[PR] SEO

 
−11−

 それは、丁度、今と同じ五月の出来事だった。
 倉本は高校三年で、二ヵ月後に留学を控えていた。微妙な時期だが、技術を磨くにはいい機会だということは変わらない。
 通っている中高一貫の学校の校舎に、いくつかの作品も展示されていて、それなりの実力もあると自負していたからこそ、迷わずに留学を決めることができたのだろう。
 帰ってくる頃にはおそらく二十歳も過ぎているだろうと思いながら、懐かしい校舎を弁当も食べずに歩き回っていたとき。
 階段の踊り場で立ち止まっている中等部の男子生徒がいることに気付いた。
 その生徒も食べることもせずに、ただずっと踊り場に掛けられた絵を見ている。そしてそれは倉本の描いた絵のうちの一つだった。
 倉本がいることにも気付かず、その生徒は多角度から絵を眺めては感嘆の息を洩らすので、だんだんと照れくさくなる。
 倉本はわざと足音を立ててその階段を降り始めると、その生徒はハッと倉本の方を振り向き、邪魔にならないようにさっと踊り場の端に動いた。
 倉本はすれ違うとき、独り言のようにそっとその生徒に向かって呟いた。
「俺の絵、面白そうに見るのな、お前」
 一瞬立ち止まり、その反応を窺うと、案の定目を丸くして、完全に言葉の意味を理解できていないといった表情をしていた。
 新入生の証である一年の腕章をつけたその生徒に、倉本は言いようのない感情がふつふつと沸き起こるのを感じた。
 絵の具をキャンバスの上にのせる時の異様な高揚感に似た感情を、唐突に抱く。
 軽く笑みを浮かべてそのまま通り過ぎたが、すぐに後悔した。
 何組の何という名前かくらい聞いておけばよかった、と思ったのだ。そうすればまたすぐに会えるだろうし、色々と楽しい話が出来るだろうと。
 倉本は可能性にかけて、昼休み中に中等部の職員室へ足を向けた。
 放課後、中等部校舎の美術室を活動場所として利用するための許可を得るためだ。
 倉本が中等部だった頃と変わりなければ、中等部の美術部は第一美術室で活動しているはずで、あれほど熱心に絵を見る人間なら、美術部員である可能性が高いと踏んだのだ。
 職員室には副顧問しかいなかったが、それでも快く了承してもらえた。倉本ほどの技術を持った人間が来てくれれば、今以上に熱心に活動してくれるだろうという多少の思惑もあっただろうが、そんなことはどうでも良かった。
 そして放課後、倉本が後輩の視線を浴びながら向かった美術室には、幸運にも昼に出会った生徒がいた。やはり美術部員だったのだ。
 ともあれ、先輩が部活動の邪魔をしては示しがつかないので、倉本は窓際に座るその後輩の近くで写生をし、たまに話しかけたりした。
 実際、校内の数箇所に掛けられた絵を描いたという事実に、後輩は心底驚いていた。そしてそれぞれの絵に関わるエピソードを交えて話をすると、反応が新鮮で、心から楽しさを感じた。
 話してばかりいるわけにもいかず、それでも活動時間の大半は黙って製作をした。たまに目をやると真剣な眼差しで目の前に置かれたビンや野菜の模型と画用紙を交互に見ながら、鉛筆を持つ手を動かしていた。
 初めのうちは、その健気さに思わず笑みを浮かべてしまう倉本だったが、それが別の意味での感情を抱いているためだと気付くのに時間はかからなかった。
 シャツの襟から見えるうなじや、まばたきの度に震える長い睫毛、サラサラと揺れる髪……全てに触れたいと思い始めたのだ。
 何故そんな気持ちになるのか、初めのうちは倉本本人にもわからなかった。ただ、継続して美術部の活動に参加し、近くでそれを見ていればいるほど、その気持ちは強く、疑いようのない願望となっていった。
 さすがにここまでくると、倉本も自分の感情を疑い始める。今まで恋愛と呼べるような感情を抱いたことも多少はあるが、それでも同性相手にどうこうしようなどと思ったことは一度もない。
 だがそんな疑問や自戒も無駄な抵抗だったにすぎず、会えばいつでも、そう思ってしまうのだ。
 その感情が疑いようのない事実として倉本の中に存在するようになったときには、もう留学まで一ヶ月を切っていた。
 密度の濃い時間を共有したいために、何かと用をこじつけて美術室に通っていた倉本は、留学準備で登校することが出来なくなってしまう前に、どうしても気持ちを伝えたいと思った。
 叶わないと判っていても、どうしてもこれだけは伝えておきたい。これで振られて、綺麗さっぱり気持ちを消化させてから留学した方が、想いを告げずにいつ帰れるかもわからない日本で暮らす想い人にばかり気を取られて、まともに絵が描けなくなってしまうよりよっぽどよかったのだ。
 それで、諦めるつもりだった。
 そして、その後輩が鍵当番で美術室に最後まで残っている日に、いつも通り倉本も残って、他の部員が帰るまで待った。
 これで最後になると、何度も言い聞かせて倉本は生まれて初めて告白をした。
 案の定、後輩は驚愕する。
 羨望の眼差しが失われた瞬間だったかもしれない、と無意識に思った。
 それを望んでいたのではないのか、とひたすらに驚くその表情を黙ってみていた倉本は、思いもよらない返答に逆に驚かされたのだ。
「はい」と。
 それは簡潔で、それでいて倉本の思考を一掃するには十分な言葉。
 多分、と自信なさげに続けて、それでも顔を真っ赤にしながら後輩は頷いた。
 思わず抱き寄せたその体は、緊張で小刻みに震えていたが、倉本も十分ガチガチだったのだと、後輩に言われて気がついた。
 離れたくない、と切に願い。
 実際に声に出した。
 すると腕の中の恋人は言った。
「ずっと待っているから、いつか帰ってきたとき、学んできた最高の技術で俺を描いてください」と。
 同時に、自分のために、折角のチャンスを棒に振って後悔してほしくない、とも。
 だから、倉本は代わりに誓ったのだ。
「世間に認められるような関係じゃないけど、誰からも文句を言われないくらいの画家になる。そのときは、堂々と嫁に貰いに行くから、待っててくれ」
 あまりの可笑しさに、二人で笑ったこと。
 その言葉の真摯さと。
 受け止めてくれた後輩の、最高の笑顔を胸に、数日後、倉本は日本を発った。
 それから帰国までの五年間、ただひたすらに美術に関する知識を学び、数え切れないほどの絵を描き続けた。
 それは周囲からの賛美のためでもなく、成果を出したいという目標でもなく、全て生まれて初めての恋人に捧げた誓いのためだった。
 何度かエアメールも送ったが、初めの数度返ってきただけで、音信不通になってしまった。
 それも心配の種だったが、とにかく早く帰国できるように努力することに精一杯で、一度も日本に帰らず、盆も年明けもひとりで過ごした。もしくは、同じところで鎬を削りあう仲間と。
 いつでも、心の中には恋人の存在があり、あり続けたからこそ、押し寄せる不安や焦りも乗り越えられたといっても過言ではない。
 そんな濃い時間を過ごしていた倉本が頭角を現すのも時間の問題で。  愛するもののために、という強い思いがそうさせたのか、高い技術と表現力、そのつど表情を変える作風に、気付けば世界中から注目される身となっていた。
 そして倉本は日本に帰ることを決心し、逸る気持ちを抑えながら飛行機に乗り、数年ぶりの母国へ戻ってきた。
 自宅へと迎える家族に断って、荷物だけを置いてすぐに母校へと向かった。中等部の生徒の約八割はそのまま高等部へと進むが、もしいなかったら、という不安もあった。
 それでもとにかく早く会いたくて。
 五年ぶりに会えたら、どんな顔を見せてくれるだろう、と。どんな声で迎え、愛を囁いてくれるのだろう。どれほど綺麗に成長しただろう。考えるだけで頬は緩んでしまう。
 まだ放課後の部活動も始まっていない母校へと、倉本は足を踏み入れる。学園長と久しく顔を見るかつての担任や世話になった教師に声をかけ、称賛を受けながら恋人の所在を訊ね、高等部に進学したと知らされた。
 ただ、と。中等部の担任から聞かされたという「話」を聞いて、思わず愕然とする。
 理由ははっきりしていないが、記憶を失っているという話だった。
 詳しくは教えられなかったが、倉本が留学してすぐにいじめに遭い、ストレスから高熱を出して数日間生死の境をさ迷い、奇跡的に意識を取り戻したとき、入学してすぐから、いじめられたことまでの記憶を失っている、と。
 あるのは、薄れる意識の中、必死に看病を続けてくれた仲の良い友人と家族のことだけで、基本的な知識・教養は備わっていたものの、学校での交友に関しては全く記憶にないという。
 それで以前は明るかった性格も一変してしまったと。
 何故。
 自分がいないときに限って。
 そんなことになってしまったのか。
 そして。
 それを気付いてやれなかったのか。
 一度でも帰国したり、エアメールの返事が来なくなったことを不審に思って電話をかけようとしなかったのか。
 全て大切なひとと幸せになるためだと思って、一人がむしゃらに技術を身につけ、省みることもせずに過ごしてきた五年間。
 何もわかっていなかったのだと知って。
 そして、自分を忘れられているのだということを暗に教えられて。
 必死でつくり上げてきた何かが、音を立てて崩れていくのを感じた。
 それでも一縷の望みにかけて、丁度部活動が始まる時間に、高等部の教室棟に向かった。
 が、そこで思わぬ足止めを食らう羽目になった。
 面識のない高等部の生徒がひとり、倉本に声をかけてきたのだ。それも、まるで親の仇でも見るような目つきで睨みながら。
 倉本が何も言わないうちに、その生徒は吐き捨てるように言った。
「何で、戻ってきたんだ」
 自分のことを知っている人間がまだここにいたということに驚く。五年経ち、背も伸びれば顔の造りも多少変わってくる。恋人以外で当時の中等部の生徒にあまり面識のない倉本が驚くのは当たり前である。
 二の句が継げずにいた倉本に、さらにその生徒は続ける。
「あんたを、あいつに近づけるわけにはいかない」と。
 あいつというのが誰なのか、すぐにわかった。知っている人間は、恋人以外いないので尚更だ。
「どういうことだ」
 その険しい表情に嫌悪の色さえ混じっているように思えたのは、錯覚ではないと倉本は確信した。
 理由は知らないが、多分、この男とは馴れ合うこともなければ、対極となることもなく、確かに恨みに似た感情を抱かれているのだと。
 そんな身に覚えの無いことで恨まれ、絡まれていても時間の無駄だと、倉本は無視していこうとしたが、腕を捕まれた。
 体力に自信があるというわけではないが、それなりに鍛えてあるはずの倉本が、振りほどくことも敵わなかった。
 そして、人気のない教材室へ連れてこられ、倉本が日本を発ってから何が起きたのかを語られた。
 留学する少し前から、陰湿ないじめにあっていたこと。
 その原因が、倉本が恋人目当てに美術室に足しげく通い詰め、根も葉もない噂を立てられていたこと。
 それでもその事を倉本には決して言わないと決めていたこと。
 その、すべてを。
「結局、あんた甘かったんだよ。年上の癖に、あいつの気持ち何一つわかってなかった。あいつがお前に気兼ねなく発ってもらうために、愚痴を零さないように努力してたことだって、その様子からすると知らなかったんだろ」
 それくらい、大切に思われていたことさえも、わかっていなかったのだと。
 まるで、この五年間の努力を否定されたようで。
 命に関わるほど危険な状態にさせたのは、他でもない倉本自身なのだという事実を突きつけられて。
 それで忘れ去られたとしても、自業自得なのだから。
 これ以上、傷に触れさせるわけにはいかない、と。
 とどめとばかりに、その男は言った。
「あんたのせいで、あいつは変わった。あんたさえいなければ、もっと楽しく、もっと気楽にこの学校で過ごしていけたはずだったのに。今じゃ腹割って話そうなんて言わなくなっちまった。いつだって見れた笑顔も、今じゃ痛々しいくらい皮肉な笑い方しかしない。あいつの大事な時間をあんたは奪ったんだ。あんたの大事なもんがあいつだとしても、与えたら不公平になるだろ。それにいつまたショックを起こして死にかけるかどうかもわからない。だから、二度と近づくな」
 そう、今では。
 お互いに大切に思っていた証拠など何処にもない。あるのは、傍から見れば一方通行の想いを抱き続けた倉本の心だけだった。
 誰も、倉本を愛してくれていたという証明は出来ないのだ。
 そして、記憶を失った原因が命に関わることだっただけに、無理に思い出させたりしたらかかる負担も相当のものになるだろう。
 幸せな時間など雀の涙ほどの期間でしかなく、その後は理不尽な言葉や態度によってないがしろにされ、誹謗中傷の的となり、貶められた記憶だけが色濃く残るのだ。
 たとえ思い出したとしても、倉本を好きなままでいてくれる保証はない。完全に気持ちを否定されれば、根源である倉本に対してどんな感情を抱くかなど、火を見るよりも明らかだった。
 相手も傷つき、倉本自身も傷つけてしまう。
 期待に膨らんでいた胸が、絶望に押しつぶされて痛かった。
 足場がグラグラとしていて、倒れてしまいそうだったが、それでも倉本は立っていた。それはもう単なる意地でしかなかった。
 それなりの実績を残してきた「天才」と謳われる画家としてのプライドと。
 もうしょうがないと、素直に現実を受け入れようとする諦めの部分。
 絶望に足元をすくわれて、道を閉ざした者は数え切れないほどいる。こんなところで躓くなどあってはならないという強迫観念さえ、そこには在ったのかもしれない。
 だから、倉本は。
 その日。
 夕陽が堕ちる空を窓の外に見ながら、真っ直ぐに睨み付ける男の前で。
 一生、心の内に秘めようと決めたのだ。
 二度と、愛した相手を傷つけないように。
 そして、二度と叶わぬ希望など持たぬように。


Continua alla prossimo volta...
*ご意見・ご感想など*

≪indietro    prossimo≫


≪MENU≫