夜明けの空に沈む部屋エアコンの静かな稼動音だけが響くマンションの一室で、俺は少し倦怠感の残る身体を起こした。 隣で肩を縮こまるように寝入っている薫の、冷風に時折さらさらと揺れる黒い髪に指を絡めると、少し長めのそれはするりと指の間から零れ落ちてしまった。 ブラインドの隙間の窓の向こうは薄暗い空が広がっていた。数時間もすれば朝日が顔を出す頃だ。 俺は薫を起こさないように、背を向けている薫の髪に口付けてベッドから降りた。 一糸纏わぬ姿というのは、どうにも落ち着かない。俺はバスルームの前でくしゃくしゃに丸まっていた下着とルームウェアを拾って、とりあえず下だけを履いた。全部着込むには、まだ暑い時期だ。もちろん、薫の前と一人だけの時にしかしない格好だが。 リビングに行ってテーブルに置きっぱなしにしていたミネラルウォーターのボトルを呷ってから、深く息をついた。 闇に目が慣れてくると壁にかけてある時計が見えた。時刻はまだ四時過ぎだ。 雨戸の代わりにかけてある厚手のカーテンをサッと開けると、暗く少し濁った夜明け前の濃紺の空が、この場所から見える景色全てを覆っていた。 窓際に椅子を持ってくると、そこに座って朝日を待つことにした。 こんなことをしたのは初めてだったが、一度してみたいと思っていた。薫のように。 この窓から、この景色を見て、あの日薫は何を考えていたのか、俺は未だにわからなかった。 深い闇のような、光さえ飲み込まれてしまいそうなほどの瞳で見ていた空の下、街の中の、その景色に満たされたこの部屋で、俺は毎日寝起きを繰り返し、人が生きる為に必要な営みを何年も続けてきた。 それでもこの古い痛みを消すことは出来なかったのに。 薫のいる世界が俺の中に入り込んできてから、少しだけ苦痛が和らいだように感じるのは錯覚だろうか。 俺の中に、まだ過ぎ去って間もない夏の記憶が蘇る。 じりじりと焦がすような暑さの中、俺は堅苦しいスーツを着たまま、花束を抱えて墓の前に立っていた。 俺の家の先祖が眠り、この世にはいない俺の両親が眠り、そして俺もいつか葬られるだろう墓。 そして、俺の姉、由希が眠る墓だ。 ジジジジジ…と蝉の鳴き声が響き、空気を揺する風は暑苦しくて、立っていることさえ嫌になるような炎天下で、それでも俺はその場から動こうとしなかった。 俺の前に親父かお袋のどちらかの親戚が盆の墓参りに来ていたのか、既に墓は綺麗にされていて、燃え尽きた線香と火の消えた蝋燭、そして花が供えられていた。 俺は同じような花束を墓の前に置いて、数珠のない手を合わせて目を閉じた。 暑い記憶が脳裏にこびりついている。 親父とお袋、そして由希が乗った車が高速道路で玉突き事故に遭い、大破したという話を聞いたとき、俺は夏期講習の休憩時間で面倒な課題を先に終わらせようとさっさと弁当を口の中に詰め込んでいた。 かろうじて口の中の物を飲み込んだが、まるで重たい鉛でも飲み込んだような苦しさが胸を貫いた。 運転席と助手席に座っていた親父とお袋は即死、後部座席に座っていた由希も助け出されて病院に搬送される途中に死んだ。 ふらふらと塾長に事情を説明しに行って、家に帰ってからのことはあまり覚えていない。 何が何だかわからないうちに、祖父母や伯父さんの家族やなんかの親戚が葬儀の手配やら、相続どうこうの話を済ませていて、いつの間にか俺は子供のいなかった伯父夫婦の家に引き取られることになっていた。 いつかは訪れる人の死、ましてや親なんて、普通に生きていれば俺より先に死ぬのは当たり前だ。悲しまなかったわけじゃないが、それもしばらくすれば仕方ないことだと思えた。 けれど由希は違う。 たった二年しか違わない由希が、こんなに早く死ぬなんて、俺には考えられなかった。受け入れることも難しかったし、当時は到底無理な話だった。 二年違いでも決して「弟ならやってくれてもいいでしょ」なんていう、年上の先輩風を吹かせた物言いは決してしなかったし、俺と同じことを同じようにやり、両親以上に俺を気にかけてくれた。 優しい、姉だった。 優しくて、誰よりも柔らかな光に輝いていた。 そんな由希を、愚かにも俺は想っていた。 同じ場所には立っていられない相手。世間に姉弟とは認められても、それ以上の関係は許されない。 ならせめて、誰よりも傍にいて守ってやろうと思っていた由希が、俺のいないところで計り知れない苦痛に苛まれながら生を失った。 一人残されることの、孤独と痛みを知り、以来ずっと背負ってきた。 安っぽい慰めも同情も、本当に不要だということに気付かされる。自分の置かれた状況は嫌がおうにもついて来た。いつでも、俺の後ろを。 その事実を、声をかけられるたび、同情の意が込められた瞳を向けられるたび、目の前に突きつけられる。 三文漫画の悲劇の主人公の気持ちをそのままそっくり味わっているような気分で、余計に嫌だった。 そんな俺も大学を卒業して、中流企業に就職し、それなりに多忙な日々を送るようになって早数年。 一年ぶりの墓参りは、線香も用意せず、花を手向けるだけの淡々とした例年の顔見せのようなものになってしまった。 それは少なからず現実の重さが、人の死を過去のものとして、単なる一つの通過点(きおく)として処理してしまっているということだろうか。 いつまでも感傷に浸っていたって、過去に自らを縛り付けていたって、時間は残酷なまでに一定に過ぎていく。その中で俺はまだ生きているということを、自覚しなければならなくなった。 歩き出さなければならなかった。 けれどこの日だけは立ち止まる。 この、命日だけは。 この世から、親父とお袋が……由希が永遠にいなくなってしまったこの日だけは。 そんな風に、変に過去の回想なんてしているから、薫と初めて会ったとき、俺は幻覚を見ているのかとまず疑った。 目を閉じていると、冴えた耳からゆっくりとした足取りで近づいてくる足音が聞こえてきた。 近くで足音が止まり、気になって見ると、隣の墓の前に細身の女が立っていた。 この暑いのに俺と同じようにスーツを着こんで、まるで墓に葬られた誰かに恨みでもあるかのような強い瞳で墓石をじっと睨みつけていた。 その横顔が由希にとても似ていて、俺は思わず「何でここにいるんだ?」と呟いてしまった。 女はハッとなって俺の方を向いた。……正面を見てわかったことだが、驚くことに男だった。 「あ、とその……すみません。人違いをしてしまって」 人違い、しかも死んだ人間と間違えたことに改めて気がついて、そこまでする必要もないとわかっていたのに思わず深々と頭を下げた。 「そんなに謝らなくてもいいですよ。私の方が、悪いことをしているように思うじゃないですか」 朗らかに笑って、そいつは俺に頭を上げるように言った。 襟足まである黒い髪、病的なほど白い肌、抱きしめただけでも骨が折れてしまいそうなほどの痩せた体躯は、一見女にしか見えない。 何より、目を細め、口元に小さく笑みを浮かべた微笑み方は、余計に由希を連想させた。 それでも顔の輪郭や喉仏があるところは、男である証拠になるし、それ以前に、由希はこの世には存在していない。 それでも由希の眠る墓の目の前で、由希にそっくりな男と出会ったのは、さすがに驚いた。 「……私の顔に、何かついていますか?」 男は不思議そうに俺を見つめ返してきた。 知らずのうちに由希にそっくりな顔の一つ一つの部分に見入っていた俺は、「ええ、まぁ。でも、もう落ちましたから大丈夫ですよ」としか言えなかった。 俺の家のものと違って、男の前にある墓はほとんど手入れされた形跡がなく、この盆の時期に線香もろうそくも立てていなかったし、少なくともここ数年は誰も掃除に来ていないだろうと推し量ることが出来るくらいには汚れていた。 俺の視線に気づいて何を言おうとしていたのかわかったのか、男は「いいんです」と柔和な表情で言った。だが、その目は明らかに笑ってはいなかった。 深く飲み込まれそうな漆黒の瞳が、じっとしていても汗が滲むほどの暑さの中でも涼しげに光っていて、一瞬それに魅せられた。 由希とは違っていた。 だから俺は、その男ともっと話しがしてみたいと思った。 男―――都筑薫は、俺より三つ年下のグラフィックデザイナーで、一昨年専門学校を卒業したばかりの駆け出しのデザイナーだった。 薫は生まれて間もない頃に両親が亡くなっていて、血の繋がった家族はおらず、早い時期に養子として引き取ってくれた夫婦がいたそうだが、二人ともここ数年の間に亡くなったらしい。 今日の墓参りはその夫婦の墓かと思ったが、訊くと薫は首を横に振った。 「あのお二人には恩がありますし、さすがにあんなすさんだ状況にはしてません。あれは他の人の墓です」 ファミレスの安いドリンクバーの、それほど美味しくもないアイスコーヒーを飲みながら聞いていた俺は、あの鋭く強い感情に満ちた目を他人の墓なんぞに向けるのか、と心の中で呟いた。 「へぇ……他っていうと、昔の恋人とか?」 多少デリカシーのないストレートな質問だと思ったが、改めて訊き直すつもりはなかった。 すると薫は俺の顔をまじまじと見てから少し俯き、そして自嘲気味に口の端を吊り上げる笑い方をした。 やはり目は笑っていなかった。 「……いいえ、そんな関係ではありません。あなたのように、率直にモノを訊ね、曲がったことが大嫌いな……友人、でした」 俺は悪びれすることもなく聞いていたが、その言葉の端々に感じられる重みに、この男が想っていた相手なのだとすぐにわかった。 口調はとても優しいのに、どうしてそんな自らを嘲笑うような顔をするのか、そのときの俺には想像もつかなかった。 死んだ人間は、いつだって残される人間にとって残酷に刻まれていく。 その瞳に深く澄んだ色を秘めた、由希ではない由希に似た薫にも、同じようにその死を感じられたのだろう。 けれど薫は、続けて驚くようなことを言った。 「けれど、彼が死ねてよかったと思うんですよ。時々ね。彼が死んだとき、私は何故置いていったんだと、そればかり考えて恨みました。でも、彼の苦痛を一番理解してあげなければならない立場にいたのに、何一つわかってあげられなかった自分と現実を生きるより、苦痛からの解放を望んでいたのなら、私がどうこう文句をつける筋合いもない、とね」 そして薫は由希と同じ、優しい笑みを浮かべた。 俺はその言葉に目を瞠った。 薫は確かに今「彼」と言った。 つまり、死んだ薫の想い人は男だということだ。 そして薫は、身近にいながら何も出来なかった自分を棚に上げて、現実の世界の苦痛から解放された「彼」を責めることなど出来はしない、「彼」が望んでいたことが叶ったのならそれでいい、と言った。 それで本当によかったと思っているのかと訊くのは、さすがに躊躇われた。 「…………そうか」 俺はそれを事実としてだけ受け止めた。 これ以上、薫の詮索をしてかさぶたをガリガリと引っ掻くような真似をしたくはなかった。 由希と同じ微笑を持つ、儚げなこの男を傷つけたくはないと思った。 そして、その決して人には言えないだろう秘密を包み隠さず打ち明けてくれた薫が、俺に「あなたは誰の墓参りだったんですか?」と訊き返したとき、俺は全て話そうと思った。 世界でたった一人の愛しい姉を失ってしまったことを。 最初から望みのない、実らないと判っていた恋でも、今でも俺にとっては大切なものだった。 今でも由希が生きていれば、気持ちを打ち明けるつもりだったことも、もし由希がそれを受け入れてくれたら、親と縁を切ってどこかで暮らそうとしていたことも。 そんな、考えることさえ愚かな夢でも、本気で考えられた昔が少し羨ましかった。今じゃ叶わない永遠の夢だ。 もう無理だとわかっていたから、俺は気楽に打ち明けることが出来た。半人前の高校生にもなっていないガキが、深刻に悩んでいた頃を懐かしむ余裕さえあった。 お互いに脛に傷持つもの同士で、まったくと言っていいくらい知らない相手だったからこそ、この秘密を共有出来たのだろう。 けれど最後まで俺は「由希に似ている」とは言わなかった。 薫が気分を損ねるとか、俺が未だ縛り付けられていることを自分で証明したくないとか、そういう理由ではなく、俺は目の前の男を都筑薫として見ていた、ただそれだけだった。 それから俺と薫は、暇を見つけては待ち合わせて会うようになった。 仕事帰りや休日に、食事をしながら、あるいはどちらかの家に上がってひたすら話し込んでいた。 俺たちが互いに触れるようになったきっかけというのは、よくわからない。正確には、薫に何かがあったということしか、わからなかった。 出会って二週間が過ぎた頃、薫に呼ばれてアパートを訪ね、気づくと俺は薫に押し倒されて、唇を奪われていた。 驚いて薫の身体を引き離した俺に、薫は縋るような声で「抱いてくれ」と懇願した。 濡れた瞳が痛々しいまでに綺麗すぎて、その願いを俺は聞き入れることしか出来なくて、あとはもうなし崩しだった。 瞳以外、由希とそっくりな薫。 由希と同化して見ていたわけじゃないのに、時々まじまじと薫に見入ってしまうことがあった。そしてどうしようもない衝動が瞬間的に駆け巡る。 それの正体が何なのか、気付くこともなければ見当もつかなかったが、薫と身体を重ねて初めて判った。 俺は薫に欲情していた。 それでも、どうして薫に対してそんな気持ちになるのか理解出来ないでいた。 薫とは出会って二週間ほどしか経っていないし、お互いに永遠に叶わない恋の相手がいた。当人が死んだとしても、気持ちだけは心に残っていたし、俺もそうだった。 そうだと思っていた。 なのに俺は、誘われるままに熱く昂ぶった欲望を薫の身体の奥深くに埋め込んで、欲求を果たすべくひたすら楔を打ちつけた。 初めて腕の中に抱きとめたその身体は酷く痩せていて、今にも消えてしまいそうな気さえした。 目の前にいる薫を信じられないくらい、不思議な気持ちに満たされていて、それは心地いい感覚だった。 甘いだけではない。けど伸ばせば手が届くから辛くない。時折刺すような痛みが走る胸を押さえて、自然にその感覚に慣れていった。 ゆっくりとほの暗い闇に沈み込んでいくようなイメージ。 奇妙な罪悪感と、薫に日々溺れていく自分を切に感じ、そして薫はそれを拒むことなく、深いところで受け入れてくれている。 薫は一体どうして俺を選んだのだろう。 俺も同じように愛する人間を失っているから、同じ傷を持って互いに癒せるから? どちらかが損をして、どちらかが得をすることもなく、同じだけ傷を癒そうと考えたからなのか? 薫が俺に抱かれることを望んだのは、まだ出会って一ヶ月も経っていない俺たちに、深すぎる傷を舐めあう方法がこれ以外になかったからかもしれない。 けれど、と思う。 けれど俺たちは、傷を舐めあい、癒しているようで、同じように別の傷をつくって深く抉りあっている。 それに何の意味があるというのだろう。 それでも、過去の痛みや苦痛を忘れさせる方法に縋るしかないほど、薫には……もしかしたら俺にも、余裕がなかったのかもしれない。 薄暗い空が徐々に明るくなっていく。 目を凝らさなければ山と判らないでこぼこと連なった線の上に、白んだ部分と朝日に照らされて橙に染まった部分が見え始めた。 ―――もうすぐ夜が明ける。 でもこの疑問は明かされることなく、今日も闇に沈んだままだ。 俺は右足を椅子に上げ、その膝の上に顎を乗せた。 すると、両脇からゆっくりと細い腕が伸びてきて、俺の体を後ろから包み込むように軽く抱いた。 薫、と。 俺は訊きたかった。何故俺とセックスをするのか。 初めて俺のベッドの上でセックスをした後、この窓辺で薄暗い空を見ながら何を思っていたのか。 けれど俺は結局訊くことが出来なかった。 俺は薫に嘘をついていない。そして薫も俺に嘘はつかない。ただお互いに言わなくてもいいことや、訊かれていないことは言わないだけだ。出身地や、卒業した学校や、誕生日や、血液型のように。 俺が訊けば、薫は本当のことを言うだろう。 その先、俺たちがどうなってしまうのかが判らなくて、それが怖いから訊けない。 デリカシーのない率直な質問が得意な俺が、こんな風に考える日が来るとは思わなかった。 だから訊かない代わりに、俺は本当のことを薫に言った。 「……永遠なんて、この世には存在しない。そうありたいと、誰もが望んでいるけど、誰も信じちゃいない。―――俺もな」 ぐらぐらと崩れそうになりながら均衡を保っている、この状況がずっと続いて欲しいと思った。それこそ、永遠のように。 新たな傷が、消えないくらいに、決して癒すことが出来ないくらいに深くなって、互いを縛り付けてしまえばいい、と。 青い空気の中に沈んでいるリビングの、窓辺の椅子の上で、恋人でもなく、友人でもない情交の相手に抱かれながら、俺はどうしようもないくらい泣きたくなった。 らしくもなく真剣に考えたりするから、こんな情けない気持ちになってしまう。 そんな俺に薫は何も言わず、ただ細く頼りない腕で俺をそっと抱きしめてくれていた。 遠い昔、悔し泣きしていた俺を黙って抱きしめてくれた由希の、物言わぬ優しさに似ていて胸が痛い。 夜明けに沈む部屋は、気づくとまた日常の中に在った。 「……さぁて、朝飯作るか」 その痛みを誤魔化すように、そして薫に悟られないように意識して言うと、薫の白い手の甲に軽く口付けて、椅子から立ち上がった。 こういうもどかしくて、決して幸せではない恋愛の形というのを書くのも個人的には好きです。 長編はハッピーエンドが多いので、こんな話もあっていいかな、と思って、息抜きに書きました。 明日更新の「罪深き身を照らす陽」は薫視点になっております。 そちらもよろしくお願いします。 *ご意見・ご感想など* |