[PR] SEO

 
−1−

「先、上がりまーす。お疲れ様でした」
「おー、お疲れ」
 バイト先のバーでスタッフルームにいたメンバーに声をかけた西原陽司は、すっかり暗くなってしまった空を見上げて、思いのほか冷たい空気に身震いした。
「うぅ〜、さむっ」
 二月下旬は一月ごろと比べて大分暖かくなってきているが、それでも厚手の上着は手放せない。ジャケットの襟を引っ張って外気から体をなるべく守り、夜の街へと踏み出す。
 ちょっとした通りに出ると、上品な華やかさを演出した外観の店や、いかにも低俗で品のない店の照明が相まって特有の雰囲気をかもし出していた。
 愛用の腕時計を見ると八時を少し回ったところだった。煌々と光を灯した通りは、夜を知らないかのように明るい。
 空はとても暗いのに、その空が語る夜はとても遠く感じられた。
 駅へ向かう途中、時折感じる、不躾な視線に不快感を抱きながらも西原は感情を表に出すことなく、またそれを意識しないように注意する。が、無意識のうちに歩調は速くなっていた。
 容姿のほどは極上とまではいかないまでも、十分すぎるほど整った面立ちだ。アイドルやモデルのような社交性もサービス精神も皆無な西原だが、黙っていれば誰もが目を引くであろうその端正な顔に惹かれる女性は多い。デートや合コンの誘いも人並み以上に声がかかってくる。
 西原は大抵そういうものは断っていた。単に興味が持てないのだ。恋愛という言葉にも無頓着な西原には、生まれてからこれまでに恋人と呼べる相手をまともに持ったことがない。
 ただ露骨に嫌だといった場合の女の子たちの身勝手でずれた解釈のもとに正当化される「報復」はすさまじいものだと、中学生になって初めて告白してきた相手を無慈悲に断ったために思い知らされたのだ。そして相手の心情を読み、言葉を選び、表情とともに本音を隠すことを覚えた。
 そんな西原には、気持ちを寄せるだけ無駄なのだ。
 夕方、帰宅のラッシュとバイトの終了時間がほぼ重なっているので、ぎゅうぎゅうと詰め込まれた車内で息が詰まる思いをすること数分。西原の住むワンルーム賃貸の最寄り駅まで来た。
「そういえば夕飯のおかず、冷蔵庫に何もなかったな」
 今朝、家を出るときに朝食で冷蔵庫を空にしていたことを思い出した西原は、帰り道を一本ずらし、駅前のアーケードを通る。
 古くからの商店街は、八時を回るとほとんどが店じまいをした後だ。西原はその商店街の中で、場違いな自己主張をしているコンビニエンスストアの明かりを目指した。
 適当にパンとおにぎり、少し迷ってサラダを籠に入れ、レジで精算してから帰路に着く。
(帰ったら提出期限延ばしまくりのレポート仕上げないと。あと明日の予定を確認して……)
 俯き加減に歩きながら考え事をしていては、周りに注意が行き届かない。実際、西原はそれで何度も人や電柱や路駐の車にぶつかっていた。
 そして今日も、例に倣って人とぶつかる羽目になる。
 ぬっといきなり足元が暗くなり、西原がそれに気付いて顔を上げたのと、前にいた人間がぶつかったのはほぼ同時だった。
「ぶっ」
 西原は鼻を相手の肩口にぶつけ、相手は手に持っていた荷物を落とした。
 倒れ掛かった西原は、気付くとそのぶつかった相手の腕に支えられていた。
「あ、と、すいません…前見てなくて……」
 一応礼儀としてぶつかった謝罪はしたものの、心の中では
(確かに俺の癖も悪いけど、こんだけ広い道でどうしてわざわざ俺にぶつかってこれるんだ)
 と毒づいていた。
 そんな文句も、相手が「こちらこそ」といつものように謝ってくれればすぐになくなるささいな不満にすぎない。だが、今日は違った。
 ぶつかった相手は、西原から腕を離すと、いきなり鼻で笑ってきた。そして面白そうに呟く。
「いや……―――けないよな」
「……は?」
 意味深な言葉だった気がしたが、上手く聞き取れず、そこで西原は初めて相手の顔を見た。普段はぶつかったからといって相手の顔などいちいち気にもしないのだが、耳に残る微かな言葉の欠片が引っかかった。
「何でも。ただ、謝るときくらいは、相手の顔を見ろ。失礼だぜ、それ」
「はぁ……気をつけます」
(って、何でいきなり説教されてんだ)
 ますます不満タラタラな表情で、数センチ上にある相手――男だ。黒くて肩よりちょっと上くらいの長さの髪と広い肩幅で、ボストンバッグが足元に置いてある――の目を見上げた。
 ふと、その顔に既視感を覚えた。
 多分、見たことも話したこともない、道でぶつかっただけの赤の他人だ。夢見がちな乙女タイプの女なら、即座に「恋」なるものに発展していきそうな感覚なのだが、いかんせんその辺の回線は元から西原の中にはない。
 整った面立ちだから、ブラウン管の中の人物と被ったのだろうと、その不思議な懐かしさの混じる感覚に答えを出して、スッとその男の脇を抜けようとした。が、男も体をずらして西原の行く手を、今度ははっきり遮った。
「……何ですか。言っておきますけど、俺は普通の貧乏学生です。身売りもしてません」
「別にお前をどうこうするつもりはない。だが、久しぶりの帰国に話し相手が少ないのもつまらないからな。時間、あるか」
 失礼な西原の言葉にも表情ひとつ変えることなく男は話を進めた。
 帰国、というからには海外に旅行か移住でもしていたのだろう。整った面立ちのくせに、なりは妙にくたびれていて、顎の無精髭や、よれよれのジーンズとジャケットが変に笑いを誘う。
(……初対面で何かムカつくけど、このまま帰ってレポート片付けたって、時間は余るしな)
「……構わないですけど」
 少々迷った挙句、西原は頷いた。それは傍から見ればかなり軽率な行動だ。しかし西原は男について行くことにした。
 男は西原から腕を外すと、ボストンバッグを持ち上げて商店街の方へ入っていく。そこで初めて、男がバランスを崩した西原を、わざわざ持っているものを落として支えてくれていたことに気付いた。
 素直でない西原は、気付いたところでどうするわけでもなく、ただこっそりと「気障な男?」と呟いた。
 商店街の丁度真ん中辺りにある八百屋と団子屋の間には、細い道が通っている。普段は目に留まりにくいそこへ男が迷わず入るのを見て、西原はその道の存在に気が付いた。
 入ってすぐのところに、いかにも普通の住居を改造してできたような店があった。一メートル弱程のイーゼルがメニューを掲げていなければ、その店を探していたとしても素通り出来ただろう。そのくらい、その場に馴染みすぎていた。
「ここ。コーヒー飲むだけだ、すぐに帰す」
「はぁ……」
 たったそれだけなら、別に俺でなくてもよかったのでは? という言葉を飲み込んで、男の後ろについて店の中へ入った。チリンという来客を知らせる鈴の音が、バイト先の雰囲気とそっくりだと西原は思った。
「いらっしゃ……やぁ紺くん、久しぶりだね」
 店は長細く奥に続き、左手にある長いカウンターから壮年の男が、顔見知りであろう目の前の男に微笑んだ。
「あぁ、ただいま。ここも、全然変わってねぇな……。お前も適当に座れ」
 適当に、と言うわりに、カウンター席に着いた男はポンポンとその隣のスツールを軽く叩いている。
 西原は素直にそれに従うことにした。
「初めてのお客さんだね。初めまして、木村です」
 ネル袋を抽出済みのコーヒー豆と煮立てながら、西原に会釈をした。まるでずうっと前から知っているような人だ、と西原は思い、そして自分も「西原です」と自然に名乗っていた。
「……で、あなたは」
 ふと隣を見ると、男は屈んでがさごそとボストンバッグから何かを出しているようで、西原は何も言わなかったことにした。
 店内は男と西原、そして木村以外は誰もおらず、カウンター席六つとテーブル席二つが人一人通れるか、くらいの通路を挟んで設置され、壁には英語で書かれたメニュー――よく見ると、下にちゃんと日本語で書かれていて、しかもそれはすべてコーヒーだった――と大判の一枚の絵が飾られていた。
 それは外国のアパートが並ぶ路地を描いたもので、街灯が二本立ち、黒い猫が一匹こちらを見ていた。黄色い瞳だ。
 全体的にふわりと温かみがあるタッチと色使いで、その瞳の鋭利さが目立たず目を引くことはなかったが、西原はその雰囲気がどことなく気に入った。
 視線を元に戻すと、木村はネル袋の水気をギュッと絞って切っていた。ふと、隣で動く気配があったかと思うと、男は上体を戻してノートサイズの包みを木村に差し出した。
「これ、向こうでの土産。多分、こっちにはきてないだろ。限定本だしな」
「なんだい、これ」
「三百冊限定で出回ってる、昔の絵とかが載ってる画集。向こうじゃ気の利いたもん買ってこれなかったから、せめてものお詫びに」
「それは楽しみだ。ありがたく貰っておくよ」
 画集、という言葉に西原の耳がピクリと反応した。特に見たいとも思わなかったが、西原もそれなりに絵を描いたりしている。参考になるものが丁度欲しかったためだ。
「倉本。倉本紺だ」
「は、い…?」
 俺の名前、と顔も見ずに男…倉本は言った。西原の先ほどの言葉はしっかり聞こえていたらしい。
(そうならそうと、言えばいいだろ)
 どことなく会話がぎこちなかったが、初対面で半ば無理矢理連れてこさせられたのだから、仕方のないことだ。
 倉本は木村に「深煎りのオリジナル・アフターディナー・ブレンド」を頼んだので、西原もメニューからオーソドックスに選んで「ブレンドコーヒー」と言った。
「紺くん、個展の方はどうだった」
 木村は挽いておいた豆を計量器の上に少しずつ載せながら、倉本に訊ねた。
「堅っ苦しかったな。『ちゃんとした格好』なんて、俺には合わない」
「ははは…昔から、制服なんかも着るのを嫌がっていたなぁ、君は」
 苦笑しながらもそれが当たり前だと、普段どおりの本人に少なからず安堵しているようだった。ますます西原は居心地が悪かったが、それをあからさまに顔や言葉に出したりはしない。
「個展って…職業は何を?」
「あぁ…画家、だな。気が向けばデザインもやるが……」
 そこで西原は、今現在、世界的にも有名になりつつある天才画家の名前を思い出した。数日前に読んだ芸能関係の雑誌に取り上げられていたのが、妙に印象的だったせいだろう。
(確か名前は……倉本)
 じゃあ、と西原は目を丸くした。倉本はその表情に少なからず気を良くしたのか、はは、と小さく笑った。
「別に、俺が何者だろうと関係ないさ。今は放浪中の身で、この店の数少ない常連の一人で、三十手前の男だ」
 髪も髭もすっかり伸びたから、誰も俺がそのクラモトだとは思わないだろう? と冗談とも本気とも付かない口調で言った。実際に画家として活躍する倉本を西原は見たことはなかったが、無精髭の生えた顔を見て思わず笑った。木村は、数少ないは余計だと苦笑している。
「けど、あなたの作品にはとても興味があります。機会があれば、またお会いしたいのですが……」
 少々図々しい、と自分でも思ったが、やはりそうなってしまうのは悲しい性である。倉本は嫌な顔はしなかったが、苦笑した。関係ない、と言ったばかりだった。
「何だ、絵に興味があったんだんな。じゃあ、今度俺のギャラリーに招待してやるよ」 「ありがとうございます」
 気前よく了承した倉本が、自分の手の届かない場所で数々の作品を生み出し、天才と謳われている人物だとは、到底思えない。それが何となく西原は嬉しかった。
 だが、随分と現金な性格の自分に、西原は少しだけ苦笑する。さっきまで、変な男だと訝しげに見ていたのは何処の誰だったか。
「今日は随分と舌が回るね、紺くん。出かける前は期間と場所と理由しか告げなかったろうに」
 それとも、その隣の人に何か理由でもあるのかな、と木村は西原を見た。それはない、と西原が言う前に倉本は首を振った。
「木村さんと話すのも久しぶりだしな。それに……道端で拾ってきた以上、放っておくわけにもいかないだろう」
 言い訳がましく聞こえるのは、いつもの自分と違うことに気付いていたせいだろう。まるで仕方なく付き合ってやっている、というような失礼なその言い草にも、西原は笑って、あなたが勝手に拾ったんでしょう、と言った。
 倉本が訪れた異国の町の話をかいつまんで話していると、木村も相槌を打ちながらネル袋に豆を入れ、湯を注いだ。店内に立ち込める少し苦味の強い香りが心地よかった。
 数分後、液体を注ぐ音がして、ソーサーに載せられたコーヒーのカップが倉本の前に置かれた。
「深入りのディナーブレンド。今日は紺くんが帰ってくると言っていたから、深めに煎ったのを置いといたんだよ。本当に来てくれてよかった」
「ありがとう。それにしても、俺の好みを覚えていてくれたなんてな」
「数年間も通いつめてきた客の好みは、半年かそこらじゃ忘れないさ。それに、相手の好みを把握しておくのも大事だし、売りでもあるからね」
 初めての人はわからないけれど、とすぐにまたコーヒーの入ったカップを今度は西原の前に置いた。
「ブレンド。西原さんのイメージで苦味の強い豆をベースに酸味を利かせてみたけど、どうかな」
 コーヒーは好きだが、缶かインスタントで大抵飲んでいる西原に、豆の好みや良し悪しなどわかるはずもない。
 曖昧な表情を浮かべながらカップの取っ手を持つ。白く細い線を描いて立ち上る香りが、西原の嗅覚を刺激した。
 ブラックのまま一口啜ってみると、口の中にコクのある苦味と、それを引き立てるような酸味がじんわりと広がった。
「……おいしい」
 思わず口をついて出た言葉に、木村は「それはよかった」と優しく微笑んだ。
 冷え切った体を芯から温めてくれるその口当たりのいい苦味は、一瞬でその空間の住人にしてしまう。
 それは考えるまでもなく、木村自身の感性の鋭さがそうしているのだろう。どんなに美味しいと評判のものでも、欲しくないと思っていたら、必ずしも美味しいとは限らないのと同じことだ。
「いい味ですね。癖になりそう」
「気に入ってもらえて、嬉しいよ」
 カップをソーサーに置いてから、静かに西原は言った。そして木村もまた深みのある声音で返した。
 そしてどうしようもなくその場の雰囲気がおかしいと、三人で笑った。
 結局、この日は倉本の旅行中のことが中心に語られ、一杯目のコーヒーがなくなったところで西原が席を立った。
 倉本は二杯目のコーヒーを淹れてもらうつもりだったらしく、当然のように西原も付き合わせる気でいたのだが、提出間近のレポート、という西原のもっともな理由に引き止めるわけにもいかなかった。
「じゃあご馳走様でした。……また来ます」
 ほくほくと体に染みこんだコーヒーの余韻を感じながら、西原は心から最後の言葉を付け足した。
「どうもありがとう」
 優しい、まるで祖父のような笑い方をする人だと、やっぱりそう思った。祖父というにはまだ若いのだが、それを言っても木村は怒ることもなく、穏やかに苦笑をするだろう。
「西原」
 ドアに手をかけたところで確かな声で呼ばれ、思いのほか力強いその声音に西原は振り返る。
 すると倉本が小さな紙を差し出していた。取りに来いというところが、彼らしい気がするが、渡したいのなら自分が来るべきではないのかと思いつつ、西原はそれでも取りに行った。
 それは倉本本人の名刺だった。少々よれてはいるが、記されていた名前や住所、電話番号などははっきりと読み取れた。
「裏に日付が書いてある。その日はギャラリーに行くつもりだから、暇だったら来い。もし都合が悪いようならそこに書いてある番号にかけてくれれば調整する」
 それだけだ、と言ってカウンターに向き直った倉本に、西原はどうしてか少しの悪態もつくことが出来なかった。
「……ありがとうございます」
 西原は、神や運命なんていうものは基本的に信じていない。だが、天才画家に道端ですれ違い、しかも入るどころか近づくことすら許されないような彼のギャラリーに招待してもらえたのだ。
(まぁ、今日くらいは神様とやらを信じてみてもいいかもな。もしくは運命のいたずらという奴)
 既視感を覚えたのもそのためだと言うのなら合点がいく。
 そんなばかげたことを考えながら、その店を後にした西原は、澄んだ冷たい空気を吸い、今度は前を向いて歩き出した。
 美味しいコーヒーをタダ(もちろん倉本の奢りだ)で飲めて、画家のギャラリーにも招待してもらえて、ほんの少しだけそのことを噛みしめながら帰宅した西原だった。
 だった、が。
 やはり現実は現実だった、と。汚いにも程がある、壮絶な状態の室内に幻滅した。
「所詮、現実なんてこんなもんだよな」
(はぁ…幸せって、何だろう)
 後ろ手に鍵をかけ、靴を脱ぐと、立体模型やら紙やら本やらを爪先立ちでひょいひょい避けながら、ベッドへダイヴした。
 危うく壁にかけておいたイーゼルに頭をぶつけそうになる。物が増えすぎて、押入れの収納スペースすら無い状態だった。
(いつか俺は物に埋もれて死ねると思う)
 明日は片付けよう。何度も休日の前に言っては反古してしまう言葉をもう一度呟いて、論文に手を伸ばしかけた西原だが、その気力も失せたようだ。
「寝よ……」
(明日になれば、何かやる気も起きそうだし)
 その考えに何の根拠も無いことは、わざと突っ込まないことにしている。
 何にも手をつける気にもなれず、まだ就寝時間には早すぎたが、それでも西原は上着と靴下を脱いでベッドに潜り込んだ。
 そして数分後には、西原の被った毛布が規則正しく微妙に上下していた。


Continua alla prossimo volta...
*ご意見・ご感想など*

≪indietro(BACK)    prossimo(NEXT)≫


≪MENU≫