まったことではないし、守ってくれる親さえいない二人は、無茶でも二人だけでどうにかしなければならないのだ。
 深いところまで割り切ることが出来ないのは、この暗く冷たい闇(まち)の中で強かに在ろうとする者にとって致命的である。
 誰しもそう簡単に出来ることではないが、そうしなければ、いつかこの兄弟は……それこそ奇跡が起きでもしなければ、確実に命を失うだろう。
 それさえも、涼一は自分たちで決めると言い張る。ならば、余計なお節介はただの説教にしかならない。
 右から左へ素通りするような話をしても何の意味も無いことは、自らの経験できっちり理解している。これ以上は何も言うまいと男は思った。
「……そうそう、アンタも人のことは言えねぇんだよな。自分から臑に傷を持とうなんて酔狂も、今時珍しいね」
 真新しいジーンズに足を通しながら、さりげなく話題を変えた。男にとってはあまり好ましくない話を持ってきたのは、余計なお節介への意趣返しなのだろう。
 案の定、男の眉はぴくりと動いて、眉間にわずかな皺を刻んだ。
「性欲処理に使うんなら、誰でもするさ。別に珍しくもなんともない」
 すっぱり「性欲処理」と言い切られても、相手に対する情など全く湧かない涼一は、その通りなので何も思わない。こうして不機嫌にさせてからかうのも、涼一の楽しみなのだった。
「あっそ。口がヤニ臭かったから、また煙草吸ったんだろうとは思ったんだけど。アンタ、普段煙草吸わないし」
「俺だって逃げたくなるときはある。ストレスも溜まるんだ」
「性欲も、だろ?」
 フンと軽く鼻で笑えば、男は先ほどの言葉があだになっていることもあるのか、ぐうの音も出ないようだった。
「ま、せいぜい頑張れば? 年頃のオニーサン」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
 皮肉の込められたその言葉に、涼一は自嘲気味に笑っただけだった。
 男にも、想う相手がいる。しかもそれは男の一番身近な存在であり、血の繋がらない他人同士だ。
 同性愛に対して嫌悪を抱いているようなところがある、と、未だにアプローチすらろくにかけられないでいるらしいが、そんなことで悩めるのははっきり言って幸せなのだ。
 涼一には、決して越えることの出来ない血の壁がある。
 他人の人生を羨んだことなどほとんど無いが、赤の他人と自由に恋愛が出来る男が少しだけ羨ましいと涼一は思った。
 親もいなければ、想いを憚るような人間も周りにはいない。だが兄弟という血の繋がりは、誰よりも涼一と涼二が一番よくわかっている。決して拒まないというわけでもないが、可能性は赤の他人より幾分か高いだろう。
「アンタって、色んな意味で幸せだから、見ててちょっと弄りたくなるんだよね」
「何だ、そんなに妬ましいか」
「いんや、ただの暇つぶし」
「……このクソガキ」
「何だよ、チキン変態モグリ医者」
 少し厚手のカットソーを着込み、すっかり秋の装いになった涼一はにやりと笑って顔を洗いに洗面台へ向かった。
「生意気なことこの上ない」
 男はペットボトルを冷蔵庫に戻しながらうんざりそう呟いたが、言葉に対して顔にははっきりとわかるほどの笑みが刻まれていた。
 口で言うほど男は涼一の事を嫌いではなかったし、ただの哀れな子供だとも思ってはいなかった。
 こうして金の代わりに抱いてやることの、多少の「ボランティア精神」は否めなかったが。
 願わくば無事に生き抜いてくれ、と無意識に思うのは、恋愛感情とは別の情が心に生まれてしまったからなのだろうか。
 男と涼一の関係はこれ以上なくはっきりとしているが、患者の兄と医者という間柄でもある。基本的に患者には手を出さない主義の男からしてみれば、それだけでも十分驚くべきことであった。
 複雑な事情を抱えながら、不眠症を患う弟をひたむきに愛し、そのために身を汚す少年に興味本位ではなく関わっているからこそ、そう願ってしまうのは、闇の世界で生きる男にもまだ甘さが残っている証拠なのだ。
 それを簡単に肯定するつもりはさらさらなかったが、そうと考えている事を否定する気もない。
 ただ、それもまた一興と、男はそれ以上考えるのをやめて、窓の外に広がる漆黒の闇にふと目をやった。
 気付くと防弾の窓ガラスにぽつぽつと水滴がついていた。しとしとと秋の肌寒さが近づいてくる。
(嫌な雨だ……)
 男の苦悩と涼一の抱える現状を嘆くようなおあつらえ向きの静かな冷たい雨に、自然と男の表情から笑みは消えた。


This continues in the next time.
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