[PR] SEO

 
5、葛藤と悩み事


 その日から葛西は「The free sky」に足を運ぶようになった。
 なるべく早く帰りたい、というような生活になったので、開店直後の店で昼食を取る事が多かった。
 永沢のシフトとは重ならないので、たまに講義をサボって店に出る西原と話したりしていた。
 西原はT大学の四年生で、趣味は以外にも芸術品の鑑賞。教育学部に通っており、いずれは店をやめて、学校の先生になりたいらしい。
 社会人の自分と違い、やりたいことを見つけてその夢に向かって進んでいける姿が、葛西には羨ましく思えた。
 店の中は開店直後だと閑散としていて、客足も少なく話しやすかった。
 西原はカウンターでカクテルやコーヒーを淹れていて、ポジション的には永沢と変わらないようだ。  葛西は永沢が言っていた「店の評判」というのが少し気になっていた。本人に聞いてもはぐらかすだけで教えては貰えず、思い切って西原に訊ねた。
「そういえば西原。永沢が言っていた「店の評判」って一体どんなことなんだ?」
「え、葛西さん、永沢から聞いてないの? ここがどういうところなのか」
「聞いてないから教えて欲しいんだろ?」
 葛西の言い分はもっともだ。だが、西原は何故か曖昧に笑って返答を渋っていた。
 が、いかにも不満そうに半目で睨むように西原を見る葛西に折れて「しょうがないか…」と苦笑しながら話し始める。
「葛西さんはわかってないと思うケドさ、実はここ、特殊な恋愛事情の人間たちの溜まり場なんだよ」 「……は?」
「いやだから、ホモとかレズとかが来る店なんだ」
 悪戯に笑いながら言う西原の言葉の意味が、葛西にはよくわからなかった。
 というよりは、葛西の人生経験の中でそういう特殊な人間関係というものを知る機会がなく、はっきり言えば「ホモ」や「レズ」という横文字の単語の意味もよくわかっていなかった。
「……何だ、その……ホモとかレズって」
 頭の上にいくつもの「?」マークをつけて首を捻っている葛西に、西原は笑い出した。
「な、何笑ってんだよ……し、知らないんだからしょうがないだろ」
「い、いや……今時そんな世間知らずの人間がいるとは思わなくて…。だって小学生とかでも知ってることなのにさ」
「悪かったな、世間知らずで」
 顔を真っ赤にしながらレモンティーをグラスから一気に飲み干して、葛西はムッスリとした表情で西原の話を聞いた。
「つまりはさ、同性愛者がよく来るところなんだよ。最初は普通の飲食店としてやってたんだけど、こんな小さなビルの地下で深夜まで営業してて、しかもオーナー自身が同性愛者ってコトも関係してるのか、いつの間にか同性カップルの連れが多くなってさ。葛西さんみたいに、フツーの人が食べに来るなんてコト、今は稀になっちゃったわけよ。なんつーか、同じ穴の狢?」
 ゲイバーとしてやってるわけではなく、それらしい事もしていないので、同性愛者たちの間では穴場なのだそうだ。
「まぁ俺自身としては、同性愛者なんかよりも葛西さんの世間知らずな生い立ちの環境の方が珍しいと思うけどね」
「う、煩いな……ウチはそういう俗的なものは受けつけないような堅い頭の持ち主ばかりだったんだよ」
「それでも問題あるでしょ〜」
 葛西には全く想像もつかない世界が目の前にはあったが、だからと言って葛西自身が同性愛に偏見を持っているわけではなかった。
 人を愛することは当事者たちの勝手だろうし、本当に愛し合っているのなら問題はないんじゃないかという楽観的な考え方だった。
 法律や他人の目云々よりも、自分自身の気持ちを大事にしている意味では、同性愛者であっても本当はとても綺麗なのかもしれない。
 葛西は少し考えて、ふと思ったことを西原に訊いてみた。
「西原は……その、男が好きなのか…?」  そんな評判のある店だと知っていても尚、この店で働いているのだから、その可能性も十分に考えられるだろう。
 だが堂々と、というわけでもないが、若干率直過ぎる質問内容じゃないかと考えて、葛西は言ってから「やっぱりするんじゃなかった」と後悔していた。
そんな葛西の心境を知ってか知らずか、それでも西原はケタケタと笑った。
「う〜ん、考えたことはないなぁ。でも好きになったら男でも追いかけると思うよ」
 その返答に少なからず気が滅入ってしまった事実は、葛西の胸の内に閉じ込められることになった。
「きっと永沢の奴、葛西さんにそのこと言ったら気まずくなるんじゃないかって思ってるんだと思うよ。だから俺も迷ったんだけどさ。思ったよりも順応性があってよかった」
 心から安堵したように言った西原に対し、葛西の心境は複雑だった。
 これからも来てくれよな、と仕事場に戻る葛西の背中に向かって西原は言った。
 店を出てから、葛西の表情は少しだけ暗くなった。
 確かに偏見があるわけでもないし、店の雰囲気や料理も思った以上に良かったが、かといって自分が同性愛者だというわけではない。
 周りの目も少しは気になってしまう。
 このままで、本当にいいのだろうか…という言葉だけが頭の中を渦巻く。自分の知らない世界がこんなに近くにあった事がショックだったのか、はたまた心の奥底では拒絶しているのか。
 葛西の葛藤は会社に戻るまでずっと続いていた。


「純ちん、今日も葛西さん来てたぞ」
 その頃西原は、葛西が去ったすぐ後にかかってきた電話の相手をしていた。受話器の向こうにいるのはもちろん永沢だ。
『葛西サン、まーだ通ってんだ? さりげなく遠ざけるようにして欲しいんだけど、俺的には』
「理由もなしに来るなって言うのか?」
『それは…』
「安心しなよ。この店がどんなところか、今さっき葛西さんに言っておいた」
 一拍置いてから永沢は溜め息をついた。お前は何がしたいんだと言いたくてもなかなか言い出せないのは、西原も永沢の心境については何となく察しがついているからだ。
 言おうか言うまいか迷ったのは本当のことだし、かといってノーマルな人間が安易に近づくのは危険だ。いくら表立った問題が見えないとはいえ、ないとは言えないのだ。
 葛西なら酒の勢いでその気のある人間にホイホイ着いて行く可能性は十分考えられる。
 何せ酔った勢いで永沢を「お持ち帰り」するような人物だ。その反対もあり得ないとは言えない。
 永沢や西原にとっての唯一の救いは、葛西が開店直後に来るということだった。
 西原も葛西の前で「これからも来て欲しい」とは言ったが、葛西が動揺していることを見抜けないはずがない。
 それでいいんだ、と内心では思っていた。
「まぁこれで葛西さんが来なくなっても、純ちんにとってはいいんじゃないか?」
『何がよ』
「とぼけんなよ。葛西さんに惚れてんだろ」
 目を見開く永沢が目に浮かび、西原は苦笑を洩らす。
『…………』
「俺に隠し事なんざ百万年早ぇよ。…じゃあな」
 カラン…ッと店のドアが開く音がして、閉口していた永沢をそのままに、さっさと通話を断ち切ると、エプロンのポケットに携帯を突っ込んで「いらっしゃいませ」と営業スマイルを浮べる。
 表情が硬くなった葛西の横顔を見た西原は、誤解を受けてもしょうがないよな、と笑顔の裏側で諦め半分に開き直っていた。


This continues in the next time.
*ご意見・ご感想など*

≪BACK    NEXT≫


≪MENU≫