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 秋の雨は思った以上に冷たいと、傘を差しながら色の褪せたスニーカーに染み込む雨水の感触に顔をしかめて、涼一は立ち止まった。
 熱帯夜の中でも艶めかしく、また煌びやかに彩られていた街は、雨に濡れてしっとりとした色香を漂わせている。
 年齢が年齢なので、外見は高校生と変わらない涼一は一人で歩いていると必ず一度は声をかけられる。
「ねぇねぇ、君さ、今暇してる?」
 いかにも友人との買い物か何かの帰りで時間を持て余している様子の女が、佇む涼一に声をかけてきた。
 すっきりとした、無駄のないボディラインを強調させるように仕立ててあるワンピースを着こなした相手は、遊び慣れた雰囲気を隠すこともなく妖艶な笑みで出てきたばかりの歓楽街へ誘おうとする。
 内心舌打ちしつつも、涼一は不快な様子を微塵も感じさせないよう、瞬時に表情をつくった。
「貴方のように綺麗な方にお誘いを受けるのは嬉しいのですが、あいにくと先約がありますので」
 丁寧かつ相手の自尊心を傷つけないように言葉を選び、にっこりと微笑んで涼一は急ぎ足でその場を離れた。
 スタイルも良く容姿も人一倍とくれば、その誘いは並の男からすれば羨ましいことではあるのだろうし、涼一自身、悪い気もしないのだが、逆ナンに使う金も時間も持ち合わせていない。
 それ以前に、涼一のベクトルは常日頃から涼二ばかりに向いているので、女遊びをする気になどなれないというのもある。
 一人残されて心細い思いをしながらも、兄の帰りを待つ涼二のために、涼一は少しでも羽振りのよいカモを見つけて相手をしなくてはならない。
 とはいえ、今は一仕事終えて帰る途中である。
 数日前に診てもらった際、なるべく夜は一緒にいてやるようにと改めて忠告されてしまったため、時間帯を昼間にずらし、夜は早めに帰るようにしていた。が、今日はしつこい相手だったせいで、ホテルから出てみれば空はすっかり闇色で星の代わりにネオンがちらついていた。
 時折頬に当たる雨風に急な寒気を感じ、早く帰って暖をとろうと、今日の相手に貢がせたデニムジャケットの襟をかき合わせて、通りの角を曲がった。
 すると手前の大手家電製品店のショーウィンドウの中、まるでルービックキューブのように並ぶ大量のテレビから流れるニュースが自然と視界に入ってきた。
『……氏の汚職が発覚し、本日書類送検されました』
 この時間帯ではお馴染みのニュースキャスターが、神妙な顔つきで世間の醜悪さを知らせている。
 普段は気にもせずに通り過ぎるだけのショーウィンドウだが、ニュースを見るのは本当に久しぶりで、涼一は暫く足を止めて時間を持て余している様子の定時帰りのサラリーマンと同じようにニュースを聞き入っていた。
『次のニュースです。昨夜未明、東京都○○区の公園近くで二十代の女性が刃物で刺され、意識不明の重体です。場所は○○区……』
 その現場の映像が映し出された途端、涼一は目を大きく見開いて、その画面を凝視した。
 そこは涼一たちが住居にしている廃ビルの一つ手前の通りにある小さな公園で、たまに涼二はその公園に自生する小さな花を摘んだりしていた。
 さすがに暗くなる前には戻るようにと口酸っぱく言っているので、もう戻っているだろうが、それでも涼一の心臓の鼓動はどんどん速くなる。
『犯人は未だ捕まっておらず、無差別殺傷事件の可能性もあるとみて、警察は付近の住民に注意を呼びかけ……』
 テレビの画面が現場周辺から、映像に合わせてアナウンスを入れているキャスターに切り替わる前に、涼一は走り出した。
 駅へ向かい、環状線の待ち時間わずか数分さえもどかしく、電車に飛び乗ってから五分ほどで最寄り駅に着くと、傘も差さずにしとしとと降り続ける雨の中をわき目も振らずに走り抜けた。
 傘を差す人の群れの中を縫うように走り抜けながら、時折ぶつかっては傘から滴る雨水を余計にかぶってしまう。先ほどまでほとんど何も感じなかった雨がいかに煩わしいものかを思い出されるが、それでも今はそんなことにいちいちイライラしている余裕もなかった。
 涼一の脳裏に、涼二の毒々しい赤で染められた痛ましい姿が甦った。
 あれが本物の血でないとわかったから、あれほどまでに怒り、より強く生きる事を心に誓えたのだ、と涼一は走りながら気が付いた。
 もし、本物の血だったら。あんなに大量の血が頭から流れていたら、涼二はもうこの世には存在していないかもしれないのだ。
 両親も住む場所も失い、在るのはただ精一杯笑って生きる涼二と「依岡」という名の忘れ形見だけだ。
 涼一が今こうして生きている理由も全て、涼二の、いつか幸せな時が訪れると信じて必死に生きる最愛の弟のため。
(俺は、どうなってもいいから……っ)
 何事もなく、テント用のランプの前で500mlのペットボトル容器に小さな花を生けながら待つ涼二の「お帰り」という声を、涼一はたった一つの願い事のように望み、拭いきれないこの不安が、ただの杞憂である事を祈って、大通りを外れる路地に入った。
 途中で公園へ続く道があり、一瞬立ち止まって目を凝らすと、KEEPOUTと書かれた黄色のテープが公園手前で張り巡らされていた。その前には雨合羽を着て立つ警官の姿もある。
(廃ビルは捜査の対象になったのか……?)
 そういえば、朝方に人だかりが出来ていたっけな、と思い出して、それもまた駆け出す頃には何の役にも立っていなかった。
 早く気付いて戻るべきだった、と涼一は強く唇を噛む。涼二が捜査に来た警察に補導されていたら、またややこしいことにもなるだろう。
 人間不信というわけではないが、今更あの檻と同じような場所に戻りたいとは涼二も思わないだろうし、悪環境ではあるものの、やっと慣れてきたところでまた環境が変わってしまえば精神的にも不安定になる。
(何も、何もなければいいんだ。―――頼む……)
 芋づる式に次々と浮上する事態をなぎ払う勢いで涼二が待つはずのビルの前に着く。既に捜査は終わったのか、もしくは捜査対象にされていなかったのか、公園前のように目障りなテープは何処にもなかった。建物の横に回り、上階を見上げると、薄汚れた窓ガラスのある場所からオレンジ色の小さな光が微かに洩れていた。
(……いる)
 窓枠の位置から考えても、そこは間違いなく涼二が待つ場所で、涼一はホッと息を吐いて、いたるところに色とりどりのスプレーで文字とも絵ともつかない落書きが描かれた入り口に戻り、一段飛ばしで上階の最もまともな部屋へ向かった。
「お帰り、兄さん。……って、どうしてそんなにずぶ濡れなの!? 傘、持ってるのに」
 バン、といささか力の入れすぎで勢いよく開いたドアの向こうにいた涼二は、冷え切った部屋でタオルケットを体に巻きつけながらランプの前に座っていた。
 兄が雨に酷く濡れているのをすぐに察して、巻きつけてあったタオルケットを持ってすぐに涼一のところへ持っていく。
「涼二……」
 何も変わったところはなく、いつものように優しい笑みを浮かべながらも、ずぶ濡れの涼一を少し不安そうな目で見ながらタオルケットを肩にかけてくれた涼二に、涼一はホッと息をついた。
「? どうしたの、兄さん」
「いや……。今日、誰かここに入って来なかったか?」
「うん……、何か警察っぽい人が何人か入ってきたけど、そこのブルーシートに荷物を隠して、裏口の方から外に出たから平気だったよ。外でちょっと呼び止められたけど、遊んでたって言ったら、この近くの小学校が記念日だったらしくて、それで納得してくれた」
「そうか……」
 どうやら、涼二が咄嗟の機転を利かせてくれたおかげで、最悪の事態は免れたらしい。ここで警察に補導されても、頼れる人間もいなければ帰る場所もなく、施設行きになってしまうことを、涼二は知っていたのだろうか、と涼一は勘ぐってしまう。
 世間的に考えれば、それが一番の手段であろうが、世間自体を信じられない二人には「最悪の事態」としか言いようがない。
「ほら、兄さん座って。髪とか拭いてあげるから。その上着も脱いでね」
「はいはい」
 甲斐甲斐しく世話を焼く弟の姿をまた愛しいと思いながら、涼一はわしゃわしゃと伸びた髪を柔らかな手つきで拭かれる感覚にスッと目を閉じる。
 すると先ほどまでの緊張が解かれ、同時に夕飯を何も買わずに真っ直ぐ帰ってきてしまったことに気付いた。
「涼二ー……、ごめん、夕飯買うの忘れたから、すぐ行ってくるよ」
 頭の上で動いていた手をそっと外して、涼一はゆっくり立ち上がった。揺れた空気が妙に体に冷たく染み入り、思わず腕をさする。
「ダメだよ、兄さん。このままじゃ風邪ひいちゃう。僕が行ってくるから……」
「いいよ。そんなことしたら、涼二のが風邪引くだろ? ただでさえ体弱いんだから。すぐに戻ってくるよ。そうだ、ミネラルウォーターまだ余ってたろ。お湯沸かしといてくれたら助かる」
 本音で言うと、事件の容疑者が捕まっていないこの状況で、涼二に無闇に出歩いて欲しくなかったのだが、言うと必要以上に心配させてしまうため、涼一はそれについて一切触れなかった。
 今まで無事だったからといって、これから何もないとは限らないが、それでも昼間警察が入って捜査をしたのであれば、容疑者も不用意には近づいてこないだろうし、人を平気で刺すくらいなら、未だに現場周辺をウロウロしているほど馬鹿でもないだろうと踏んでいたために涼二を残していくことにした。
 涼一は放置された資材と壁の隙間にあるブルーシートをめくり、几帳面にたたまれた服の中から別のジャケットを取り出して羽織ると、傘を持って部屋を出た。
 後ろでマッチを擦る音と、まもなくボッとバーナーに点火する音が小さく聞こえた。
 ただの杞憂だと、振り向きざまにもう一度浮かんだ不安を無理矢理押し込めた。それでも涼一は早く戻るために走って徒歩十分程度の場所にあるコンビニへ向かった。
 軽く息を切らせながらも、買い物カゴの中に涼二の好きなオムライスと涼一用のご飯のパックにレトルトの親子丼、バランスを採るためのドレッシング付き生野菜サラダに明日明後日の朝食の菓子パンを入れ、レジに並んだ。
 財布の中から湿気で少しばかり萎びた千円札を二枚出し、涼二のオムライス温め終わるのを待って、傘は差しているがまた雨の中を走って戻った。走るとほぼ前から雨風が当たるため、傘もあって無きようなものだったが。
 パンパンと雨の滴を傘から振り落としてボタンを留め、オムライスがまだ十分に温かいことを確認して涼一は少しだけ表情が明るくなった。
 急いでいるときや、何を買おうか迷ってしまったときに、迷わず涼二の分をオムライスにしてしまうのは、この一年でついた癖のようなものだが、その度に涼二は誕生日プレゼントを貰ったかのように喜ぶ。
 今日も例外なく笑顔を見せてくれるのだと思うと、頬も心なしか緩んでしまうのだ。
「さて、………?」
 明かりもなく、暗いコンクリートの通路を振り返った涼一は、闇に慣れてきた目で無意識に灰色の床を見て、その違和感に気が付いた。
(足、跡が……増えて、る……?)
「!」
 外は雨で、気温もそこまで高くはなく、湿気も多いため、先ほど涼一が戻ってきたときの濡れた足跡は完全に消えていない。出るときの足跡もだ。
 だが、明らかに大きさの違う足跡が、フラフラとした線を描きながらも階段の方向へと続いていたのだ。
 しかも、ほとんど乾いておらず、たった今つけられた跡のように、真新しい。
 涼一と涼二以外の誰かが、今、この廃ビルの中にいる。
「――――りっ……」
『―――ガラッ、ガシャァァン!』
 現状を把握してすぐさま涼二を呼ぼうとした涼一は、階段に足をかけたときに上の階で響いた資材の崩れる音に一瞬怯み、次の瞬間には一段飛ばしで階段を駆け上がっていた。 (涼二……っ!)
 ドアを開け、飛び込んだ二人の居住空間には、何事かと表情を固くした涼二が湯気の上がる小さい鍋と隅に膝を抱えて座っていた。
「……兄さん! 今の音……別のところからいきなり聞こえてきた……」
 明らかに怯えた様子の涼二に、涼一は無事であることを確認してから険しい表情のまま続けた。
「あ、あぁ……今、ここに俺たち以外の誰かがいるんだ。ここにいて見張っててやるから、早く、そこの裏口から降りて―――」
 言いながら今入ってきた通路を振り返った涼一は、暗闇から鋭いものが突然突き出てきたのを寸前でかわした。
「う、わ…ッ」
 後ろに飛んで下がった涼一は、暗闇の中からぬっと姿を現した人間にはっと息を呑んだ。
「……ッ、ハァ、ハァ……ガキ、がいるぞぉぉぉ……。ちぃさいナァ……ッ、ハァ」
「……っ!?」
 ぼたぼたと無造作に伸びた髪から雫を滴らせていた相手は、水も滴るなんとやら、という表現など程遠く、目が既に常人のそれとは違っていた。
 荒い息遣い、半開きの口からダラリと垂れ下がった舌と涎は、瘴気を放っているかのようにも見える。焦点の合わない淀んだ目は、目蓋が痙攣を起こしているのか、時折ピクリと引き攣っていた。
 肌の色は全体的に青白かったが、明らかに普通の病気とは言い難い。薬物中毒か何かでいかれてしまっているようだった。
 血管が浮き出ている手に握られたナイフには色が白くなるほど力が込められ、再びそれが突き出されると同時に、涼一はそれを屈んでかわすと涼二に向かって怒鳴った。
「っ、早く逃げるんだ、涼二!」
「で、でも……兄さん……!」
「俺は後で必ず追っかける。だから非常袋持って早く出るんだ」
 言いながら、もう片方の手で繰り出された拳をごろりと横に回転してギリギリでかわした。
「にっ……ッ!」
 普段の涼一からは考えられないほど力の篭った声に、涼二は言葉も出ず、何も出来ない無力さを感じた。
 涼二は窓のすぐ下に常備されている赤い小さなポーチを掴んで、部屋の端から非常口への通路へ消えた。
「一人、逃げた……ぁ、お前のせい……」
「バカ野郎。テメーがそんな物騒なもん振り回すからだろ、わッ」
 立ち上がって体勢を立て直そうとしたが、逆に足を引っ掛けられて派手に尻餅をついた。痛みどころか命に関わる失態である。
「ハハァ……お前も、真っ赤な血、流してくれんのかァ……?」
 問いながらも答える前に頭に振り下ろされたナイフをまた転がって回避した涼一だが、武器になるものが何もない今の状況では、ナイフと拳を避けることで精一杯の状態である。
「そりゃ、アンタは……緑色の血でも流しそう、だがな……っ」
 言葉は立派に挑発しているのだが、あまり健康的な運動をしていない涼一は、空腹も相まって、既に息が切れ始めている。
 ダラダラと涎零れる口がニヤリと笑った。まるで頭の悪い子供が「いいこと思いついた」と悪戯をするための方法を考えた時のようなそれと似ているような気もするが、外見が外見なために、気味が悪いとしか思えない涼一だった。
 その男はポケットからごそごそと袋のようなものを取り出した。
 中から手のひらサイズの団子状の塊がころりと出て、何を思ったのかそれを手の中でぐしゃりと握り潰した。
「コレぇ、なぁんでショォ〜…?」
 気味の悪い笑みを浮かべて突然訊ねてくる相手の言葉をまともに取る気がない涼一は知るか、と答えた。
「昨日のあのオンナの……血で固まった公園の砂ァ……グフッ」
 グシャリグシャリと手の中でそれを握り潰した男はまた唐突にナイフを構えた。
 涼一はあまりの異常さに声も出なかったが、動きを見てすぐさま避けるために動く。が、ナイフはいつになっても振られることはなく、一瞬涼一の動きが止まった。
 途端、涼一の視界が一瞬黒く染まった。
「うぁッ……」
「ひーっかかったァ…ハハァ…」
 男の持っていた砂を目潰しにぶつけられ、涼一は視界を塞いだ砂をすぐさま払おうとした。
「ク、ソ……!」
 一歩二歩と後退った涼一は、その時腹部に違和感を覚えた。
 まるで、そこにホッカイロか何かを貼り付けたように、熱が生じて広がっていくような感覚がしたのだ。
 目の痛みを堪え、じわりじわりと熱が広がっていく腹部を見る。
 霞んだ視界の中で、細い何かが脇腹あたりから伸び、それを青白く血管の浮いた手が掴んでいた。
 何が起こったのか追いつかなかった思考が徐々に感覚を取り戻していくと、次に猛烈な痛みが走った。
「っ、―――ッ!!!」
「刺さったァ……血、赤ィィーッ」
 赤と形容するにはいささか黒い血液が、ベージュのカットソーと突き立てられたナイフの柄をどす黒く染めていく。
 その様を見て男は満足したのか、またいきなりずるりとナイフを抜いた。
「……っ、ぅ……く、ぁ…」
 苦痛に顔を歪め、涼一は両手で刺された箇所を抑えながら膝を折る。
「さぁてと……さっきのもう一人もォ……赤いのォ……見よォっかナァァ……?」
 痛みに蹲って動けない涼一を見て、男はくるりと涼二が消えていった非常階段の方へと歩き出す。
 何の足止めにもならなかった、と涼一は唇を噛んだ。ドクドクと溢れ流れだす血よりも、大切なものの命を最後まで守りきれない無力さが苦痛だった。
(行かせて、たまるか……!)
 涼一は余裕で背を向けている異常者の男を見据え、すぐ脇で沸騰している鍋の柄を握る。
 そのまま音を立てないように、痛みを堪えて後ろから近づいた。
「おいっ……、テメェ……ッ」
 数歩後ろで涼一は男に向かって息も絶え絶えに怒鳴った。
 男はのそりと振り返ったが、それはかえって涼一に有利になった。
「これでも、くらいやがれ……!」
 顔を見せた途端、涼一はその焦点の合わない目と顔面にめがけてグラグラと煮える百度近いお湯を思いっ切りかけた。
「なン……、ッ、ギャアアァァァ!!」
 シュウゥゥと皮膚の焼ける音が小さく響き、ナイフを落として顔を押さえた男はフラフラと涼一の方に向かってきた。
「アァ、ァァァアアア……ッ」
 酷い火傷に、もう目は機能していないのか、闇雲に向かってきた男を涼一は避けると、血にまみれた手でナイフを拾った。
 そして部屋に逆戻りした男の足を力強く蹴飛ばして転ばせると、迷わずその左胸にナイフをぐさりと突き立てた。
「グアアァァァァ!!」
 男は断末魔の叫び声と共に火傷で真っ赤に爛れた顔面をくわっと天井に突き上げて、また床に沈んだ。
 ビクビクと痙攣を起こしている手以外、男が動く気配はなく、涼一は人を殺したということを自覚しながら、ナイフの柄を裾で拭き取ってよろよろと非常階段へ向かった。
(これで、俺も犯罪者、か……? いや、あんな異常者、のさばらせておく奴に問題が、あるんだろうな)
「ま、人殺しっていう、事実、は、変わんねぇけど……」
 ゲホッと咳をこんだ涼一は、血の混じった唾を見て、自嘲気味に笑った。
「まだ、……死ぬわけには、いかねぇんだよ……涼二に、必ずって、……ッ、ゴホ……言ったんだ、からな……っ」
 いつブラックアウトしてもおかしくない状態の意識に強くそう言い聞かせて、涼一は雨が振り続ける外へフラフラとした足取りで向かった。
 錆びた重厚なドアを体重で押し開けると、冷たい雨が涼一の全身を打った。
 容赦なく体温を奪っていくそれにも、あまり感じるものもなく、壁伝いになんとか階段を下りて無造作に草が生えている地面に降りた。
 出入り口のところ以外はフェンスで囲まれているため、おぼつかない足にグッと力を入れて、そのまま壁を伝って閉鎖空間から抜け出す。
 するとすぐ近くで涼一を呼ぶ声が微かに聞こえた。うつろな目で声のした方を見ると、ポーチのベルトと傘の柄を握って涼二が立っていた。
「に、さん……兄さん!!」
「涼二……何でまだ、こんなところに……ッ」
 酷くなるばかりの痛覚に、一番心配をかけたくない者の前で涼一はぐらりと体を傾いだ。
 倒れたら、二度と立ち上がれないことを本能的に感じて、まだ倒れるわけにはいかないと、足を踏み込んでその場にとどまったが、ぼたぼたと服が吸いきれない血液が地面を雨と一緒に黒く染めた。
「兄さん……、そ、れ……っ」
 涼二は顔面蒼白になり、傘を落として涼一に駆け寄った。
「心配、すんな……かすり傷程度だ、って」
「でも……だって、こんなに…血が……」
「いいから、ここから離れるんだ。……あの医者のところまでは、持つさ」
 涼二を励ますように、額に脂汗を浮かべながらも無理矢理笑顔を貼り付けたが、実際視界が霞みかけていて、大通りに出られるかどうかもわからないほどに重症だった。徒歩で二十分もかかるようなところまで持つとは思えない。
(涼二だけでも……、せめて安全な場所に……)
 せめて人通りの多い道に出られれば、必ず人の目に付く。その先どうなるかはわからないが、最後まで涼二を見てやることは到底無理だとわかっていた涼一には、出来る限り涼二と一緒にいてやることしか出来なかった。
「兄さん、頑張って……、肩に掴まって…っ」
 血まみれの手を取り、自分ひとりでは満足に歩くとも困難な涼一の体を背に、涼二がゆっくりと歩き出す。
「死んじゃ、やだよ……」
「ッ、はは、んな……簡単に、死なないって」
 血反吐を吐きそうになるが、それも涼二に瀕死の状態を示したくはなくて、無理に飲み込んだ。
 押さえた傷口からは、とめどなく血が流れている。どれくらい流れたら死ぬのだろうか、致死量に達する前に、何とか人通りの多い場所に行かなければと、ふらつく足を何とか奮い立たせようとするが、涼二に半分体を預けなければ進むことが出来ない状況は変わらなかった。
 一方通行の少々狭い道をゆっくりとしたペースで歩くが、だんだんと涼一の体から力が抜けていくにつれて、立ち止まるようになってしまう。
 普段なら数十秒で通りに出ることが出来る距離だというのに、通りの放つ光が涼一にはどこか遠い場所に思えた。
「あとちょっとで通りに出るから……、頑張って……っ」
 お願いだから死なないで、お願い、と涙声で言う涼二は、兄の精一杯の強がりもわかっているのだろう。
 最後まで諦めないその小さな背中を、涼一は震える腕で抱きしめた。その場に立っていることしか、もう出来なかったからだ。
「ご、めんな……、涼二。……そのままで…ケホ…ちょっと、聞いて欲しい」
 肩を震わせ、雨にまぎれて涙を流す涼二に、弱々しいながらも確かに波打つ鼓動を押し付けて、涼一はまだ生きていることを伝える。
 人を想い、大切にするのは、生きているからこそ出来ることだった。足元から這い上がる死の感覚を押し止めて、言葉を探す暇もなく、涼一は迷わず口にした。
「涼二、こんな、情けない兄貴で本当に……ごめんな。でも俺、さ……涼二のことが本当に好きで……大切で……だから、こうしていられる今が、幸せなんだよ」
 本当の想いを伝えられて、正直な自分で涼二の体を抱きしめることが出来た今、涼一は確かに幸せを感じていた。
『望み、あんのかよ』
 医者の男が呆れ気味に言った言葉が脳裏に蘇った。その答えは探さずともわかっていたのだ。だから余計に怖くて、それを口にすることも出来ない臆病者だったことも、なんとなくわかっていた。
 こうして、死ぬ間際に告白するのは卑怯なことだと誰かが涼一の耳元で言っている。けれどもう、どうしようもない。
 涼一がこの世で一番大切にしてきたものは、依岡の名前でも、自分の命でもなく、涼二だったのだと、最後の力でその想いを告げた。
「ぼ、くも……僕も兄さん、好きだよ?……でも、全然、幸せじゃない。お願い……死んじゃやだよ……っ」
 涼二は泣きながら必死に懇願したが、涼一の好きと涼二の好きには明らかな齟齬が生じていることが滑稽に思えて、涼一は力なくクスリと笑った。
「違うよ、涼二……」
 男同士の恋愛感情というものを涼二が本当に理解できるとは思っていない。それでも涼一は紛れもない想いを、今でなくても、いつか理解するときのために、涼二の首をそっと後ろに向かせ、そして涙に濡れた頬と、その下の薄い色をした小さな唇にそっと口付けた。
 涙に濡れたそれは、少ししょっぱくて、逆に涼二は血の味でもしているだろうと思いながら、涼一は力が抜けていくことに抵抗をせず、そのままゆっくりと、雨に濡れた道路の上に倒れこんだ。
「に……さ……? に、兄さん!」
 一瞬何が起こったのかわからない様子で呆然とした涼二も、倒れた涼一にすぐさま膝を折って肩を抱いた。
「ねぇ、ヤダよ……死なないで…っ」
「涼、二」
 フェードアウトしてくる視界の中で、涙をボロボロと零しながら顔を覗きこむ涼二の輪郭がだけが、ぼんやりと涼一の目に映る。
(この世界に……神がいるなら、叶えてくれ。……どうか)
 体が血液の不足で満足に動かなくなり、それでも涼一は涼二に告げた。
「涼二……生きろ。……たとえ一人になっても、絶対、生きるんだ」
(もう俺は、お前のために生きることが出来ないかもしれないから)
 信じたことは無いが、もしこの世に神という存在があるのなら、どうかこの小さな愛しい弟を、この先天寿をまっとうするまで生かしてくれと、涼一は無駄と思いながらも祈った。
「ヤダぁ……お願い……兄さんっ、兄さんも生きて……っ」
 冷たい雨の降りしきる中、ぽたぽたと頬に落ちてくる温かな滴が、ひたひたと心まで染み入ってくる。
「お願い……死んじゃや―――……〜〜〜! 〜〜〜……」
 耳に入る音も遠くなり、狭くなる視界と一緒に感覚が失われていくのを、静かに涼一は感じた。


This continues in the next time.
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