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 二週間後、西原は都内某所を小さな名刺を片手にうろうろとしていた。
 倉本からその名刺を手渡されてからというもの、部屋の掃除はいつまで経ってもぐずぐずと先延ばしにするわりに、名刺の裏に書かれた日時を空けることだけはさっさと済ませてしまった。講義の少ない今の時期は毎年バイトの時間を増やしているのだが、それも今日だけは休んでいる。
 事前にネットか何かで確認しなかった西原にも原因はあるのだが、簡易地図でもつけてくれればいいのに、とつくづく思っていた。
 都内に住所だけで辿り着ける場所など、外観がわかりやすいならまだしも、ビルの中となると、同じような顔をして道路の両脇に佇んでいるビルの群れから見つけ出すのは至難の業だ。
 名刺に書かれた時間と腕時計に目配せして溜め息をつく。探し始めてから十五分以上が経過していた。そろそろ約束の時間になってしまう。
 仕方なく、その名刺に書かれた番号に電話をかけようと携帯電話を取り出した。そんな情けない理由で助けを求めるのも気が引けていたのだが、そうも言っていられない。
 スピーカーを耳に押し当てると、待ちかねていたように一回で呼び出し音が途切れた。
『西原?』
 と何も言わないうちから確認するように訊ねられ、どうしてと言う前に西原は後ろから肩を叩かれた。
 驚いて振り向くとそこには同じように携帯電話を耳に押し当てたまま、倉本がニヤリと笑っていた。
「わ、るふざけは、やめてくださいよ…」
 いきなりのことで言葉が思うように出てくれず、途切れ途切れに西原は言って携帯電話をしまった。
「さっきからずっとこの辺うろうろしていたろう。打ち合わせしながら、何度も何度もビルの前をきょろきょろして素通りしてるのを見て、笑いをこらえるのに苦労した」
 倉本も西原に倣って携帯をポケットにしまい、名刺も場所もわかりにく過ぎるという目で軽く睨んだ西原を「こっちだ」と言って歩き始めた。
 そして案内されてみると、確かに何度も往復しては素通りを繰り返していた場所に倉本は入っていった。
 三階建てのビルは入り口が広く、薄汚れた雑居ビルとは違い、狭さを感じさせない造りになっている。
 中が小奇麗でところどころに装飾がなされているエレベーターで二階へ昇ると、ガラス張りのドアには白い文字で「Blu scuro」書かれていた。イタリア語で「紺」という意味なのだが、西原にはさっぱり意味がわからなかった。
 中へ入ると窓からの光を取り入れられるような作品の配置になっており、大きな窓の脇にはベージュの壁と同色のカーテンが吊るされていた。ワンフロアすべてがギャラリーになっているので、展示スペースが広く設けられている。見やすい間隔で壁に掛けられている様々な絵が個々に主張し合い、そして静かな調和を築いていた。
「まだ打ち合せが残ってるから、適当に見とけよ」
「あ、はい」
 そう言うと、倉本は窓際にある防音仕様の仕切りで囲まれたスペースに入っていった。
 まただ、と西原は思った。倉本の後ろ姿に目を奪われた。何故か、その背をずっと前から知っているような錯覚に陥ったのだ。
(気のせいとか、勘違いとか、最近多いな、俺)
 西原は額に手を当てて、よくあるよくある、そんなこと。たまたまそういうのが重なっただけという心の声にだけ耳を傾けた。そして一つ一つの作品を丁寧に見ていった。
「――――」
 多種多様のコンセプトで描かれていた絵は、見れば見るほど倉本本人とは釣り合わないと西原は思った。
(絵を見ただけで人を判断しちゃいけないと、これほどまでに思ったのは初めてかもしれない)
 西原は高校時代の美術教師を思い出した。
 その教師の作品は躍動感溢れるものが多かったのだが、初めて見たとき、その作風の力強さに、尖った刃物を突きつけられたような畏怖と戦慄が走った。けれど本人は柔和な笑みを浮かべる穏やかな性格で、とてもそんな迫力のある世界を表現するような人には見えなかったのだ。
 倉本の場合、特に初対面では「本当に絵が描けるとは思えない」という風に見えていた。そして今も「有名でちょっと意地の悪い、癖のある画家。あまり好きではないかも」くらいにしか思えていない。
 水彩にしても油絵にしても、構成・配置・筆のタッチ・色の混ぜ具合など、全てが見ている者を魅了するような一つの世界を創り上げていた。
 今にも音が風の音が聞こえてきそうな木々の揺れる森、逆に全ての音が消え、静寂の中にぽつんと浮かび上がる月夜の枯れ木……。
 写真ではない。けれども風や音、空気、その場にいなければ感じることの出来ないものが確かに西原の中に流れ込んできた。それは風景をそのまま映し出す写真や画像よりも鮮明で美しいものだった。
 そのまま掛けられた絵につられて行くように西原は壁に沿って進んだ。
 そして立ち止まる。
 フロアの一番奥、丁度窓の正面にくる壁に一際大きな絵が飾られていた。
それは夕暮れ時で、夕焼けの空を闇のような濃紺の夜が染めようとしている場面だった。そして手前にはその空をただじっと見つめる人物が描かれていた。
「…………っ」
 その絵が放つイメージが西原を支配する。
 空を見る人物は後ろ姿で表情は窺えなかったが、その夜の迫る空を見て何を感じたんだろう、と思うだけで西原は鳥肌が立つのを感じた。寒さや恐怖などではなく、ひとつの空と一人の姿にちっぽけな心を奪われたのだ。
 唐突に吹いた風に攫われたかのように、一瞬で。
「その後ろ姿の人、俺の親父」
「わっ」
 後ろから突然かけられた声に西原はビクリと体を跳ねさせた。
 見ればいつの間にと思わざるを得ないほど近い位置に、倉本の姿があった。倉本は振り返る西原に小さく笑みを浮かべ、そしてまた絵の方に視線を戻すと、西原の元まで歩み寄る。
「俺の親父が言ったんだよ。俺が生まれた日はそりゃあもう寒い日で、それで空気が澄んでいた。そして生まれた時間が夕方ごろで、窓の外を見たら夕方が夜に変わるときの紺色の空が綺麗だったんだ、ってな」
 空は何年か前に放浪していたときに見た別のもんだけどな、と付け加えると、おかしな親だろう? と苦笑した。
「だから俺の名前、紺なんだと。折角考えておいた名前やめて」
 空が綺麗だったから、紺。
 じゃあもうちょっと時間が早ければ橙だったのか、と突っ込みたくなる動機だが、西原はそれよりも、どんな気持ちで倉本自身がこの絵を描いたのかが気になった。
 空は綺麗だった。けれど淀みのない澄んだ空気の中に浮かび上がる空と父親の姿は、倉本の話を聞いた途端、何故か寂しそうに見えてくる。
 心なしか、横で同じ絵を懐かしそうに見る倉本が、冷めたコーヒーのような苦々しさを噛みしめているように見えた。
「あの…仕事の方は? 打ち合わせはいいんですか」
 急にすとんと現実が体に落ちてくると、静けさが息苦しくなって、西原は訊ねた。すると倉本は面白そうに笑った。
「な、何ですか」
「さっき、入り口のところで何度も担当が頭下げてたの、気付かなかったのか? 俺が近寄ってもじっと見てるし、ボーっとしすぎだぞ」
 いくら俺の絵がそんなによくてもな、という自信過剰な言葉に、西原は顔を真っ赤にした。
「あ、あなたとは全然つり合わないなって思ってただけですよ!」
「何、俺はそんなにも魅力があるわけだ」
「違うっ。あなたのように自信過剰で初対面の人間にも傲慢な態度の人が、こんなにも素晴らしい絵を描けるはずがないと思って……!」
 そこで西原は自分の失態に気付いて、慌てて口を噤むが既に時遅しだ。だが、倉本は気にしていないようで、よく言われるなそれ、と笑って流した。
(そんなことを言われ慣れてること自体、結構問題だと思う)
 西原は今度こそ、胸の内に留めることにした。
「まぁ冗談だ。ゆっくり見ていけよ。お前が知らない作品もまだたくさんあるしな」
 そう言うと、倉本はゆっくりと作品を見て回る西原について、説明を入れたりした。
「この湖はイギリスに行ったときに描いた。向こうはそのとき冬で、散歩がてら見に行ったら何となく気に入ってな……」
「へぇ……。寒かったですか?」
「そうだな。地理的に見ても、冬は日本より寒い」
 一般常識だろ、と倉本は言う。
(一人で見るのもいいけど……)
 この男といると、気持ちが安らぐ。軽い口とは裏腹に、感情の読めない表情で淡々と話す倉本を、心地よいと感じた。
 日々を何となく過ごし、その人生の一つの経験としてこの場にいる自分と、すぐ隣にいる倉本には大きな隔たりがあるのだと、距離感がなくなればなくなるほど、西原は思う。
 何かを想像し、何かを見て、何かを感じながら描き、見たままのそれを紡ぐ人間は、常に余裕があるのだと思う。いつでも緊張し、日々何かに追われて生きているような人間が、誰かを惹きつけ、感嘆の息を洩らすほどの世界を生み出すことは到底出来ない。
 そして倉本にはそれがある。
 わかりきっているのだが、西原にはそれがないのだ。
 気ままに生きているつもりなのに、その余裕と呼べる何かを手に入れることが出来ないのだ。
 描き続けることも、並大抵のことではないのは、個人的趣味の域で気まぐれに創作活動を続けている西原も知っている。
(心地いいと思うのは、俺にはないものをこの男は持っているからだろうな)
 その場の空気を、互いの持つもので補いながら時間を共有することに何の違和感もない。それは西原にとって初めてのことだった。
 西原は倉本がどういう人間なのか、少しずつ理解出来てくる。
 絵を見ただけで人を判断してはいけない、と思い知らされたはずなのに、それでも作品の中に表現されている緻密で繊細で正確な雰囲気と倉本は似ている、と思ったのだ。
 少しずつ、倉本に対する尊敬の意が芽生えだしていた。
 二週間前に道端でぶつかった小さな喫茶店の常連で、三十手前のただの男ではなく、天才画家と呼ばれるに値する感性と雰囲気と余裕を持った男なのだと、急に見せつけられた気分だった。
 この場に肩を並べて立っていることが恥ずかしいと感じるまで、そう時間はかからなかった。
 それでもちらりと倉本の顔を盗み見れば、そこにはなんら変わりない様子の男が自分の作品の一つ一つを吟味するような顔をして立っているだけで。
 芸術の世界で高い評価を受けていても、本質は普通の人間なのだと思い知る。
 冗談で天狗になっていても、本心で驕ったりしているわけではない。もしそうなら、西原の心は決して揺らぐことはなかっただろう。
 スッと、鼻先を何か懐かしい匂いがかすめた気がした。
 西原の意識は一瞬だけ遠くなり、小さな記憶が目の前に現れる。だがそれは一瞬で消え、目の前には先ほどまで見ていた路地の絵があった。
「…………?」
 次の作品の前に進もうとしていた西原は首を傾げて立ち止まる。それに気付いて、倉本は「どうした」と振り返った。
「あ、いえ……何でもありません」
「そうか。……もうつまらないか、俺の絵、見るの」
「そ、ういうわけではなく……」
 本心で否定する西原に、倉本は「もしそうなら、俺は傷つくぞ」と至極真面目な表情で言った。
「そんなに繊細な人には見えないのですが。それにもし本当にそう思っていたとしても言いませんよ」
「そりゃ、見えなくて当然。冗談だからな」
 西原は辛辣に言い、倉本は肩を竦めた。そして一拍置いてから、二人同時にぷっと吹き出した。


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