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9、呼びたくなった名前


 頬骨が冷たくて硬い床に当たって痛い。……俺が意識を取り戻すのには十分な痛覚だった。
 妙にだるい体を持ち上げようと腕を動かそうとした。けど、それはその時点で無駄な神経伝達だった。俺は両手を後ろで縛られていたからだ。
 仕方なく、仰向けに転がって腹筋の力で上体を持ち上げる。両足は自由みたいだった。
 コンクリ打ちっぱなしの壁に四方を囲まれた部屋。あれ、何で俺、こんなところで両手縛られて転がされてんだろ?
「……ここ、どこ?」
 誰もいないのにとりあえず呟いてみる。けどコンクリの壁は俺の声を反響させても、俺の言葉に返事を返してくれる様子はなかった。
 とにかく、今日一日の回想を脳内に巡らせる事から始めた。
 ええと、今日は兄貴から学校に電話があって…それは戻りすぎか。そうだ、雨がザザ降りだったから駅で立ち往生してたんだよな。こんなときに宮村には電話繋がらねぇしよ。んでー、傘とパン買って、外歩いてて…。
「あ、買ったパン、どこだっけ?」
 どこまでも食い意地の張った俺は途中で「パン」というキーワードに早くも脱線。
「って、違うだろ」
 頭をブンブン振って、軌道修正をしてから、また回想を始める。
 歩いてたら、見慣れた真っ黒男に会って車まで送ったんだよな。したら後ろで音がして、そっからわかんなくなったんだ。
 そこまで思い出したとき、首の後ろに鈍痛が走った。
「つぅ……な、何だぁ?」
 痛みに眉を顰めてしばらく沈黙したあと、俺が達した結論は「つまり気絶させられたんだな」。
 うん、ちょっとまて? ってことはだ、一言で単純に言い表すと、俺は誘拐されたってこと?……そーなのか!?
「何、俺。また『黒い王子様』二号に誘拐されたわけ? しかも今度はモノホンの誘拐犯?」
 ベンツがついていないだけで、中身は変わらないもんだな。
 じゃなくっ。どうすればいいんだよ、俺っ! またもやっというよりは「今度こそ」絶体絶命の大ピンチってヤツっすか。誰だヤツって。いや、俺だろ。
「あぁもう…。あまりの非現実的で非常識な非常事態のせいで頭がおかしくなってきたぞ。誰から慰謝料と治療代ふんだくればいいかわから……」
 そんなどうでもいいようなよくないような疑問をボソボソと呟いていた俺は、ガチャンという重苦しいドアの開く音に口をつぐんだ。
 中に入ってきたのは俺に親切心を起こさせた挙句、気絶させて誘拐した「顔だけは優男」と、三十代半ばの目つきの悪い男だった。
 訂正。顔だけ優男も、柔和な表情でなければ結構怖いもんだ。
 俺はまず、誘拐犯から文句を言い始める。
「あ、おいアンタ! 何で俺をこんな面倒な格好にして役に立たないようなところに放り込むんだよ。もうちょっと優遇しろよな! じゃなくて、何で俺を誘拐するんだ」
 ……初めっから文句を言うところが違った。普段のふてぶてしさが裏目に出たのかもしれない。
 俺の文句に最早「顔すら誘拐犯」は何も言わず、代わりに後ろにいた三十台半ばのエラッそうな男が鼻で笑って口を開いた。
「お前は今の自分の立場をよく理解していないようだな」
「してるよ。これ以上出来ないってほど理解してて、弱いとこなんて見せられるかよ」
 女子がいるわけでもないけど、カッコつけた言葉も忘れない。今なら両手を縛られた状態で安売りしていますよ〜。そこの可愛い子ちゃん、俺をここから出してくれ。この際男でもいいから。
 本音で言うと、やっぱり怖い。
 自然と強張ってくる表情が相手を楽しませるだけと知っていても、わざわざ弛ませることなんか俺には出来ない。……宮村なら、こんな状況でも不敵な笑みは忘れずに、蹴りの一発でも予想しながら皮肉ってそうだけど。
 またもや薄ら笑いを浮べて男は俺に近づくと、噛みつかんばかりの目で何とか睨みだけは利かしていた俺の顎を屈んで持ち上げた。両手が塞がっているのと、抗えない雰囲気が漂う男を前に何も出来なかった。
「俺は三笠守矢だ。お前のところの宮村と同じようなもんだな。先代がとっとと逝っちまったんで組長をやってる。色々と聞き出したい事があるんで、一つよろしく頼むわ。東理人」
 小顔な俺の顎を持ち上げる手に力がこもる。本当のことを言わなければどうなるのか……その先を思いつくのは結構簡単だった。
 何故俺の名前を知っている、なんて野暮な質問はしないことにして、とりあえず必死こいて首を縦に振った。顎でも何でも、へし折られたり、切り刻まれたりするのはゴメンだ。
「わ、わぁった」
 顎がつかまれていて上手く喋れない俺を、冷たい視線で射抜かんとしている三笠守矢は、顎を離してスッと屈めていた腰を真っ直ぐにして、手をポケットに突っ込んだ。
 今時の不良にしては少々時代遅れだけど、下手なヤンキー座りよりはかっこよく見えるから不思議だ。不良じゃなくてヤクザだった。
「お前が宮村ジンと同棲してるのは、本当なんだな」
「どうせッ……してね――――いえ、してます」
 最初から否定しようとした俺を眼光鋭い瞳で見下ろしてきたから、「YES」としか答えようがなかった。俺的にはめっちゃ否定したいんですけど。「同居」ならまだしも、「同棲」ってどうよ?
 それでも一度は食われ、二度も同じベッドで寝ていたんだから(両方とも宮村の強引な手段で)同棲と言われてもしょうがないんだろうな。精神面ですげぇショックだったけど。
 俺の微妙は心境なんて知っていたとしても無視をして続けるだろう三笠は、口の端を吊り上げて呟いた。
「なるほど……あの無節操な野郎がなぁ。まぁいい、これで舞台は整ったわけだ。神崎、すぐに宮村ジンに連絡を入れろ。お前の玩具を預かったってな」
「お、玩具ぁ!?」
 人のことを行動だけでなく言動までモノみたいに扱われて、さすがに聞き捨てならなかった。
 別段意識したわけではなく、そう呼んでも構わない相手だという態度が余計に腹立たしい。
「黙って聞いてれば舞台だの玩具だの。人を何だと……!」
「ぎゃあぎゃあ煩い。宮村にとってみれば、お前なんて玩具にすぎねぇんだ。どうせ、跡継ぎだって欲しくなってくる。せいぜい、今だけでもいい思いをしておくんだな。……行くぞ、神崎」
 端から見れば、どう考えても冷酷で傷つけるような言葉をサラリと言ってのけ、俺に一瞥をくれてから、誘拐犯こと神崎を従えて薄汚い部屋から立ち去った。
 俺はただ呆然としながら、三笠が放った言葉を頭の中で反芻させていた。
 跡継ぎの、子供? あの強引男が、あの性格で女を娶るって?
 ……まぁ、あり得るのか。顔もアレだし。そういう同業者同士の「政略結婚」的なものでなくったって、ヤクザってことを無闇にひけらかしたりしなきゃ引く手数多だろうな。欲しい女が断ってきたとしても、逆にバックにある家業を脅しに使えば済むことだし。…それは考えすぎか。
 あの整いすぎた容姿に研ぎ澄まされた瞳。真面目に見つめられて、宮村の掌中に堕ちない女がいたらお目にかかってみたい。
 俺だって……見惚れるような顔しているし。
「なーんで俺、そんなこと考えてるんだろうな……」
 容姿とか、結婚とか、子供とか。あまり関係のない問題に過ぎないと気付いたのは、そう呟いてからだった。
 何だろ、こんなもやもやして、ずっとそうしているとムカつくしイライラするし苦しくなってくるしムカつくし悔しいし!
 胃の中に冷たいものが滑り落ちる感覚がずっと続く。どうしても飲み込まないといけない言葉が、今にも出てきそうな気がした。
『玩具』
 あの三笠って奴は、人のことを何だと思っているんだ、本当に。ヤクザってみんなああなのか!? 義理と人情はあるくせに、江戸時代みたいな差別的身分を未だに使っているのか!? 古いぞ、任侠。…いや、うん古いけどさ。
『今だけでもいい思いをしておくんだな』
 …………。
 気を紛らわそうとして無理やり笑ってみた。それでもムカムカもイライラも胸の奥底から湧き出す感情も行き場をなくしたまま、苦しいだけだった。
 わからない。
 何でこうなるのかが。
 まるで何かに溺れているみたいだ。誰か、酸素マスクを俺に恵んでくれ!
 こんな非常事態に限って歴史の年号も、日付が変わってなければ今日だって学校で交わしていた世間話も、英語教師の呪詛のような嫌味タップリの言葉も思い出せない。
 俺の体の色んなところが、今までにない感情の暴走と抑制に悲鳴を上げていた。
「俺の何を知ってるってンだ。どうせ最初から遊びなんだ。どうってことねぇの。男が男に何してんだよって思うし!」
 ――――苦しい。
 いつの間にかそんなことも思わなくなっていた。
 だから口に出して言ってみても、ただの強がりにしか聞こえない。
 俺にこれ以上、どうしろって言うんだよ。
 目の奥が熱くなって、鼻がツンとしてくる。それが何の兆候だか知っていたから、無意識のうちに壁に頭を付けて顔を上に向けた。
 天井から吊るされたランプのオレンジ色の光がまぶしくて、目を細めたらどうしてか二重三重に重なって見えた。
 鼻腔の奥の方から熱いものが喉に流れ込むのを感じたとき、俺は笑った。自嘲しているようにも、自虐的にも見えたかもしれない。
 きっと……転がされているときに鼻をぶつけて、鼻血が出たに違いない。ぼやけるのは、頭を打ったからだ。…煩いな、わかってるよ、そんなんじゃないことくらい。
「笑えねぇ、冗談だ……」
 いっそ現実なら楽だっただろうな。そんで、荒れ狂っている感情がただの夢で。
 とうとう現実逃避まで始めた頭を下に向けると、床が水の中みたいにぼやけて見えた。すぐにクリアになったかと思えば、雫が落ちたような染みが目に入る。またぼやけてくる。
 雨漏りでも、してんのかな?
 気を紛らわすための言葉は、声にもならなくなった。
 もう、俺一人じゃ、どうにもならない。
 答えが見えそうで見えない。
 それを認めてしまったら、俺は俺じゃなくなる気がする。
 だから、誰か手を貸してくれ。誰もいないなら、早く助けに来てくれ。
 なぁ――――。
「ジン……」
 俺は増えていく床の染みを眺めながら、鼻声で呼んだ。
 繋がらない電話でもいい。ただ呼びたくなった。


This continues in the next time.
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