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 ポタリと、何かが手の甲に当たった。
 目を開けると、涼一は真っ白な空間で横たわっていた。上も下も右も左もない、真っ白な場所で、何もないところから、突然水滴がポタリ、ポタリと落ちて、ピンポイントで涼一の手の甲に当たるのだ。
(……なんだ?)
 それが気になって見ようとしても、全身が動かなかない。
 首を左右に動かすことも出来ず、ただ白く続く空間の中に横たわる涼一は、ここが一瞬、現世で色々といいように思い描かれている天国なのだろうかと思った。
(こりゃいい。なーんも無い。天国がねぇなら、神もいるわけねぇよな)
 白い、無。死んだ後は浄化でもされてしまうのだと涼一は思った。が、何もなく何も聞こえないと思っていた空間全体に、突然、ザザッとノイズが響いた。
(何だ……?)
 そしてよく見ると、白いと思っていた空間自体にも、ザザザ……とテレビに映る砂嵐のようなものが走り、途切れ途切れに現れていたそれは、徐々に間隔が小さくなって、最後には真っ暗になってしまった。
(今度は黒かよ……)
 暗いと思いつつ、体が動かないのだからどうしようもない、と息をつくと、今度は耳からざわざわと色んな音が入り混じって入ってきた。
 人の声らしきものだが、何を言っているのかさっぱりわからず、耳障りだと涼一は眉を顰めた。
 するとすぐにフッ……とノイズはなくなって静かになった。
(何なんだ、一体……)
 これは自分の思い通りになる現象なのか、と思い、この暗くて何もない空間をどうにかしろと、試しに思ってみた。
 けれど暗闇は一向に変化しない。
 その代わり、今度は自分の目に違和感を覚えた。
(あ、れ……? 俺、さっき起きたはずなのに)
 いつの間にか目蓋を閉じ、目を瞑った状態になっていることに涼一は気が付いた。
 だから暗かったのか、と妙に納得して、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。


「――――……?」
 目を開けた涼一は、また白い空間の中に戻ってきたと思ったが、今度は天井が見えた。先ほどと違い、灰色の影陰があったからそうと判断した。
 そして部屋という一つの空間の区切りを認識し、また無意識に首を動かすと、今度はゆっくりだがちゃんと首が左右に動いた。
 右側を向くと遠いところにブラインドの下りた窓があり、外から光が差し込んでいた。
 左側にはまた遠い場所にドアがあって、近い場所に何やらコードや液体の入った袋やら規則正しいリズムで音を鳴らす機械やらがところ狭しと置かれている。
(これ、どっかで……。もしかして、病室……?)
 よく見れば、音を立てている機械は一直線の線が時折ギザギザと上下に揺れる心電図のモニターがついていた。伸びたコードの先を目で追い、首を持ち上げてみれば、そのコードの他、点滴の管などもつけられていた。
 その物々しさに軽く身じろぎをすると、今度は右側の腰あたりで、もぞっと何かが動いた。
「…………りょ………じ…?」
 名を呼ぶと、それはむくりと頭を上げて、半開きの目で涼一を捉えた。
「に……さん……? 意識が……」
 涼二は自分で言った言葉にはっとなって目を見開き、涼一がきょとんとしながら見返していることを理解した途端、泣き腫らして赤くなった目じりの上に、ポロ……と涙を零した。
「ぅっ、っ、わあぁぁぁ〜〜〜…、あああぁぁ〜〜〜っ」
「え、ちょ、涼、二? 何でそんな……?」
 兄である涼一さえ今まで見たことも無いような涼二の号泣に、何が何だかわからなくなって、とりあえず体を起こそうとしたが、腹部に力を込めた途端に激痛が走り、一瞬呻いてベッドに逆戻りしてしまった。
(……生き、てる……)
 そこで涼一はやっと、自分がまだこの世に存在していることを自覚し、助かったことに気が付いた。
「にいさ……よかっ……ぅぁぁぁ…っ」
「涼二……」
 涼一が意識を取り戻したことで、緊張の糸が切れてしまったのだろう。涼二は涼一がもう一度ゆっくりと起き上がって、涼二の頬に手を差し伸べても、わんわんと泣き続けていた。
(これは少し、困った……)
 物心付いたときから、あまり泣き喚くことがなかった涼二の涙の洪水に、どうやって宥めてやればいいのかわからず、点滴のついていない腕で、涼二の肩を掴むとそっと抱き寄せた。
「心配かけて、ごめんな。もう……大丈夫だから、そんなに泣くな」
「っ、っ、ひっく…ぅっ……」
 泣くなと言われても急に泣き止むことは本気で泣いてしまっている相手にとっては無理な話で、喉をひくつかせ、鼻をすする弟の背を涼一は兄らしく撫でてやった。
 少しして涼二が落ち着いてくると、まるでタイミングを計ったようにノックの音がして、涼一が「どうぞ」と言う前にドアが開いた。
「よう。弟くん、落ち着いたか? あんまり大声で泣かれると、隣のおばちゃんに怒られちまうから、ほどほどにな」
「変態モグリ……」
「おいおい、命の恩人に向かってそれは無いだろ」
 つい先日涼二の診察のときに会ったばかりの医者の男は、既に板についてしまったあだ名に露骨に眉を顰めた。
「ったく、俺が唯一楽しみにしている仮眠タイムを邪魔してくれやがって。しっかも刺し傷酷いわ血ぃ足りないわで、徹夜させられたんだからな。宮村の若に頼まれでもしなきゃ、その辺に放っておいたものを……」
 溜め息混じりに言いながら、脈拍が正常なのを確認し、点滴の量を調節する。
「アンタってやっぱり良い医者なんだな」
 モグリでも何でも、患者は患者で、金を貰って治療するからには完璧に治すというのがこの男のけじめらしい。まぁ、その報酬というのも法外な額ではあるが、分相応の信用を裏切っては自身の命が危ないのだ。
「常にハイリスク・ハイリターンの世界で切り盛りしてるんでね。お前らみたいな文無し相手でも、治療は抜け目なくやっちまうんだよ」
「素直に一言、心配だって言えばいいのに……」
「何か言ったか、クソガキ」
「いーえ、何も」
 口だけは減らないガキだ、と呟くと、「宮村のところに連絡を入れるからな」と言って、男は携帯を取り出しながら病室から出て行った。
「みやむら……? って、誰だよ」
 すぐに別の患者の名前かと涼一は思ったが、涼二から思わぬことを聞かされる。
「……あのね、兄さんを助けてくれた人なんだ。兄さんが倒れてすぐ、あの道を通った車があって、道路の真ん中で倒れてたから運転手の人が困って……そうしたら、知り合いの医者がやってる病院があるから、すぐに連れ行くって、その宮村って人が言ってくれたんだ」
 何もなく涼二一人の力でここまで涼一を運んでこれるはずはないとわかってはいるが、まさか赤の他人が名前まで明かし、何もなしにここまで面倒を見てくれるとは涼一は思わなかった。
「へ、へぇ……。で、知り合いの医者がやってる病院ってのがよりにもよってココか。厄介な人間に恩売っちまったな……」
 通常、ココを訪ねてくる人間というのは、裏社会に生きる者ばかりで、大抵が俗にヤクザと称されている。
 三笠の一件以来、ヤクザは最も関わりたくない職業種だった。だが思わぬところでややこしいことになったと、涼一は額を押さえた。
「その人、何か言ってたか? 俺は別に構わないけど、涼二の身に何かあるなら、今のうちにでもそこから逃げるんだ」
 涼一はスッと窓を指差した。そこが二階か一階かもわからなかったが、まずいことにならないうちに涼二だけでも逃がしてやりたかったのだ。
 だが涼二は首を振って、危険はないと否定するが、どう説明していいのかわからないようで首を傾げた。
「それが……」
 涼二が話そうとしたとき、今度はノックもなく男が入ってきた。
「ノックくらいしろよ」
「何だ、別にセックスしてたわけでもないだろ。あと十分くらいでこっちに着くそうだ」
 涼二の前で、そのピンポイントでの言い分はやめろと涼一は睨んだが、男はそんなことなどどうでもよさげに続けた。
「状況がよく飲み込めていない様子の弟くんの代わりに俺が説明してやる。宮村ってヤクザの家の若が、ここで会ったのも何かの縁だって、引き取りを申し出てくれている」
 涼一も一瞬何を言われたのかわからなかったが、すぐさま眉根に皺を寄せた。
「なっ……。そんなん――」
「お前は、そう言うだろうと思ったけどな、またこんな事態にならない保証はない。弟くんの方も、大好きなお兄さんが命の危険に晒されるのはもう嫌だって言ってるんだ。これ以上、無駄に意地を張って死に急ぐ真似はすんなってこと」
「…………っ」
 断る、と言いかけた涼一を遮って、男はたたみかけるように言った。その言葉に涼二を振り向くと、涼二も黙って首を縦に振っただけだった。
「お前が俺を信用しているかどうかはわからないが、俺は宮村のところの人柄を信用している。全体として無駄な争いを好まない人間ばかりで、今の組長も情のある人だ。俺からも、引き取って貰えるように頭を下げたよ」
 男の言葉に、涼一は目を瞠る。「勝手なことをするな」というより、この男が自分たちの、言い換えれば文無し患者のために人に頭まで下げるとは思わなかったのだ。
「――――……」
「何だよ」
「いや、いつからロリコンに走ったのかと……ぃだだだだだっ」
 素直に好意を受けてしまうことがなんとなく情けなくて、わざと相手の癇に障る言い方をすると、案の定、男は腹を刺された重症患者の頭にぐりぐりと拳を押し付けた。
「勘違いすんな。今回の治療も、頭を下げたのも、未成年相手に手ぇ出した罪滅ぼしみたいなもんだ。……ガキ相手に湧かす情なんて持ち合わせちゃいねぇよ」
 言えば言うほど、墓穴を掘っていることに気付いていないのか、涼一は意地っ張りな子供の言い訳をする男のあまりの可笑しさに小さく声を上げて笑ったが、腹に響いて笑みはすぐ苦痛に歪んだ。
「そら見ろ。大人をからかうんじゃない」
「……へーへー」
 世渡りが上手いのか下手なのかいまいちよくわからないが、こういう人間がいてくれてよかったと、涼一は思った。
『リリン……ッ』
 その時、病室の外で鈴のようなものの音が響いた。来院を知らせる合図である。
「……来たな、宮村さん」
 二人に聞こえるように呟いて、男はすぐに病室から出て行った。涼一は初対面であるため、どんな人間が来るのかと、体を強張らせる。
 涼二の方を見ても、会うのは初めてではないはずだが、同じように表情を固くして病室のドアを凝視していた。
 ドアの向こうで数人分の足音がやけに大きく響いてくる。
 一瞬足音がぴたりと止み、そしてゆっくりとドアが開いた。
「―――え……?」
 どんな強面の人間が来るのかと身構えていた涼一は、入ってきた人物が想像していたものよりずっと若い……いや正直に言うと、幼いことに思わず疑問の声を上げてしまった。
 後に続いて、ドアの枠からはみ出るくらいの身長だが柔和な顔つきをした男と、そして医者の男が入ってきた。
「腹の傷、大丈夫か」
「………へ?」
 大柄な男の方が組の人間かと思った涼一だが、男は何故か隅に控え、涼一と同じ年くらいの少年に話しかけられて、目を白黒させた。
「傷の具合を訊いている」
「あ、え、と……はい、まぁ……」
「そうか。……世話をかけたな、紫藤。あとで礼を持ってこさせる」
「いえ、他ならぬ宮村さんの頼みですから」
 そういえば、変態モグリと罵っていた男の名前は紫藤だったな、とおぼろげに記憶を手繰り寄せるが、それも霧散してやはり状況が飲み込めない涼一は、紫藤が慇懃に頭を下げるほどの力を持つ少年の顔をまじまじと見つめた。
「……何だ」
「話すのは初めてだから。……誰?」
 あまりに無防備な問いに、脇で紫藤の表情が険しくなったが、涼一は構わず少年を見据えた。
「あぁ、そうか。お前にはまだ言ってなかったな。俺は宮村組第二十五代目組長の息子の宮村ジンだ」
 涼一のその無礼な態度に眉ひとつ動かすことなく、少年は淡々と身の上を述べた。
(親の七光り……ってわけでも、なさそうだな)
 涼一はベッドから見える宮村を上から下までじっと見て、その身に纏う雰囲気の違いに、本能的にそう察した。
 今まで売りをした相手の中には、親の七光りで会社の重役ポストについていることを、恥ずかしげもなく自慢するようなどうしようもない阿呆や、社会的自立もしていないのに、親の稼いだ金を湯水のように使って遊ぶ者もいたが、髪と同じ色をしたその漆黒の瞳には、表社会に生きる人間にはないような、独特の力強さと物を言わせぬ威圧感があった。その雰囲気だけを見れば、とても同年代とは思えない。
「依岡、涼一……だったな」
「そうだけど」
「数日間はここに入院させる。ここにいる間は紫藤の指示に従って安静にするように。退院する頃には、屋敷の離れも入居の準備は出来ているはずだ。引き取るって話は、もう聞いただろ?」
 精神年齢がざっと十年は違うような感じがするのは気のせいだろうかと思いながらも、涼一は訝しげに宮村を見る。言葉と視線で会話をするというのも不思議なことだが、宮村は涼一の言わんとする事を察したらしく、すぐに答えた。
「安心しろ。別に臓器目的だとか、薬漬けにして売買にかけるなんてことはしない。基本的にそういうのはやらない組だからな。お前らの心意気ってやつを、単に気に入っただけだ」
「本当にそれだけ?」
「あぁ……。いや、誕生日に何も欲しいものがなかったからっていうのもある」
 どこまで本気なのか、涼一には判断がつかなかったが、冗談だとしてもそういうことを言うところは年相応な感じがして、思わずクク…と笑った。
「……お前が訊いたんだろうが」
「いや……俺らみたいなのが、誕生日のプレゼントでいいのかよって思ったら、可笑しくて」
 気付くと一言も言葉を発していなかった涼二も、クスクスと笑っている。
 宮村の方はあくまで本当の事を言ったまでだというのに、それを笑われていささか不機嫌にはなったが、気を取り直して咳払いをすると、一度は命を失いかけた涼一に対して、力強く真摯な瞳を向けた。
「それと、涼一。これだけは、この先何があっても絶対に守れ。弟がお前にとって大事なもんだってことは話を聞いて十二分にわかったが、そのために命を捨てるとか、自分の命をぞんざいに扱うような真似だけは絶対にするな」
 いきなり呼び捨てに命令口調か、と少々ムッとした涼一だが、後に続いた言葉に開きかけた口を閉じた。
 宮村は涼一を見据え、構わずに続ける。
「命を懸けるくらい大事だって言うならな、意地でも生き抜いて、最後までちゃんと守ってやれ。お前の弟にそこまで出来るのは、他の誰でもなくお前自身なんだからな。中途半端に『守って死ぬ』つって死んじまうのは、単なるテメェのエゴだってことをちゃんと理解しろ」
「…………」
 命の重さを知る人間のその言葉は、何よりも重く、涼一の心に響いた。
 そして、宮村の人と為りを見るには、それだけで十分だった。
 涼一はこくりと頷き、そして傷に障らないように居住まいを正す。
「……よろしく、お願いします」
 涼二を一生かけて守っていくという誓いをも込めて、涼一は深く頭を下げた。


This continues in the next time.
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