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8、心は動き出す


 店の中へ入ると、昼間の閑散とした光景が嘘のように、テーブル席にもカウンター席にも客がいた。
 こわごわと客の方に目をやるが、確かに同性同士の連れは多いものの、見た目はべつに変わらぬ一般人たちだ。
 得体の知れないものに不安と緊張の入り混じる感情が生まれていた葛西だったが、それほど何かを考える事もなかったのだと、フッと気を抜く。
 それぞれに相手はいるみたいなので、取り敢えずは食われる心配もないだろうと、安堵した。
「いらっしゃいませ。お二人様ですね。カウンター席しか今は空いていないのですが…」
「あぁ、それで構わない」
「ではあちらへどうぞ」
 加賀が入口のウェイターからカウンター席に促され、「行くぞ」という声で葛西はハッとなって加賀の後ろを追う。
 店内は他の飲食店と比べると静かだが、それでも昼間よりは大分賑わっていた。
 丁度2つ並んで空いていたカウンター席に腰を下ろして、早速手元にあったメニューに目をやる加賀とは対照的に、まだ落ち着かない様子の葛西は店内をキョロキョロと見回す。
 カウンターテーブルは葛西たちが座っているところから、直角に曲がって壁伝いに続いており、偶然にも座っていた二十代半ばの男と目が合う。
 葛西は小さく声を上げてからすぐに目を逸らす。
 一人で座っていたところを見ると、相手はいないようだった。
 これで葛西が一人なら即逃げ出すところだが、加賀がいる手前、相手も不用意には近づいては来ないだろう。そう思いつつ、葛西はカウンターにいるバーテンダーがシェイカーで作ったカクテルを注ぐところを眺めた。
 長くて細い指、シャカシャカとまるで一種のメロディーのように聴こえるシェイクの音、そして上品に注がれる透明で綺麗なカクテル。
 注文を受けてからカクテルに使う様々な種類の酒を選ぶそのバーテンダーに見惚れていた葛西はあることに気付く。
 少々癖のある髪、そして垂目気味だが細く大人びた目に、彫りの深い顔のつくりには見覚えがあった。
「……あっ」
 思わず洩れてしまった声に、メニューを見ていた加賀は顔を上げ、葛西を見る。
「どーした、葛西……。あのバーテン、お前の知り合い? ……例の同居人とかか?」
 何も言わずにただ一点を凝視している葛西の視線の先にいた人物を目にした加賀は、何も言わずともすぐに気が付いた。
 見覚えがあるのは当然だ。そこに立っていたのは、見紛うことなく永沢だったのだ。
 ただ向こうはこちらに気付く様子もなかった。
 葛西は来ない方がいいと忠告されたにも拘らず、知らなかったとはいえ連れてこられてしまったことに罪悪感を抱いた。
 永沢が葛西たちの方に顔を向ける寸前に葛西はグルンと百八十度角度を変えた。
「声、掛けねーのか?」
「あ、あぁ。ちょっと事情が…」
「喧嘩でもしたのか」
「えーと、まぁそんなトコ。それより早く決めろよ。俺が選べねーだろ」
 余計な詮索をされないうちにメニューに視線を落として、無理やりに促す。
 心配そうに覗いてくる加賀に内心手を合わせつつ、葛西は気付かない振りをしてメニューが渡るのを待っていた。
 そして水を二人の前に置いたウェイターにカクテルと料理を頼み、なるべく永沢に気付かれないように葛西は加賀の方を向いて喋り、時間を潰した。


「悪ぃ、俺トイレ行って来るわ」
 それから子一時間経ち、運ばれてきた料理はとっくに二人の胃袋の中に納まり、器も下げられたカウンターテーブルの上にはカクテルが二杯。
 加賀は自分の分をグッと一気に飲み干した後で、葛西に断ると席を立った。
 二十代くらいの女性のバーテンダーが注いでくれた海の色のような感じの透き通った液体をボーッと眺めながら、葛西は相変わらずシャカシャカとシェイカーを巧みに操っている永沢のことを考えていた。
 昼間ふいに思い出したことが一人なった途端にグルグルと渦巻き始める。
 永沢がいなければ今の状況ではどうにもならない。家事全般、今まで助けてもらったお礼も離れていくときになったら出来ればしたい。
 それも考えていかなければいけないことだが、それ以上に自分一人になる事が葛西を酷く不安にさせていた。
 それが普通なのだと言い聞かせようにも、どうにも整理が出来ずに思考はまとまらずグチャグチャになっていく。
 愚痴を聞き、世話を焼いてくれ、励ましてくれる。そして偏見にもめげずにここで働く事を大切に思っている永沢。
 たった一ヶ月にも満たない期間、離れていく事が淋しいと思わせるほど、葛西の中で永沢の存在が大きくなっていたのだ。
 目の前にいたバーテンダーが交代していたことにも気付かず、重苦しい溜め息を洩らす。
「葛西サン、何してンの」
 耳にジン…と響くように入ってきた声に葛西は顔を上げた。
 カウンターの向こうにはいつの間にか永沢が立っていて、ジーッと葛西の顔を眺めていた。
「ぅ、あっ…ってか…ぉまっ、あ…にっ」
「葛西サン落ち着いて。日本語になってない。さっきの女の人に場所変わってもらった。だからいんの」
 意味のわからない単語の切れ端と葛西の反応から永沢は問いなき質問に答えた。
「そう、それが訊きたかった」というように呂律の回りきらない葛西はコクコクと頷いた。
 が、それも束の間、永沢の表情は険しいものに変わっていく。
「葛西サン、俺言ったばかりだよね。夜、ここには来ない方がいいって」
 ヒソヒソと周りには聞こえないほど小さな声で葛西を問い詰める永沢は、怒るというより本気で葛西を心配しているように思える。
 忠告が葛西の身を案じてのものなのだからそう思えて当然だが。
「し、仕方ないだろ。同期の奴が飯奢ってやるって言うから付いてきたらここに来ちまったんだよ。止めようとしたけど、遅くてだな…」
 ごにょごにょと言い訳がましく反論する葛西に、永沢は呆れたように溜め息をつく。
「で、その人は今どこに?」
「加賀なら、トイレ行くってどっかに行ったけど」
「とにかく、早く出たほうがいいよ。この後俺、パフォーマンスでそっち側に出なきゃいけないんだ。それも十五分もあれば終わるだろうし、それで上がるから一緒に帰ろう」
「え、でも加賀いるぞ?」
「……俺がそうしたいの。それに、その加賀って人とはどっちみち途中でわかれるんだしさ」
 強く念を押すようなその言葉には有無を言わせぬような何かがあった。葛西は断る理由も見つからず、わかったと一言返した。
 その時チリリン…と葛西の後ろの方にある小さな舞台のようなところでショートプロンを見につけたウェイターがベルを鳴らした。
「お。じゃあ俺行くわ」
「あ、あぁ」
 何が始まるんだ…と呟きながら、葛西は永沢の動向を目で追っていく。
 永沢は短いナイフを数本ほどショートエプロンの紐の部分にさして小さな舞台に上がった。
 心配そうに世話を焼きたがるいつもの永沢とは違い、人前に出ることは慣れている様子の表情に微かに見え隠れする真剣な表情に、らしくもなく葛西は見惚れていた。
 同じ人間で同性を一日で二回も気付かないうちに見惚れたのは、葛西の人生の中では初めてのことだった。


This continues in the next time.
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