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 西原が倉本のギャラリーがあるビルの前に来たとき、二階の窓は分厚いカーテンで遮られていて外から様子を窺うことは出来なかった。
 電話越しではなく、実際に会って言葉を交わすのは数週間ぶりで、心なしか心臓の鼓動が速くなっているような気がする。
 そして、これが最後になるのだ。
 軋む音さえ聞こえそうなほど痛む胸を軽く押さえて、西原はビルへ入った。
 真っ直ぐ続く通路の先にあるエレベーターは二階で止まっていた。昇りボタンを押すと、静かなビルの中に稼動音だけが鈍く響く。
 ひとつひとつの記憶がつぷつぷと脳裏に蘇る。ここへ初めて来たとき、倉本と一緒に乗ったエレベーターは狭く感じられたが、独りだとやけに広く冷たい空間だった。
 チン、と音がして気付くと二階のフロアが視界に現れた。西原は数秒立ち尽くし、そしてなるべくゆっくりと歩きだす。
 イーゼルには「Close」の札がかけられていたが、ガラスのドアからはオレンジ色の照明がわずかに洩れていた。中に誰かいることは確かで、そしてそれが倉本以外にありえないということもわかっていた。
 フッと息をついて、西原は緊張に小さく震える手でドアを開けた。
 最初に目に映った絵も、数歩踏み出して見渡した展示室全体も、記憶に新しいものだと改めて感じる。
 室内はほとんどの照明が消されていて、ほの暗い。ただ一箇所、西原が心を奪われた紺の空と父親の儚げな後ろ姿を描いた絵のところにだけ照明が当てられ、その絵の前に置かれた丸椅子に座って背を向けている男がいた。
 その背はまるで、絵の中からそのまま出てきたように、肩の張り方や襟から覗くうなじがよく似ていた。
 その足元には大きいサイズの紙袋が置かれている。
 西原は微動だにしないその背中に向けて、搾り出すように声を出した。
「倉本さん」
 静かに、心の内を隠すように。
 きっと、明日からはそうと呼べなくなってしまう名前を。
 高鳴る鼓動とは裏腹に、その声は落ち着いていた。
 倉本は静かに立ち上がり、スッと西原に向き直った。その表情はこれ以上ないというほど研ぎ澄まされた真摯な瞳を抱き、軽く引き結んだ口はこぼれそうになる言葉をせき止めているようにも見えた。
 西原ははっきりと倉本の顔が見える場所まで進んだ。それ以上近づく必要はなかったし、近づきたくなかったのだ。
 その沈黙は数秒間のことだったが、西原にはとてつもなく長い時間に思えた。
 捲くし立てて、結論を口にすることは簡単だ。それでも今この時を何よりも欲していた西原はどうしても口を開くことが出来ない。
 ただ、此処に二人でいるという時間が出来る限り長く続いて欲しいと。
 何も言わず、視線だけを絡ませあう。
 そして、先に口を開いたのは倉本の方だった。
「お前に―――渡したいものがある」
 携帯のスピーカーからではなく、直に響くその声はどこか余裕がなく、硬い。西原はそれが気になったが、渡したいものは自分に向けられていたのだと、言葉の意味を理解して初めて疑問を抱いた。
「何を、ですか?」
 中森ではなく、自分自身に対して贈られるもの。
 今だけは西原自身が倉本の目に映っているのだと確信し、安堵する。
 すると倉本は思いもよらないことを口にした。
「西原陽司の過去を、今ここで返す」
「……!?」
 西原は倉本の言葉に目を見開く。倉本が西原の過去について何か知っていると、ある程度予測は出来ていたが、まさかここでそれを明かされることになるとは思わなかったのだ。
 そして、自ら言い出せるということは、倉本はその記憶のほぼ全てを知っているのだろう。
「どういう……ことですか?」
 声が途端に震える。
 失った記憶の欠片を得ることの期待と、絶望に似た気持ちが西原の中で渦巻く。
 当然、中森との関係も明かされるのだろう。わかっていても、直接聞かされることに抵抗を感じざるを得ない。
 それが、この想いの代償なのだろう。
「いえ……愚問でした。ただ―――約束してください。今日であなたと会うのは最後にすると」
 西原は倉本の答えを待たず、先に何もかもをすっ飛ばして「答え」を口にした。
 倉本は表情一つ動かさず、まるで予想していたかのように「わかった」と答えた。自分自身が、少しでも「何故?」という問いかけや「その必要はない」という言葉を期待していたのだと西原は気付いた。
「その代わり、お前も約束してくれ。今度こそ、何も忘れない、と」
『今度こそ』という言葉にどれほどの意味があるのか、西原は考えることを止めた。多分、それも中森のためだと思うからだ。
「わかりました」
 条件を呑んだのは、「倉本」が「西原」に対して望んでいることだからだった。たとえどんなものでも、西原は倉本に望まれれば、断りきることは出来ないのだ。
 何も約束をしなくとも、忘れることなど出来ない記憶になりそうだ、と西原は思った。深く心に刻み付けて、倉本と同じように永く抱き続けるだろうと。
 照明に照らし出された倉本の後ろには、果てしなく続く紺色の空がある。この色は、好きになれそうにない……と西原は思った。
 そして、倉本はゆっくりと言葉を選びながら語りだした。

 倉本にとっても辛く、悔やみきれない過去を―――。


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