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−9−

 西原が店じまいをし始めた八百屋と団子屋の間の路地に入ったとき、前方でカラン…という音とともに、壮年の男が路地に出てきた。男は背筋が真っ直ぐした紳士のような物腰で、西原に気付くとにこりと笑って会釈をし、西原も思わずそれに倣った。
 普段なら無視してしまうような無言の挨拶にも、自然と挨拶を返してしまうくらいの気品と、物静かでわずかなプレッシャーを抱かせる。
 ごく稀にすれ違うそんな大人を、西原は嫌いになれなかった。
 そして。
「……こんばんは」
「―――いらっしゃい、西原くん。久しぶりだね」
 ここにいるそんな大人の上をいく大人も、嫌いにはなれない。―――若干、苦手ではあるが。
 木村は小さなカウンターの内側で、洗い物をしていた。西原は一番手前にある定位置に腰を下ろす。
「最近は紺くんが製作に入って、毎日のようには来られなくなってしまったし、西原くんも顔を出さないから寂しかったよ。ここにはあまり若い人が来ないからね」
 西原くんがそこですれ違った人みたいな客が多いんだよ、とまるで見ていたかのような口ぶりで木村は言った。見ていなくても、駅へ出る近道は西原の方向から路地を抜けるので安易に想像がつくのだろう。
 なるほど、と西原は思った。
 随分と格が違う、とも。
 今に縋りついて、必死に道を探し求めて闇雲に走る余裕のない自分は不釣合いではないかと西原は溜め息をつく。
(まぁ、いいか。どうせ、今日が最後だ)
 倉本に会う前に、西原は最後のコーヒーを飲みに木村の店へ立ち寄ったのだ。倉本が真っ直ぐに自分だけを見てくれることはなくて、このまま宙ぶらりんの状態で中森との間を彷徨うくらいなら、いっそ綺麗さっぱり離れて、二人の間柄にもやもやとした感情を抱かずに過ごしたいと。
 故意に関係を拗れさせたくはない。だがこれ以上、打開策も見出せずに不調のままでいたら、ただの役立たずに成り下がるだけである。
 だから、西原は決めたのだ。
 十年も共にい続けた親友を大切にしたいと思い。だから倉本とも幸せになって欲しいと願って、邪魔になるだけなら、自分は一歩下がってやればいいのだと。
 ただこれ以上利用されるのは真っ平で。
 決別するのであれば、完全に接点を断ち切ればいい。木村の店にも行かず、携帯も買い換えて二度と連絡を取ることもない。
 それで、全てが元に戻る。
 西原が木村の店へ来るまでに出した、倉本との全てに対する結論だ。
 心残りといえば、木村のおいしいコーヒーが飲めなくなる、くらいのもので。
 倉本に対する未練など、引きずるつもりは毛頭ない西原だった。
「今日は、何か悩み事でも抱えているような顔をしているね」
 木村のストレートな一言に、メニューを見ていた西原はぐっと息を詰まらせた。
 思わず、目を見張って木村に視線を向けると、木村はカップを布巾で丁寧に拭きながら、柔和な表情で――それでいて、とても真剣な目をしていた――西原をただじっと見ていた。
 後頭部をぱこんと叩かれたような軽い衝撃を伴った言葉とその真摯な表情に、西原は返答に迷ってしまう。
 何でもない、ただ考え事をしていた―――とはぐらかすことが出来ないくらいに、木村の目は真面目だった。
 オラ、さっさと吐いちまえ……などと、脅すように言っているわけではないのだが、ただ「何でもないとは言わせない」と無言で詰問されているような気分だった。
 年の功、というのだろうか。
 それでも、おいそれと口に出来るような悩みではないので、西原は言葉を選ぶのにも時間がかかった。
「いえ……っと、その―――……。……はい、まぁ。すごく、くだらないことなんですけど」
「私でよければ、相談に乗ってあげるよ。少しでも力になれればいいんだけど」
 木村はカップとソーサーを棚に戻して、新しいカップを出す。そして湯を沸かし始めた。
 たくさんありすぎて、何から話していいのかわからない西原は、さすがに倉本のことを出すのは気が引けて、もう一つの気がかりを口にした。
 知りたくてもわからない。
 過去の、身に覚えのない記憶について。確実に何かを失っているという予想は既に西原の中で確信になっていた。考えれば考えるほど、天野の言葉は引っかかるものがあったからだ。
 何故、天野は教えようとしなかったのか。
 そしておそらく、記憶にない元美術部員が知っていることを、中森が知らないはずはない。けれど中森は十年間、一言もそんな話はしなかった。
 その理由の元にあるものは―――?
「あの―――変なことを訊くかもしれませんが、自分は覚えていないのに、周囲の人間が自分に関する、おそらく重要なことを知っていて、それを教えてもらえないのは、何故だと思いますか?」
 深く考える間もなく、倉本と中森のツーショットを目撃したことで余計な関連性まで浮上し、ドツボにはまってしまう。
 冷静に判断がつかなくなってしまったら、考えたところで真実に繋がることなど導き出せるはずもない。
 かといって、他人にそれを訊くくらいなら、自分自身の問題として抱えていた方がマシだった。
 それも限界に近づいていたその時に、木村が背中を押したのだ。
 木村はしばらく考えて口を開く。
「可能性として考えられるのは……もしそれを西原くんに教えたら、相手がどんな立場にせよ不利になってしまう場合か……西原くんを傷つけてしまう場合……あとは単なる嫌がらせってところだね。でも西原くんくらいの年になってまで、そんな手の込んだ嫌がらせなんて普通しないだろう? だから先の二つのどちらかだと私は思うよ」
 まぁ私の考えられる範囲での話だけどね、と付け足した。
 知ることで、天野や中森が不利になってしまうか。
 それとも自身が傷つくのか。
 どちらも、ありえそうな話である。
 前者であれば、変な話「金を貸した」でも通る。だが、後者は何が原因でそうなるのか西原には全くわからない。
 傷つくようなことをされたのか。
 あるいは、誰かを傷つけてしまったのか。
 考え込んでいると、木村が思い出したように呟く。
「あぁ……そういえば、紺くんがその逆の例で悩んでいたこともあったなぁ」
「―――倉本さんが? 逆のって、何かあったんですか?」
 倉本の話が出たとたんに、意識が持っていかれてしまうことに、西原は言ってから気付いた。
 木村なら、反応次第では西原の悩みや感情に少なからず倉本との関連性を疑ってもおかしくない。何しろ、感性は人一倍鋭いのだ。
 しまった……と思って木村の表情を窺うが、驚いた様子もなく木村はポットを眺めながら目を細め、その時のことのひとつひとつを思い起こすように話し始めた。
「紺くんが高校三年のときに絵の技術を学ぶために留学したんだけど、紺くんは留学前にある人と約束をしたらしいんだ。すごい画家になって戻ってくるから、その時は、ずっと傍にいてくれってね。つまり紺くんなりのプロポーズだったんだよ。けど、海外でいくつも賞をもらって、世界中から注目を浴びるようになった紺くんが活動拠点を日本に移すために帰国した五年後、その人は約束どころか、紺くんのことなんて全く覚えてなかったんだ。しかもその原因は紺くん自身にあるらしくてね……。結局教えてくれなかったけれど。その時はかなり落ち込んでいたし、不摂生が祟って、何度も倒れていたみたいだよ。ここで倒れたこともあったかな……それくらい、ショックが大きかったんだろうね。その人のために五年間、死に物狂いで技術を学んだと言っても過言じゃないくらいだから」
 西原はそれが夢物語にしか聞こえなかった。
 思わず、唖然となる。
 客観的に見て、傲岸不遜で、初対面の人間にもふてぶてしい態度をとり、自信過剰な変人じみた天才が。
 過去に、惚れた相手に忘れられたというだけで傷つき、体を壊すほど苦しんだことがあるなんて、信じるほうが難しい。
 それが本当の話なら、どれほど倉本に衝撃を与えたのか。おそらく、恋愛をしたことのない西原には計り知れないほどの痛みだったのだろう。
 同時に、西原の胸も軋んだ。キリキリと締め付けられるような痛みが断続的に続いている。それは倉本と中森とのことを思い出すたびに走る痛みに似ていた。
 何も言わずに聞いていた西原にちらりと目をやってから、木村は言った。
「そして、紺くんは選ばなければならなかった。自分を忘れてしまったその人に対して、想いを告げるのか。一生自分ひとりでその想いを背負って生きていくのか」
 どちらだと思う、と木村は西原を見た。西原は、倉本のことをあまり知らない。けれど何となく想像はついた。それでも西原は黙って木村の言葉を待つ。
「紺くんは、結局言わなかったよ。正確には言えなかったんだ。その人が傷ついて、忘れてしまうことでしか身を守ることが出来なかった記憶を、思い起こさせるようなことはしたくない、とね。もし告白をして、その人の辛い過去の記憶が戻ってしまったら、今度こそ、紺くんは直接相手を傷つけてしまうことになるからって」
 ただでさえ、原因の元になったのは自分の無責任で勝手な行動なのに、これ以上自分の手で大切なひとを傷つけるような真似はしたくない、と。
 倉本が相手を守るためにしてやれることは、自分がその想いを永遠に諦めるほかなかったのだ。
 記憶を失わせるほど傷つけてしまったという罪を背負って。
 ひとり苦しみながら、その痛みを断ち切るまで。
 想いを封じておくことしか出来なかったのだ。
「皮肉な話だよ。その人を想うが故の行為も全て、その人を炙る火に油を注いでいただけなんだと言っていた。……多分今も、ずっとその人のことを想い続けているんじゃないかな。見かけによらず、純情なところもあるからね」
 自分を差し置いても、相手を傷つけないように黙っていることもあるのだと。
 木村は諭すように言った。
 自分を犠牲にしてまで守りたいと思うもの。
 そんなものに出会えたことなど一度もない西原には、わからない痛みや苦しみが。
 倉本のことだと思うと、どうしても無視することが出来ない。
 西原が抱えている悩みなど悩みのうちにも入らないほどの苦悩。
 そして、苦渋の選択。
 一途に想い続けた相手との別れ。
 まるで下手な恋愛小説だ。
 それを表に出さず、穢れのない想いだけを誰にも知られないように心の奥に閉じ込めて。
 他人の好意を、その傲岸不遜な態度で以って、拒み続けているのだとしたら。
 そんな倉本を何一つわかってやれない自分が恥ずかしくなり、同時に甘えていただけなのだと思い知る。
 今も気持ちは変わらずに。
 同じ人間に同じ想いを抱き続け、それがふとした拍子に叶ったのだとしたら……?
 相手は……中森ということになる。
 中森に、自分にも言えない過去があって、それが西原の忘れてしまった記憶と何か関係があるのなら。
 天野の意味深な言葉も、西原の中の中森に向けてのもので。
 もし中森がそれを思い出し、それでも倉本の想いを受け止めたのだとしたら。
 全てが繋がる。
 もしかしたら、倉本と会うのは初めてではなく、面識があったのかもしれない。中森の様子を探るために、丁度いいところで出会った西原の機嫌をとって近づき、何かのタイミングで偶然中森と再会することがあって、西原は用済みになったのだ。
 いや……メッセンジャーという利用価値を見出して、本当のことを言わないままなのかもしれない。
 倉本の視野も、西原に負けず劣らず狭い。きっと、他人に向ける感情も西原と同じで冷めているのだろう。どんな気持ちで近くにいても、所詮、どうでもいいのだ。
 そんな、些細なことなど。
 西原は、自分の中で何かが音を立てて壊れていくのを感じた。
 キリキリと捻れ、絡み合っていた思考の糸が痛みを伴いながらぷっつりと切れてなくなるのを。
 涙が流れなかったのは、感情をひた隠すための制御装置が働いているからなのだろう。
 そして西原は気付く。自分を苦しめていたものがいったい何なのかを。
 堰き止められてきた「それ」はストッパーが外れてしまったようにどんどん嵩を増し、決壊を起こして西原の心の中を瞬く間に埋め尽くす。
 淡く、切ない想いは、哀しい色をしながらも身を焦がすほど熱い。
 これほど明確に想いを自覚したのは初めてかもしれないと思いながら、西原はこの感覚に覚えがあった。
 それでも、そんなことに構っていられる余裕は西原にはなかった。
 一見、木村の話に沈んでいるように見えるが、溢れ出す感情をぎりぎりのところで抑えるのに精一杯で何も声にすることが出来ないのだ。
「さて……大分西原くんを困らせてしまったみたいだね。アドバイスになるかと思ったんだけど、逆効果だったかな」
 木村は硬直したままの西原に苦笑しながら言い、そしていつの間に用意したのか、淹れたてのコーヒーを西原の前に出す。
 香ばしいコーヒーの湯気に鼻孔をくすぐられ、ようやく西原は現実へ目を向けることが出来た。
「あの……、これは……?」
 記憶の限りでは、何も頼んでいない。
 木村はにこりと笑って「飲むといい」とカップをソーサーごと西原の方に滑らせる。
「昔話はここまでにしよう。西原くんは本当にいい子だね」
 紺くんのこと、心配してくれたんだろう? と木村は言うが、近からず遠からずの言葉に西原は曖昧な表情で答えた。
 少し躊躇ってからカップに手を伸ばし、いつも通りブラックのまま西原は一口啜る。  深みとコクのある強い苦味が舌の上を滑る。いつもなら一口でやめてしまうだろうその濃さが、不思議と西原の感情を宥めるように体に沁みこんでいく。
「それはいつも紺くんが飲んでいる深煎りの豆を挽いて淹れたコーヒーなんだよ。よくエスプレッソとかに使う豆なんだけどね。飲むと、とても落ち着くといって、紺くんはいつも頼んでいた」
 西原はその理由がわかる気がした。
 やり場のない気持ちを宥めるのに、このコーヒーは丁度良かったのだ。
 はぁ……と息をついて、西原は覚悟を決める。
 先ほどまで荒れ狂っていた感情の嵐は、穏やかに揺れる海のように安定していた。これも木村と、木村の淹れたコーヒーのお陰なのだろう。
 倉本が相手を傷つけないために一度は諦めることを選んだのなら。
(俺も……あいつらの負担にならないようにしてやらないと、な)
 結局、倉本のベクトルは中森にだけ向いている。どう足掻いても、西原の想いが報われることはないのだから。
 せめて、二人の幸せを願って。改めて西原はひとつの「道」を選んだ。
 倉本と同じように。

* * * * *


 足早に立ち去る音が遠ざかっていくのを聞きながら、木村は誰もいないカウンターに置かれた空のカップに目をやる。
 木村がただのアドバイスで西原に「過去の一部」を教えたわけではない。アドバイスだけなら、倉本のことなど口にはしないだろう。
 人の辛い過去を言いふらすのはいい大人のすることではないし、自分を信用して話してくれた倉本を裏切ることにもなる。
「これ、いずれは紺くんにばれてしまうだろうなぁ」
 けれど、間近で二人のやりとりを見ていたら、不器用すぎる倉本の態度につい痺れを切らせてしまったのだ。
 傷つけたくないという気持ちもわからなくはないが、ここまでくるともう臆病者と言ってもいいほどである。
(これで西原くんが察してくれればありがたいけど、やけに思いつめていたみたいだからなぁ……自分の忘れていることに対して。それに、自分でも少し回りくどすぎたかもしれないと思うくらいだから、もう少し、紺くんには努力してもらわないと、ね)
 フフ……と悪戯に小さく笑いながら、西原の使ったカップを取って水につけた時、ドアが開いて客が入ってきた。
「どうも、マスター」
「いらっしゃい、浦辺さん。いつもの豆、用意してありますよ」
「それは良かった。……ところで、何か良いことでもありましたか?」
 常連の浦辺は、普段とは様子の違う木村に問いかける。
「いえ、そういうわけでもないですが……」
 木村は思わず苦笑いを浮かべて否定した。
「すぐ用意しますね」
 余計な詮索をされないうちに、木村は普段通りの表情に戻して、ふとドアのガラスの上部分から見える小さな空に目をやった。
 すでに闇色に染め上げられた空は、星が小さく瞬いていた。


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