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8、共に歩むために


 拓海の背中を押しながら部屋の外に出ると、さっきよりはまだマシになったものの、不機嫌そうな依岡兄がジロリと拓海を睨みつけた。
 俺だってそんな風に睨まれたことはないから、余計に怖かったけど、手を出されることに比べれば、こんな視線だけの威嚇や脅しなんて可愛いもんだと思って気にしないことにした。拓海だって、警察に突き出されることを覚悟していたんだから、この程度じゃ屁でもないだろうし。
 立ち止まった俺たちに依岡兄は何も言わず、視線を拓海から外すと、あとは綺麗さっぱり拓海を無視してはっきりと俺に「行こう」と言った。
 その脇には長谷川さんもいたけど、長谷川さんは拓海を見ても表情筋一つ動かすこともなく、けどさりげなく俺のそばについた。
 一個人の邸宅にしては無駄に豪華で広い家だ……と思いながら、いかにもそれらしい装飾がいたるところに施された廊下を速めの歩調で進み、突き当りを折れたところの階段を下りる。
 階段の部分は吹き抜けになっていて、その天井に吊るされた、きらきらと宝石のように光るシャンデリアに思わず見とれてつんのめりそうになった。
 けど視線を元の位置に戻すと、下にはいかにも苛立ちを隠しきれない様子の宮村と、その隣で「何、どうかしたの」とでもいうような様子で壁に寄りかかりながらも組の人間に両脇から監視されている里見の姿があった。
「理人!」
 宮村は俺の姿を目に留めるやいなや、何かを話していた里見を放って急ぎ足で俺のところまで階段を上がってきた。
 一瞬、拓海の体に緊張が走ったのがわかった。
 俺は素早く宮村と拓海の間に入るように拓海の前に出て、宮村と対峙した。
「お前、身体はもう大丈夫なのか」
「あぁ、いい湯加減でシャワー浴びてきてちょっとはすっきり……っ、わぁ」
 俺の身体に何の問題も無いとわかった途端、宮村は周囲を憚らずに俺を抱きしめてきた。
 オイ。あんたは鋼鉄の心臓に毛が生えているような人間だから大丈夫かも知れないが、俺は物凄く恥ずかしいんですけど!
 真後ろの一番近くでこの光景を目の当たりにしている拓海の表情は全く見えないけど、それでも目が点の口ポカン状態なのは想像がついた。
 その抱擁はほんの数十秒間だったけど、俺には例えば時計の針が一秒を刻む時間が一分くらいには感じられた。
 でも、宮村はずっと何も言わなかった。
 俺もどうしていいかわからなくて――笑って誤魔化すような場面でないことだけはわかっていた――、結局黙って抱きしめられていた。
 その不思議な沈黙を破ったのは呆れたような依岡兄の声だった。
「――ジン、そろそろ放してやんなよ。ここでいつまでもそうしてたって、家には帰れないだろ」
 誰も抱きしめたことに関して突っ込まないというのも、変な感じがする。突っ込むところじゃないってわかっていても。
 あー。元々この人たちは変わってたんだっけ?
 丁度宮村の肩の上に見えていたシャンデリアの光に目を眇めながら、どうでもいい事を考えていると、不意に宮村の体温が離れた。
 そして宮村は俺を見てから、後ろにいる拓海に目をやる。何を言うのか心配になって、宮村に弁解するために口を開く。
「あ、拓海は何も――」
「里見の脅しにどうしようもなかったことは、お前にとっての真実なんだろうが―――次はないと思え」
 俺の声を遮って、宮村は拓海に言った。多分、今回の件に関しての、宮村なりの譲歩だ。
 けど、―――怖い。
 何、今の声音。聴いたことない。
 最後の言葉は、黒く力のある瞳に静かに宿る怒りを具現させたような、低く重圧感のある声だった。
 俺を擁く腕の持ち主が、関東一帯の中でも指折りの勢力を持つヤクザの組長だということを今更ながら意識した。
 普段組の仕事をしているときだってこんな表情は滅多に見せない。おそらくこれが宮村の「本気」なんだ。
 その「本気」が俺のためなんだと思うと、緊張感無くて、暢気すぎだとも思うけど純粋に嬉しい。拓海には悪いけど。
 とりあえず宮村が、俺と拓海が今まで通りに付き合うことを認めてくれたことも含めて、里見のことは別として、こちら側のこじれとか問題は解決した。  ―――かに思えた。
 俺にとっての災難とか現実というものは、思いの外厳しいらしい。
「……じゃあ、帰ろ―――」
『リンゴーン……』
 肩の力を抜いて、そう言いかけた俺は、突然鐘の鳴る音がして驚く。
 今は寺でも、鐘を鳴らすような時間帯じゃないことは、窓の外の暗闇を見ればわかる。
「何だよ、今の音」
 まさかBGMって訳でもないだろうし。
「……あー、ただの呼び出し音」
 一瞬の沈黙と俺の素朴な疑問に答えたのは、里見だ。訪ねられた方も、一体誰だと言わんばかりの怪訝な表情をしている。
 けどさ、いくら内装がロココ調っぽいからって、ここまで凝る必要はないと思う。
 なんて密かに突っ込みをいれていると、バン、と乱暴にドアを開ける音がして、続いてバタバタとした足音。
 その場にいた全員がこちらに向かってくる足音のする通路を凝視した。
 ……まさかサツってことはないよな? ここに警察なんて入ってきてみろ、余計ややこしいことになるのはまず間違いない。
 一企業の社長と、関東一帯の中でも指折りのヤクザの頭が、それぞれ強姦未遂と銃刀法違反を犯している。考えてみれば物凄くまずい状況。
 あああ……。警察じゃないことを祈るしかない。
 内心かなり焦りまくっていた俺だが、その通路から現れた意外すぎる人物に、一瞬目が点になった。
 ここに、一番縁がなさそうで、いること自体あり得なすぎて考えもしなかった人物。
 な、何で―――
「あに、き…? え、……あ、兄貴ぃーッ!?」
 軽く息を乱しながら視界の端に立っていたのは、見紛う事なき正真正銘俺の兄貴だった。
「え……? って、理人! お前、何でこんなところにいるんだ」
 それはこっちの科白!
 同じように目を白黒させながら俺を見ていた兄貴は、隣にいた宮村に気付くと露骨に眉間に皺を寄せた。そしてすぐさま顔を里見と組員のいる方向に向ける。
「まさか、ヤクザと交友関係があったとは思いませんでしたよ」
 まるで親が子供にする、咎める様な口調。
 誰に向けているのか、あの三人の中ではおそらく里見しかいないだろう。里見は「ばれたか」というような顔で悪びれもなく答える。
「それは誤解。俺は宮村がヤクザになる前から友人だ」
「お前と『友人』なんてたいそうな間柄でいた覚えはない」
 すぐに宮村が否定する。
 俺にしてみれば、その『友人』でない人間から襲名のときに大金貰ってご機嫌だったのはどこのどちら様だっつーの、と突っ込みたくなるような言い草だ。
 こと俺に関しては極端に視野の狭くなる宮村を知っていて、こんなことをしでかした後ってこともあるんだろうけど。
 宮村をちらりと見ると、苦虫を噛み潰したような表情で二人を見比べていた。宮村は、兄貴が里見と繋がっていたことを知っていたんだろうか。
 痺れを切らした俺が「何故」と問う前に、兄貴が溜息を洩らして呆れたように言った。
「会長から、別荘へ逃げたあなたを連れ戻すように言われて来てみれば……そんなことをしていると、命がいくつあっても足りませんね。即刻辞表を提出させていただきたい気分です。……それよりも、何故ここに私の弟がいるのか、ご説明願えますか、社長?」
 普段俺に接する態度とは比べ物にならないドライさと皮肉を込めた言いっぷりだ。まぁ大人なんだし、一歩外に出れば「出来のいい東さんとこのお兄さん」で通るようなちゃんとした面もあるんだろうなとは思っていたけど、ここまで違うと、本気で、本当に二重人格なんじゃないかと疑いたくなる。
 しかし。
 俺は最後の言葉に自分の耳を疑った。
 社長……?
 誰が?
 里見が?
 じゃあ、兄貴は、里見の部下で、里見は兄貴の上司!? しかもこんなプライベートにまでかかわるってことは、ただの社員ってわけじゃなさそうだしっ。
 えぇー……?
 警察がくるよりも俺にとってややこしい状況になった。
「な、なぁ。お前の兄貴って、里見とどういう関係?」
 拓海もさすがに気になったようで、後ろから俺にそっと耳打ちしてきたが、俺も兄貴の会社のことまではよく知らなかったし、わからないとしか答えようがなかった。
 肩をすくめて首を横に振り、里見と兄貴のやり取りに目を戻す。
 ただ、さすがに実の兄に向かって「あなたの弟を強姦しようとしましたが、恋人に阻止されて捕まっています」と面と向かっては言えないらしい。
「へぇ……悠人の弟だったんだねぇ。考えてみれば苗字が一緒か。気がつかなかったよ」
「質問の、答えにはなっていませんが」
「あー、何だ……お前も俺のことをある程度理解できる人間として側に置いているわけだし、言わなくても少しはその辺の事情を理解してもらいたい」
 珍しく、里見が焦っている。
 何を言われようが飄々として意にも介さないと思っていた(というか、思わざるをえない)のに、何故か兄貴の詰問に対してしどろもどろしている里見は、どこか異様だった。
 しかも「俺のことをある程度理解できる人間として側に置いている」って言葉に、他意はなくても邪推してしまう。
 兄貴と、里見の間柄って、一体……?
 だって兄貴はノーマルな人間だし、里見とのやり取りに軽く嫌悪は混じっても、純粋な怒りとか私情を挟んでいる様子は全くない(家族として一緒にいる時間が長いからこそ判断できることだが)。
 そんなこんなではぐらかそうとしているのが一目瞭然な里見に、兄貴はピンと来たようだ。
 ハッとなって俺を見やり、「え、何?」と俺が訊く前に、兄貴の表情が、今まで見たことも無い鬼のような形相に変わった。
「考えたくもありませんが……まさか、理人に手を出した、などと言うおつもりではないでしょうね」
「…………」
 はい、その通り。ただし、出されたといっても最終的には「未遂」だったけど。
 心の中で俺はそう呟いた。
 はっきりと険のある声で図星をさされて言葉が出ない様子の里見に、兄貴は詰め寄った。その迫力たるや、その筋で通っているはずの組員さえあとずさる程だ。
 じ、人格変わってるよ、兄貴……。
「下半身に対してのモラルが低いあなたの性生活になど興味はありませんし、実際何度も目の当たりにしているのでさして気にも留めませんでしたが……まさかこれほどまでとは思いませんでしたよ。十年も年下で、しかもよりによって私の弟に! これが夢なら覚めてくれ。あぁ、そうですとも、自分の上司に大事な弟を傷物にされて、これが冷静でいられるかっ! 現実逃避だってしたくもなる!」
『キズモノ』って兄貴……それ言うなら、里見は未遂だし、それ以前に宮村にとっくに傷物にされてるって。まぁ傷物って言うほど嫌悪があるわけでもないけど。
 途中から敬語も忘れて捲くし立てた兄貴に、その場が水を打ったように静かになる。一人鼻息を荒くして里見を睨む兄貴は、思わず「誰ですか」と聞きたくなるくらいの別人に見えた。
 あぁもう……何たってこんな面倒なことになるんだ。俺が一体何をした!?
 頭を抱えて座り込みたくなったが、いきなり「――理人!」と兄貴に名前を呼ばれて「はひっ?」と裏返った声が出てしまった。
「これからろくでなしの社長を車で送るから、乗っていきなさい。やはりその男に任せたのは間違いだった。ただでさえ極道は危険だというのに、理人のことをしっかり守ってやれていないじゃないか」
 ――――え?
「何、言ってんの、兄貴……?」
 俺は兄貴が一瞬何を言っているのかわからなかったけど、理解していくうちにその言葉の理不尽さに体の奥から何かがこみあげてくるのを感じた。
 その男って、宮村のこと?
 誰が守ってやれないって?
 ―――違う。そうじゃない。
 宮村は俺を守ってくれた。
 俺が勝手に飛び出して、忠告も無視して、こうなってもしょうがないっていう状況でも、法に触れてまで俺を助け出そうとしてくれたんだ。
「違うよ、兄貴」
「何が違うんだ。ここにいるってことは、理人は強引に連れてこられたんだろう? 何故そうなる前に阻止しなかったんだ。何のために、大事な理人をその男と一緒に住まわせているのか、わからなくなるじゃないか」
 兄貴はそう言って、数段残っている階段をツカツカと昇って、俺の前に来た。
「とにかく、実家に帰るんだ」
「…………」
 兄貴はいつまでもその場から動こうとしない俺に焦れて、手首を掴んだ。
 隣にいた宮村が俺を抱いて引き寄せようとしたのと同時に、俺は兄貴の腕を強引に払った。
「……理人?」
 兄貴は振り払われた腕をそのままに、不思議そうな顔で俺を見た。俺は宮村に「大丈夫」と目で合図して、離してもらった。
 悪いけど、兄貴……。
「俺は宮村と一緒にいるよ、兄貴」
 兄貴はその一言に目を瞠った。兄貴にこれほどまでに反抗するのは結構珍しいし、俺だって兄貴の過保護はよくわかってたから、何を言われてもほとんど従順だったからかもしれない。
 兄貴が俺のことを心配してくれているのは誰よりも知ってるし、理解できる。
 けどさ。
「勝手に誤解しないでくれよ。今回のことは、俺の自業自得な部分もあるし、こっちはこっちでちゃんと問題は解決してる。何もされてないとは言えないけど、里見は未遂だよ。宮村が助けに来てくれたから、俺は里見に犯されなくて済んだのに、その言い草は無いんじゃないの?」
 何も知らない兄貴に、俺たちを消極的にでしか肯定できない兄貴に、そんなことを言われる筋合いはない。
 俺は、何も出来ない子供じゃない。
 それに、一人で何も出来ないとしても、宮村や拓海や依岡兄弟だっている。
 俺の側にいるのは、兄貴だけじゃないんだよ。
 生意気だとは思うし、今まで世話になってきた兄貴に対して悪いとは思うけど。
「理人……」
「別にいいよ、兄貴がそんなに今回のことを宮村のせいにしたいっていうのなら、俺の言うことなんて聞かなくてもいい。でもその代わり、俺も兄貴の言うことは聞かないから。怒られようが嫌われようが、家には帰らないよ」
 今までは面倒だったし、兄貴の心配もわかる気がしたから何も言わないで受け流してた。
 でもさすがに、今回はキた。
 自分の好きな相手のことを、話も聞かず頭ごなしに悪者にされて引き離されるなんて冗談じゃない。
「頼むからさ、俺から宮村のことを取り上げないでよ、兄貴。いくら兄貴でも、それだけは許せない」
 いつもはのらりくらりとかわしていた分、これだけはきっちりさせておきたかった。宮村が理不尽に責められるのは嫌だし、相手が身内であればもっと嫌だ。
 兄貴が俺たちのことをわかってくれるとは思えないし、わかってくれとも言わない。
 恨みたければ恨めばいいし、俺に対して失望するんならそれも構わない。覚悟ならとっくに決めている。
 本当は、それくらい、宮村が大事だから。
 多分、この世の誰よりも。
「だから、兄貴はそのろくでなしの上司を送っていけよ。俺は宮村や拓海たちと一緒に帰るから。はっきり言うと、そっちの方が安全だと思うし」
 仕事なら、ちゃんとしないと兄貴の信用にも関わるし。社会人なら、私情なんてはさまずに職務をまっとうすべきだ。
「り……っ。……わかった」
 何かを言いかけた兄貴は途中で声をなくし、そして渋々とわかる声でそう言った。ここで引くわけにもいかなかったから、「ごめん」とはもう言わなかった。
 言う必要もないことに、今更気付く。
 俺も、兄貴の過干渉に知らずのうちに甘えていた節があったのかもしれない。だから余計に兄貴は俺を必要以上に庇護下におきたがるのかもしれない。
 宮村が言うように、依岡兄弟みたいな関係になるつもりもないのなら、依存もほどほどにしておいた方が俺や兄貴のためにもなると思う。
 ちょっと傷ついたような表情を見せた兄貴は、それでも次の瞬間には表情を消して踵を返した。無言で里見の元へ向かう兄貴に、暫くは何も話せないだろうな……とぼんやり考えていた。
「社長、ほら、帰りますよ」
 さっきの睨みが効いているのか、里見についていた組員二人は、兄貴が近づくと後ろに足を引いた。兄貴よりも数倍は怖い顔をしている人間が兄貴を恐れるっていうのも、傍から見れば滑稽な話だ。
 けど、その場にいた兄貴と里見を除く全員は、一言も声を発しなかった。
 理由は……まぁ色々あるんだろうけど。
「いいのか、弟くん一緒に連れて帰らなくても」
「あなたと一緒に後部座席に乗せて、いかがわしい真似をされても困りますしね。あちら側に責任を持って連れて帰ってもらいますよ。理人も、もう可愛いだけの弟ではないようですから」
 そこで兄貴はちらりと俺を見たあとで「何かあったら、絶対に許さない」と言うような目で俺の後ろにいた宮村を睨んだ。宮村はというと、余裕綽々のムカつく笑みさえ億尾にも出すことはなく、挑戦的にその視線を返していた。
「では、私たちはこれで失礼します。社長が色々とご迷惑をお掛けしたようで申し訳ございませんでした。ここのことは管理人に全て任せておりますので、お早めにお帰りください。謝罪は、後日改めてご連絡をさせていただきます」
 そこは、出来のいい兄貴。締めはきっちりとやって、本当は自らがけじめをつけなきゃならないはずの里見のネクタイを引っ張ってさっさとその場を去っていった。
「…………」
 お、重い……。
 聞いてないし。兄貴の会社の社長が里見で、しかもこんなところに迎えに来るようなお目付役だなんて。
 沈黙が支配するその場で、最初に言葉を発したのは依岡兄だった。
「まぁ、急展開には変わりないけど、別な問題も解決したみたいだし、ジンにとってはラッキーなことだったんじゃないの? りっくんもいい踏ん切りにはなったようだし? 今度こそ、とっとと帰ろう」
 最後の「とっとと帰ろう」のところを強調したのは、多分本当に言いたいのはそこだったからだと丸わかりだ。
 依岡弟は屋敷で待っているみたいだし、これだけ疲れれば早く帰って癒してもらいたいと思うのも不思議じゃない。
 俺もその言葉にどっと力が抜けた。
「はぁ〜……っと、わ」
 ……足の力が抜けたせいで、その場でこけて、尻餅をついた。
 階段の上だから、かなり危ないけど、転がり落ちなかっただけマシだと思うことにする。
「全く……本当に今日は厄日だな、よっ」
「なん……うわぁっ」
 溜息混じりに呟いてその場にしゃがんだ宮村は俺の背中と膝の裏に腕を回すと、そのまま抱き上げた。これが世に言う「お姫様抱っこ」。
「何してんだよッ。俺は歩けるんだから、離せよ」
「暴れるな。階段から転がり落ちたら、全身打撲になるぞ」
 そーでした、ここはまだ階段の上……。
 手足をバタバタと動かしていた俺は、その一言に両手両足が一気に引っ込んだ。
「お前が歩けるとか歩けないとかいう話は全く関係ない。俺が単にしたいだけだ」
 ありえねー。男相手にお姫様抱っこなんて気持ち悪くて見てられねぇし、して欲しくもない。でも、こいつがやりたいことは、人の都合もお構いなしにやるから、抵抗してもほぼ無駄だ。
「……変態」
 せめてもの反抗というか抵抗に毒づくと、宮村はにやりと笑った。そして耳元で囁く。
「あんまり言うと、あとでどうなっても知らないからな。覚悟しておけよ」
「な……っ……ッ!」
 俺にとって、宮村のこういう意味深な言葉はエロいことをするって予告みたいなもんだった。いや、俺に限らず、絶倫で強引で変態な恋人を持っている全ての人間にとってはそうなんだと思う。
 よくもこんなところでそんな科白言えるよな、こんなところで! こんなときに!
 耳が熱くなってジンジンする。薬は抜けたはずなのに、じわじわとその感覚が全身に広がって、ぞわりと鳥肌が立った。
 後の行為が予想できるから、アレやコレを思い出して全身が真っ赤になる。いい加減俺も慣れればいいのに、わかっててするあたり、宮村は本当に性格が悪いと思う。
 そんな俺に気付かない振りをして宮村はスタスタと階段を下りる。
「おら、ぼさっとすんなお前ら。あのくらいの睨み、熨斗つけて返してやれないようじゃ商売上がったりだろうが」
 兄貴のあの壮絶な睨みを「あのくらい」と豪語して固まったままの組員に喝を入れる。組員二人は我に返ったようにぴんと背筋を伸ばして「すいませんでした!」と腰を折って謝ると、帰る用意をしろ、という宮村の言葉に素早く動いて先に外へ出た。
 アフターケアも組長の仕事なんだな……と言うか、他よりも気配りの出来る人間ってだけなんだろうけど、そういうところがあるから、結局なし崩しに怒りも悲しみも解けていく。
 こういう真面目な場面以外でも、紳士的になってくれれば、兄貴だって少しは納得してくれるかもしれないと今更なことを思う。
 納得しなくても、一緒にい続ける気でいるから、今じゃそれもあまり関係のない話になったけど。
 宮村は相変わらず、決して軽いはずはない俺の体を軽々と抱き上げたまま、おなじみの黒ベンツまで歩いていく。後ろから長谷川さんや依岡兄が続くけど、一番恥ずかしかったのは拓海の前でこんな醜態を晒してるってことだ。
 長谷川さんや依岡兄は同じ屋根の下で暮らしているし、あんまり気にならなくなった(気にしてたら、とっくに胃に穴が空いてると思う)。
 さすがにさっきの今で拓海も色々あったし、笑うことさえしなかったけど、後のことを考えるとどうしても気分は最悪だった。
「おい、涼一。お前は大林拓海を家まで送ってやれ。俺は理人と先に戻る」
「えー、俺も早く帰りたいぃ。お前だけ先帰ってりっくんといちゃいちゃすんのずりーぞ。人のこと散々コキ使っておいて、自分はちゃっかりお楽しみなんてな」
 長谷川さんがドアを開けて待っているが、口を尖らせて文句を垂れる依岡兄に宮村は「あぁ?」と振り返る。
「そういう恥ずかしいことあけすけに言ってると、いつか弟に捨てられるぞ」
「りっくんまで酷い」
「……俺に酷いと言える立場かよ。俺が正真正銘の男だとわかってて、服屋に女物の正装着を頼んだのはどこのどいつだ」
 思えば最初っから俺は、恨みでもあるのかというほどの嫌がらせをされてきた気がする。その分、今回のこともそうだけど、助けられているのも事実だ。
 けど、そーやって低く構えていると絶対図に乗るから油断できない。宮村といい、依岡兄といい、本当に性格サイテーな人間が多いぞ、俺の周りは。
 ぬぉぉんとした不機嫌さを表した重たい空気が俺と宮村と依岡兄の周辺に立ち込めて、いい加減にしろよ……と溜息をついたとき、ありがたい助け舟を出してくれたのは、この中で誰よりも紳士的な長谷川さんだった。
「では、私が彼を自宅までお送りいたしましょうか。坊ちゃんはご自分で運転できるでしょうし、組員もいないほうが何かと話しやすいでしょうから」
 にこやかに微笑んでその場の空気を見事に霧散させてくれた。
 うん、それはそれでいいんだけどさ。
 ―――俺的に、この二人と一緒の車に乗って帰らなきゃいけないってところがかなり微妙だ。
 せめて長谷川さんがいてくれたら良かったけど、それだと強面の男二人だけに拓海を送らせるっていうのもちょっと心配だ。
 その点、長谷川さんはヤクザには見えないくらい物腰も柔らかいし、丁寧だから何かと拓海も楽だと思う。
 けど、ここで俺が何か文句を言っても帰るのが先延ばしになるだけで結局無意味だし、長谷川さんの提案に従うことにした。
「じゃ、運転よろしくな、涼一」
「はぁ? 何で俺が」
「居候の分際で、組長に運転させようってのか、お前は」
「この前りっくん攫われた時は、自分から運転席に飛び乗ったくせにー」
「つべこべ言わずに、さっさとエンジンかけろ」
 だからさ、無駄に言い争うなよ、あんたら。
 聞いているこっちが疲れてくるから、そのくだらない喧嘩。
 俺は宮村に後部座席のシートに下ろしてもらうと、当たり前の顔をして後ろに乗ってこようとした宮村に「前に乗れよ」と言った。
「何で」
「絶対、何かされるに決まってるから」
 そう言って宮村の表情を窺うと、あからさまに「ちっ」と舌打ちをした。
 ちっ、て何。やっぱ何かするつもりだったんだなっ。
 俺はさっさとドアを閉めて、宮村は渋々ながら助手席に座った。
 さすが、というか、足は伸ばせないけど後部座席は横になるには十分なスペースがあった。
 依岡兄がエンジンをかけて車を発進させる。ここがどこかとか、里見の別荘の外観なんて気にもしないくらい、どっと疲れが押し寄せる。
 あぁ……すげ、眠い……。
 宮村と喧嘩(実際、俺が一方的に怒っていただけ)して、誘拐されて、里見に襲われ、拓海の裏切りと謝罪、突然の兄貴の乱入に、兄離れ。長い長い一日だった。いや……ここがどこかはわからないけど、シートに横たわったまま見上げた窓の向こうは夜の闇が薄れ始めていたから、もう一日どころじゃない。
 でも今度は依岡兄と宮村がいて、あとは屋敷に帰るだけだから、安心して力を抜ける。
 そんなことを考えながら、車の心地よい揺れに、いつしか俺は目を閉じて寝入ってしまっていた。


This continues in the next time.
*ご意見・ご感想など*

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