8、帰りの雨 次の日の昼。心地よく眠りにつこうとしていた俺の目を覚まさせたのは、お決まりのアナウンス用チャイムとともに聞こえてきた校内放送だ。 俺が直接聞いたわけじゃなく、俺と一緒にうつらうつらしていた拓海が聞いてわざわざ俺を起こしてくれたんだけど。 「ぉ〜い…お前、呼び出し。職員室に、行け」 眠さからか、舌っ足らずな口調で言いながら肩を揺さぶる拓海に、負けず劣らずの舌っ足らずで答えた。 「行…きた、くね〜ぇ」 「行きたくねぇ、じゃなくて〜…何か電話みたいだぞ」 「ぅえぇ〜…誰だよ、俺に文句あんのかよ」 普段ならすぐに立ち上がって職員室に向かうところなのに、眠たさMAXの俺はどこでも寝ぼける。もちろん、学校でも。 まだ用件も知らないのに、半目で拓海を睨んだ。 「文句かどうかは、行ってみねぇとわかんね…」 「……。仕方、ねぇ」 俺はのろのろと起き上がって、呼び出しされた東じゃん…とかいうその他諸々の視線を感じながら、フラフラとした歩き方で職員室に向かう。 「いってらっしゃ、ふぁ〜い」 ぶんぶんと腕を振って見送ってくれた拓海は、言い終わらないうちに盛大な欠伸を俺の背中に投げてきた。 昼休みに廊下で屯している女子&男子軍団やカップルを危ない足取りですり抜け、途中階段を踏み外し、教室のドアにぶつかったりしながらも俺は職員室にたどり着いた。その頃にはあまりの痛さに目も覚めていた。 「失礼しま〜す。東ですけど、電話があったそうで……」 「遅いぞ、東。父兄の方から電話だ」 既に名前を憶えられてしまったらしい俺は、そろそろ頭皮が見え始めている教頭の小言よりも、「父兄の方」に気が行った。 父兄の方…父兄のフは父さん、ケイは兄さんって書くんだよな。いや、家族とかはひとまとめにそう言うんだっけ? じゃなくて、父兄!? 「はいはい今すぐにっ」 変にぼけてきた頭でやっと情報整理と理解が出来た俺は教頭の卓上にある受話器を手渡されるよりも先に取る。 こんな時間に、わざわざ学校に電話してくる人間といえば、ブラコン兄貴しか思いつかない。 「も、もしもし…」 白々しく世間一般的な応答。コレが家の電話なら「何だよ、兄貴」だ。けど、今は「何だよ」では済まない。 そう、俺は一人暮らしを始めてから忘れることのなかった「兄貴コール」をかれこれ三日くらいしていない。 それでも「よく学校に乗り込んでこなかったな…」と自分の怠慢を棚に上げて感心している俺がいた。怠慢というか、無闇やたらに電話できない状況が続いていただけなんだけどね。 誰かに電話しようとして、宮村に電話を貸してくれるように頼んだときも「誰と何を話すんだ?」っていちいち聞いてくるし、依岡兄に電話のある場所を教えてもらおうとしたら「何〜、りっくん。浮気ぃ〜? ヤクザの若様と掛け持ちなんて、隅に置けないね〜」なんてニコニコ言ってくる。しかもそれを宮村に聞かれていたせいで余計気軽に電話も出来なくなる始末。 ブラコン兄貴と電話、なんて口が裂けても言えない。言いたくもない。向こうの情報網は兄貴の過度な干渉に気付いてないわけはないけど、面と向かって言うにはいささか勇気が足りない。 公衆電話という最終手段もあったけど、兄貴の長電話を考えれば、勇気だけでなく小銭も足りなかった。 家にも帰ってないので尚更だ。 案の定、兄貴は泣いているのか怒鳴っているのかわからない声で俺を呼んだ。 『理人ぉ〜〜〜っ!』 「ぅ、わ」 耳から受話器を通してダイレクトに飛び込んできた兄貴の声は、脳を揺さぶるほど気持ち悪…いや、頭に響いてきて、受話器を耳から外した。 周りの視線が、俺に注がれている。 頼むから、かけている場所が何処かくらい考えて音量調節しろよ。俺だって嫌になってくるよ。いくら一人暮らしの条件だったとしても。 今時そんな条件つけてくる兄貴も兄貴だし! 「な、何だよ兄貴。ここどこだと思ってんだよ? 学校だぞ」 『理人が電話しないからだろう。心配したんだぞ。アパートに電話しても誰も出ないし、最近寝るの早すぎてないか? そんなに学校忙しいのか』 何も知らない幸せな兄貴は、俺が学校や一人暮らしの疲れでとっとと寝ているんだと思い込んでくれていた。 それは俺にとっては好都合だけど、本当はアパートに戻ってもいない。 「う…そ、そうなんだよ。最近色々とあってさ…」 『やっぱりそうなのか!? じゃあ今日にでも帰りにアパートの方に差し入れ持って…』 「それはいい!」 今アパートに行ったとしても、俺自身はともかく、家具すらない。もぬけの殻だ。兄貴の性格から考えて、間違いなく警察沙汰だ。 まずい方向に行きそうになった話をうろたえながらも声を大きくして断った。電話口で顔を真っ青にしている俺を、疑わしいという目つきで教頭が盗み見ている。 『そ、そうか。手伝って欲しいとか、助けが必要なときはすぐに言えよ? 悩みもあれば遠慮しないで何でも相談していいからな』 「うん…わかったよ」 と答えながらも、俺の頬は引き攣っている。悩みなんて、同棲生活から始まって両手足の指じゃ足りないくらいある。兄貴を思えばこそ、余計に言っていいことじゃない。 「じゃ、とりあえず切るよ。こんなところで長話なんて真っ平だし!」 『わかった。じゃあまた夜に電話すること。いいな』 「あ〜。う、ん…?」 歯切れの悪い返事をしながらも、とりあえずまだ何か言いたげな兄貴との通話を切った。 決して果たせる約束じゃないことくらい、俺にも簡単に予想がつく。何せ俺の住居は今や『悪魔の巣窟』だ。 「お兄さんからか?」 「えっと、はい。そうですけど……」 目の前で挙動不審を繰り返していた俺をジロジロと見ながら、教頭が訊いてきた。 「確か東、一人暮らしだったよな? あまり家族に迷惑かけるんじゃないぞ」 「わかってますよ〜……」 わかってる。わかってるけどどうにもならなくてムカつくの! せめてあの「どこかずれている屋敷の住人」のうちに、一人でもいいから優しく俺に電話をさせてくれる人がいれば……。 話すのは苦手だけど、やっぱり組長に頼むしか……。何て言おう。 重苦しい溜め息を教頭の机に吐き出して、ピクリと眉を歪めた教頭の顔も見る気にはなれずに「失礼しました〜」という気の抜けた声で職員室から出て行った。 何も知らないって、何でそんなにも幸せそうなんだよ…兄貴。 「あ〜……また雨?」 俺は屋敷の最寄り駅の出口で右往左往していた。 傘がない。そんで宮村にも連絡がつかない。外は大雨=濡れる。当たり前のことでも絶望的な響きを感じてしまう。 最近雨が多いと思ったら、そうだった。もう梅雨だ。 テレビとかほとんど見なくなったおかげで、ニュースも天気予報もロクに聞いていない。どうしてクラスメイトは傘の準備がいいのかやっとはっきりした。 一過性の夕立ならすぐに止む。でも今日は違うようで、かれこれ三十分はここに立ち往生だ。 「あんの役立たず。何でどうでもいいときは繋がって、本当に必要なときに繋がらねぇんだか…」 理不尽な怒りに鼻息を荒くしながら、もう一度駅の改札前に引っ込んで、公衆電話の受話器を引っ掴んだ。 『留守番電話サービスセンターです……』 幾度も聞かされたやけに明るい既成音が耳に入ってきた瞬間、俺はガチャンと乱暴に受話器を戻した。 ここで待ち続けているわけにもいかない。でも知っているのは宮村の携帯の番号だけだ。 「仕方ない。傘買って帰ろ…。後で傘代請求してやるからな、宮村の野郎」 ブツブツ言いながら駅構内にあるコンビニに入って傘と菓子パンを買って外に出た。 相変わらずの豪雨で、今にもこうもり傘になってしまいそうだ。傘を持っていても雨宿りしている人もいる。 弱くなるまで待っているのもいいかもしれないけど、そこまで気が長いほうじゃない。 俺はズボンが濡れるのを覚悟して、風上に傘を傾けながら歩く。すると辛うじて見えていた斜め前の地面に俺の方を向きながら立ちはだかる人がいた。 この雨の中、なんだってこんなところにつっ立ってるんだろ。バカ? 勝手にけなしてさっさと行こうとしたら、俺は避けようとしたそいつにぶ傘ごとぶつかった。ちなみに、俺は避けそこなうほどバカじゃない。そいつが俺の前に立ちはだかったからだ。 「っぶねぇな! 何人の前に立ちはだかってんだよ」 雨粒が飛ぶほど勢いよく傘を普段の位置に戻しながら言うと、見慣れた黒スーツを着込んだ知らない男が、いきなり頭を下げてきた。 「す、すみません。あの、車まで入れてくれませんか? ここの道沿いなんです。公衆電話ボックスでずっと雨が止まないか待っていたのですが…。通りかかったのがあなただったので。ほんのちょっとでいいんで、お願いします」 格好が格好なだけについ「同業人」かと思ったが、どっかの誰かさんと違って物腰は丁寧だし、人に物を頼む態度もちゃんとしていた。 仕事中? だとしたら怪しい格好だ。それとも葬式の帰りか…。 その辺の先入観は頭の隅に置いといて、困った様子の男を助ける善人になるため、対人モードをチェンジした。 「あ、そうだったんですか。いいですよ」 ニッコリと笑って、傘を男の頭が入るくらいの高さに持っていく。おゎ、意外とでかい。 「ありがとうございます」 男も人の好い笑みを浮かべて歩き始めた。足の長さが違っても、あくまで俺のペースに合わせてくれているところが好印象だった。 せめてこのくらいの気遣いというものが、あの屋敷の、特に若とその居候にあれば…。兄貴にも迷惑かけることなんかないし、教頭にわざわざ説教されることもないのになぁ。 「どちらに向かうのですか?」 「あっと、家……です」 本当は無理やり住まわされているだけの身分だから、はっきりとそう言えない。俺は心の底から「自宅」に帰りたい。高校生にもなってホームシックに陥るとは思いもしなかった。 「見たところ学生のようですが、帰宅時間の方、大丈夫ですか?」 「えぇ、まぁ……」 あの家に門限があるのかさえ定かじゃない。むしろあった方がおかしいと思うな。 話題のない相傘だけど赤の他人な俺に気遣ってか、いろいろと訊ねてくる男の質問に、言葉とは裏腹な回答を心の中で呟きながら歩いていく。 雨は短時間の間にますます強くなって、傘からはみ出た俺の左肩はずぶ濡れだ。もう数メートル先に立つ人間も見えやしない。 「うは〜、雨、強くなってきちゃいましたね。俺、また雨宿りしてようかな…」 「もしよければお送りしますよ。車ならすぐでしょうし、雨にも濡れないですしね」 冷たい雨に身を震わせながら呟いた言葉に、男は嬉しい提案をしてくれた。一も二もなく俺は「本当ですか!?」と話に乗っていた。 「ええ」 やっぱ絶対、いい人だ……! 「じゃあ、お願いします」と遠慮がちに、でも思いっきり乗る気で頭を下げた。 そのまま大通り沿いを十分くらい歩き続けたあと、ダークグレイのちょっと高級? という雰囲気溢れる車の前で男は立ち止まり、俺もつられて止まった。 運転席には人が座っていて、俺の顔と男を窓の内側から見るなり、男に向かって合図するようにコクッと首を縦に振った。 「?」 俺が意味を理解できずに首を傾げたときだった。 トン、とボールを地面につく様な音が後ろの方で聞こえた。俺の体はグラリと傾き、スゥッと波が引いていくように意識が遠のいていく。 何故……? 答えを見つけだす間もなく、視界が真っ暗になった。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |