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11、真実と愛の形


 ……今、一体何時なんだ。
 腕時計も腕ごと後ろにまとめられているせいで見えない。同じ態勢でずっといたせいで、腰が悲鳴を上げていた。
 俺はあの後流れ出た涙も拭えずに、じっとしているしかなかった。普通なら「何でこんな目に」なんて感情で一杯なんだろうけど、俺はどうしてか、こんな目にあわせた張本人が心配だった。
 涙が乾いた頃に一度ドアが開き、携帯で誰かと話していた最早ヤクザ・神崎は、不意に「何か言え」と俺の口元に携帯を持ってきた。相手は? と訊ねる必要もない。俺を人質に取られて困る、怪しい集団と知り合いの人間なんて、一人…くらいしか思いつかない。
 何を喋っていいのかわからなかった。助けて、と言いかけたけど、喉の奥で詰まって声にならなかった。結局、いつもの口調で喋って、宮村の気持ちを少しでも落ち着かせてやるつもりで口走った浮気宣言。
 今にして思えば、余計に逆上させただけかもしれない。苦笑がこみ上げてくる。笑いでなければ、きっと涙だ。
「何だぁ、お前。今度は苦笑なんて洩らしてよぉ」
 さも気持ち悪そうに、数時間前から立っている見張り役のオールバックが激しく似合わない根っから犯罪者みたいなオジサンが言った。俺は笑いながら、目を向けた。
「アンタには、一生理解できることじゃないよ。クソオヤジ」
 俺の物言いにカチンときたらしい。オジサンは眉をピクリと顰め、足早に歩み寄ってくる。
 腹は減っているし、水も飲んでなくて喉はカラカラ。湿度は高めだから、まぁ何とか話せる感じ。じめじめした空気が部屋全体に充満して蒸し暑く、普段なら喋る気力すら失せる悪環境だって言うのに、憎まれ口だけは立派に叩くのが災いして、誘拐されてから今までに、痣や傷が多数増えていた。
「言葉遣いには気をつけろ、クソガキが」
 革靴を履いた足で頬を蹴り上げられる。口の中に鉄の味が広がった。いってぇ…親父にだって叩かれたことはあっても、蹴られたことはなかったこの顔を…。兄貴なんて割れ物でも扱うように触っていたこの顔を足蹴にする人間がいるとは……。世間は広い。
 俺の世界観が変な方向で開きかけていた。
「っ……ぅ」
 口の中で舌を駆使し、血の出所を舐める俺は、このオジサンにはどう見えているんだろう。酷く滑稽で、小さく弱い存在か。口先だけで、何も出来ないクソガキか?……どっちでもいい。
 あいつの目に、俺はどう映っていたんだろう。あの程度の言葉で、血相変えて駆けつけてくるほどの人間として捉えられていたのか。
 もし俺があいつの立場だったら、見向きもしないクソガキだったろうに。
 もう笑う気力もないけど、笑いたくなる。
 腹が減っている所為で、頭のネジが二、三本外れているのかも。やばい。誰か締めなおしてくれ。自分で締めようにも、両手が塞がっているんだ。
 かと言って、何も知らない目の前の人間にそんな事を言えるはずもなく、押し殺し損ねた重苦しい溜め息が口から洩れだした。
 あー、重い重い。とっとと助けてくれねぇかな、黒ベンツの王子様…いや黒ベンツの若様。違う、若頭だよ。まさかもう殺されたりとかしてねぇよな……?
 そう考えると、自分自身の思考が恐ろしいものに思えてきた。いつもなら「アイツが死ぬわけねぇだろ。心臓に毛が生えてるような奴だぞ」と根拠のない理由で言いきかせているところだ。
 シャレにならない今の状況で、俺のおめでたい脳みそも現実を受け入れ始めたというわけで。
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか。今の気分では後者だけど。
 鼓動が速くなる。一分一秒が長く感じられ、デジタルで秒針の音は聞こえるはずもない腕時計から、カチカチと秒刻みの聞き慣れた音が聞こえてきそうだった。
 すると足音が部屋の外から洩れてきた。二人とか三人とかじゃない。五、六人のバラバラの足音が、徐々に近づいてくるのがわかった。俺の耳はロバ…じゃない地獄耳。
 今俺の顔を蹴ったばかりのオジサンに無理やり立たされ、縛られている腕をギュッとつかまれた。あまりの力に眉間の皺が寄るけど、痛い、とは口にしなかった。重厚なドアの向こう側に立つ人間が気になって仕方なかった。
 耳を刺すような錆び付いた鉄の擦れる音が部屋全体に響き渡り、部屋の外の明るい光が真っ直ぐな筋となって俺の体を照らした。その光源の下には……やっぱりいた。
「ジン……」
 無意識のうちに洩れた言葉は、他の足音に掻き消されたに違いない。宮村は黙って、俺のボロボロの姿を凝視していた。
 今にも駆け出さんばかりの勢いがうかがえる宮村に銃を突きつけながら「妙な真似はするなよ」と言って入ってきたのは、三笠守矢その人だった。
 その後に、神崎に銃を向けられながら依岡兄弟も続いて入ってくる。
「ど、して……」
 宮村ならわかるけど、なんで依岡兄弟までここに来ているんだ?
 掠れた言葉は後ろに立つオジサンにしか聞こえない。オジサンに訊いても教えてくれそうにない。フッと後ろを盗み見ると……いつの間にか、俺の頭に銃口が零距離で向けられていた。……こ、こわい。
「おい、理人から銃を下ろせ」
 俺の後ろにいるオジサンではなく、三笠に向けて宮村が言うが、何が可笑しいのか、三笠は笑いながら拒否をした。
「神崎が言っただろ。お前に選択の余地はない、とな」
 うわ、ムカっとくる物言い。……実際生きるか死ぬかの窮地に立たされている俺が思えることじゃなかったけど。
 宮村は深く息を吐いて「要求は何だ」と暗い声音で言った。目はしっかりと三笠を見据え、決して離そうとしなかった。
「話が早いじゃないか。俺が欲しいのは――」
 いけない。
 その先を言うな。
 俺は何を言われるのか全く見当もついていないのに、そう思った。
「宮村組のシマを渡すこと。そして、涼一と涼二を返してもらうことだ」
 シマを渡すって言うのはもしかしなくても「俺の下に跪け」…はなんかSMっぽいけど、つまりそんな感じなんだろうか。
 ――――俺って、エライ事に巻き込まれたんじゃ…?
 でもそれよりも気になる事があった。
 俺は目を見開いて、宮村の後ろに寄り添って立っている依岡兄弟を見た。
 弟は兄の手をギュッと握り、兄は険しい表情で三笠を睨みながら、下唇を噛んでいた。
 どういうことだ……? 依岡の二人を返すって。だって、あの二人は宮村が「拾った」んじゃないのか? 依岡兄だってそう言っていたし。
 宮村は事情を知っているようで、予想はしていた、という表情だった。時折目線をこっちに向けてくる。明らかに、俺を気にしていた。
「……っめだ…」
 俺のカラカラの喉から搾り出されるように声が洩れた。言わなきゃいけない。掠れた声が届かない。
 俺より先に周りに聞こえるように声を出したのは、あまり話したことこのなかった依岡弟の方だった。
「止めてよ、叔父さん! 理人君は関係ない。それに、ジンも組も俺達を親切に扱ってくれた恩人なんだ。だからこれ以上は止めて」
 依岡兄から体を離して、三笠を怯えたような瞳で見つめながら、いつもとは全然違う強い口調で言った。
 咄嗟に神崎が銃を向ける。依岡兄が銃口から庇うように弟を抱いた。
 いいぞ、依岡弟! と俺は心の中でガッツポーズ。
 …………ちょっと待て。今「おじさん」って言ったよな? 誰のことだ。まさか名前を知らないから「オジサン」呼ばわりしたわけじゃないよなぁ?
 ってことは……?
 銃を突きつけられた頭でグルグルと考えて、声にならない叫びを上げた。
 えぇえぇえええ――――っ!
 この三笠守矢って人と、依岡兄弟ってもしかして親戚同士なの!?
 三笠は「叔父さん」と呼ばれた事が嬉しいのか、ふっと頬を緩めた。引き金の指の力は抜いていないようだったけど。
「わかってないな、涼二は。俺はお前たち二人がこっちに来たとき、何不自由なく生活して欲しいんだ。それには今以上に力も金もいる。俺に出来る限りのことをしてあげたいんだよ」
 その口調は俺とのそれとは違い、可愛い甥を甘やかしている親戚のようなものだった。出来ればそれを俺達にも向けてくれればなぁ…ってそれは無理か。
 けどその言葉を否定するように首を振って、依岡弟は続けた。
「違う、俺達はそんな生活なんて望んじゃいない。兄さんだって、そう言った筈だ。どうして父さんと母さんが死んだときに俺達がここへ来なかったか、考えたことくらいあるんじゃないの?」
 何だろう。物凄く悲しい。
 親戚同士のいがみ合いなら、ただ醜いだけだって思うけど…と特殊な事情があるみたいだ。弟の方は、それを口にするのすら辛そうだった。
「もういい、涼二」
 腕を強引に掴んで弟を抱き寄せた兄は、鋭い双眸を三笠に向けた。憎しみでも込められているかのようだった。
 わからない。ただどうしても、三笠には行きたくない理由があるんだ。三笠は、理由を知っていても尚、二人を戻す気らしい。
 バトンタッチして、今度は兄の方が喋りだした。
「叔父さん。俺達は二度と三笠には戻らないと言った筈だ。姉である母さんを愛していたアンタなら、勘当されてでも手に入れた幸せなときを過ごした証さえも消し去ることがどんなことなのか、わかってるんだろ」
 そんなことは、死んだ母さんも望んでいない。その後の言葉が俺には不思議と理解できた。
 どうやら依岡兄弟の母親の弟が三笠らしい。そして三笠は姉を愛していた。
 俺には理解し難い恋愛感情だけど……何となく、三笠の気持ちはわかる気がした。でも――――。
 こんなことは間違ってる。
 俺が頭の中で言葉を整理しているうちに、カチリという音がすぐ後ろで聞こえた。それは撃鉄を起こした音だった。黙ったままだった宮村が口を開いた。
「やめろ――――っ!」
 俺を助けようとしたのか、駆け出そうとした宮村は三笠が銃をこめかみに突きつけたことで動きを止めた。
「じゃあ、とっととケリつけようや。俺も組の人間も気は長くない。お前が一言、わかったと言えば後ろの二人以外は無傷で返してやるさ」
 宮村が歯をギリギリと噛みしめた。俺は次の一言が最後だと思い、渇いた喉を震わせて叫んだ。
「わ――――」
「ダメだっ!」
 いきなり大声を出したせいで、俺を掴んでいた男の指に力が入るのがわかった。まだ、逃げない。
 ただ言いたい事がたくさんあった。
「俺一人のために、お前を信じて動いてくれる組の人たちまで犠牲にするな! アンタ、いずれ組長になるんだろ? 俺みたいなくだらない人間の命のために、どこの馬の骨かも知れない奴に全てをやるなんて、許さねぇぞ」
 せめて、宮村が俺という存在の優先順位を落としてくれれば。
 俺みたいな『玩具』のために全てを捨てようなんて思わなければいいと思った。
「それから依岡兄弟! 何があったか俺は知らねぇけど、大事なものは、最後まで大事にしておくもんだ。俺なんかに構わないで、とっとと逃げりゃよかったんだ」
 俺なんて最初から構わなければ。出会わなければ。
 こんなにアッサリと選択を迫られることなんかなかったかもしれないのに。
 どこまでも間抜けな自分が許せない。けど、それ以上に、人を傷付けてでも思うがままにしようとする人間が許せない。
「それと三笠守矢! 人を傷付けてまで自分の欲しいものを手に入れて、何が嬉しい。どうして二人の――依岡の家族の気持ちを酌んでやる事が出来ないっ。愛していた人間が幸せだった証も奪って……そうまでして何がいいっていうんだ」
 俺だって、人を傷付けたことはないなんて綺麗事を言うつもりはない。「お前の母ちゃん出べそ」とか、ガキの頃は言いまくって泣かせたこともあった。要求が通らないと、相手の弱味を平気で言いふらす子供だった。
 でも過ごした時間まで奪うような人間は、そんな俺よりも、強引に襲ってくる傲慢な誰かさんよりも、もっとずっと最低だ。
 ぜぇはぁと息を切らし、喉の酷使に咳き込んだ俺に三笠が怒鳴った。
「ふ、ざけるな。誰が自分以外の人間と愛し合っていた証拠を残しておきたいというんだ。二人は姉さんの子供だ。大切にする。が、他の男の籍のままでなど、許さない」
 まさに「嫉妬する、恋に狂った男」というべき醜態だった。
 じゃあ簡単だ。最初から欲しがったりしなければいいだろ。話のわからない男と、自分勝手な男は嫌われるんだぞ。
 俺は怒りを込めた目でジッと三笠を見据えた。
 その刹那だった。
 宮村の影が、三笠が俺のほうに意識を向けた一瞬のうちに態勢を変え、長い足で三笠の持っている銃を弾き飛ばした。片手で三笠の襟を掴み、もう片方の手で懐から出したナイフを突きつけた。
「動くな」
 喉元に切っ先を向けながら、今まさに引き金を引こうとしていた後ろのオジサンと、神崎を凛とした声で制す。
 ―――すっげ、どこの流派よ、ソレ。俺もやってみたい。と思うのはきっと不謹慎なんだろうな……でもカッコいい。
「銃を投げて寄越してもらおう」
 部屋の壁に背を向けた状態で、オジサンと神崎が妙な真似をしてこないようにゆっくり距離を取る。宮村の足元に二丁の拳銃が転がってきた。
 宮村は最初に俺の解放を要求し、次にオジサンと神崎の所持品の確認と拘束を依岡兄弟にさせた。どうして二人とも、そんなに拘束する手際がいいんだろ?
 それが終わると、宮村は無抵抗の三笠を乱暴に床に叩きつけて、ちょっと力を添えるだけで喉を裂ける、というあたりまでナイフの先を三笠に突き立てた。
「ぐっ―――ッは」
「理人をこんな目に遭わせて……ただじゃおかない」
 その目には射殺さんばかりの鋭い眼光が宿っていた。俺は縄目のついた手首を押さえながら、宮村の名前を口にした。
「ジンっ…! 殺しちゃダメだ」
「何故だ。こいつは、お前を傷つけ、俺の家族同然の依岡を侮辱したんだぞ」
 こみ上げる怒りを押し殺したような声音に、俺は足が震えだしそうになった。こんな宮村は知らない。
「でも、ダメだ。こんなことで、手を汚しちゃいけない。それに、アンタに人殺しのレッテル貼られちゃ、たまんねぇしっ」
 そんな目で見られて生きて欲しくない。俺のことを遊んで捨てたって、俺は恨まない。それが宮村のためだって思うから。だから、俺以外の誰かが宮村を恨み、憎むのも、嫌だ。三笠には恨まれるかもしれないけど。
 宮村はここからじゃどんな表情をしているのかわからない三笠から目を離さずに、ゆっくりとナイフを離した。けど、いつでも刺せる場所に移動させただけ。
「さぁ立て。車に乗るまで、人質として付いてきてもらおう」
 後ろ手に両手首をひとまとめにされ、打ち付けられた痛みに顔を歪める三笠を押して、宮村がドアに向かう。
 依岡兄は放られた銃を持って、拘束済みの他の二人に銃口を向けながら最後に出た。
 部屋の外に出ると、廊下の明かりが妙にまぶしかった。足早に進んでいく宮村に遅れないように、額に手を当てて目を庇いながら進んだ。
 突き当たりの階段を上がると外に出た。どうやら、俺がいたのは地下室だったらしい。外の空気を目一杯吸い込むと、湿った空気が鼻に刺さる。それでもあの部屋の中よりはずっとマシだった。
「覚えてろ…いつか、この恨みを晴らしてやる……!」
 車の前に来ると負け惜しみのように三笠が吐き捨てた。宮村はその言葉を鼻で笑い、「出来るもんなら、やってみろ」と言わんばかりの態度で三笠の両手首をきつく握り締めた。
 見慣れた黒ベンツのエンジンを依岡兄がかけ、俺は大事を取って助手席に、依岡弟は後部座席の左端に縮こまるようにして座り、宮村が真ん中に三笠を抱えるようにして入った。
 すっかり暗くなっていた夜道を制限速度無視のスピードで数十分走り、何処かもわからないような歩道に三笠を押し出した。
 追っ手が来ない。きっと、最低限の人間しか関わらないようにした三笠の行動が逆に役立ったらしい。
 そんなことを組の人間におおっぴらにするようなバカには見えなかったし。
 三笠がいなくなり、車内から少しずつ緊張した空気が薄れ始める。けど誰一人として喋ろうとはしなかった。能天気な俺の頭でも気の利いたギャグや話題は出てこない。
 それでも俺は――――やっと全身から力を抜いて、シートに体を沈める事が出来たのだった。


This continues in the next time.
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