−12− それが、失われてしまった記憶の全容というには、少し物足りないのかもしれない。それはあくまで倉本サイドでの話で、西原とは繋がりがないようにも思えた。 ショート寸前の頭で理解できたことは、倉本が永遠を誓い、そして想いを封じた相手が中森ではないということだった。 中森は中高を通してテニス一筋だったので、美術部にいたことなど、一度足りともない。 では、誰の話なのか。 過去を語る上で、倉本は登場人物の名前をひとりも明かさなかった。それが余計にじれったい。 その相手が誰なのかを訊ねようとしたとき、倉本はスッと目を細めて、そして呟いた。 多分、初めてそれを口にしたときと同じように。 「お前、いつも……俺の絵を面白そうに見るのな」 それはまぎれもなく、西原に向けられた言葉だと理解するのに、長い時間が要った。数十秒間、西原は目を丸くして倉本を凝視し続ける。 そして、不意に。 ストン、と。何かが落ちるような衝撃を伴って、唐突に全てを理解した。 「ま、さか……」 倉本の中にいつもいたのは。 他でもない、西原自身だったのだと。 全てを教えられた今でさえ、思い出すことの出来ない過去を、倉本がその身に背負って、生きてきたという事実。 それは、西原の中に目を背けたくなるほどの罪悪感を生んだ。 キリキリと心が締めつけられて。 胸を押さえつけられているような苦しさに崩れ落ちそうだった。 「諦めようと思っても、やっぱり駄目だった。それで四年もズルズル気持ち引きずりながら木村さんのところに行こうとしてたら、偶然逢っちまったんだよな、お前に」 全て、奪うことも出来ないほど大切な西原のためだった。 それなのに。 二人は出逢ってしまった。 「一目でお前だとわかった。無視して通り過ぎることだって簡単に出来たはずなのに、気付いたらぶつかってて……それで、また火がついた」 思い出してもらわなくてもいい。 過去の自分など、覚えていなくても構わない。 誰にも邪魔されない今。 もう一度、抱いた思いを。 叶わなくてもいい。 ただ自分を覚えていて欲しいだけだった。 今度は、決して忘れないで欲しかった。 倉本の眼は無言で悲痛な叫びを上げているようで、西原はあまりの苦しさに息を詰める。 「…………っ」 今なら、西原は倉本が言った『今度こそ』の意味がわかるような気がした。 嫌いだ、と言われていた方がまだマシなのかもしれない。 記憶の中に存在することさえも叶わなかった不完全燃焼の感情を抱きながら過ごしてきた倉本の、その心地よさに惹かれ、甘えて、無自覚に苦しめていたのだと思ったら。 倉本の気持ちに応えたくせに、数年後には何事もなかったように忘れて、のうのうと生活していたのだから、恨まれてもおかしくなくて。 それでも、今もまだ変わらぬ想いを抱き続ける倉本の苦しみを考えたら。 (死にたい……) 誰もいなければ、声に出してもおかしくないほどの正直な気持ちだった。 本当は、我慢するはずだった想いを。 数分前まで、永遠に葬るつもりだった気持ちを。 倉本に告げたら、どう思うだろう。 同情するなら、やめてくれと撥ねつけられるかもしれない。 もしかしたら……という淡い期待もある。 いずれにせよ、西原だけが役得などという虫のいい話などあってはならないのだと、自身を戒める。 西原は苦しみを忘れ、そして同時に倉本の気持ちを最悪の形で裏切り、傷つけた。 倉本はその事実を受け入れ、痛みを伴う感情を、叶わないと知りながら抱き続けた。 謝っても、赦してもらえるはずのない残酷な過去。 今更「お前は悪くない」と言われても、西原を苛む痛みや心苦しさがなくなるわけではないのだ。 なのに。 「あんまり、気にするなよ。お前は、何も悪くない」 倉本は俯き加減の西原に近寄って、ポンと頭に手を置いた。 その手は大きく包容力のあるものだったが、ひんやりと冷たかった。 (何で、そんなこと言うんだよ) 詐欺だ、と西原は思った。 倉本が苦しんだのは、要するに西原自身の心が弱かったせいであり、それ以外の理由は単なる「慰め」か「言い訳」にすぎないのだ。 その頃の西原は。 倉本や西原の過去を知る人間の過保護なまでの気遣いによって、倉本だけのせいではないと否定する術を知らなかったのだ。 今ではすっかり、記憶喪失の事実まで忘れて。 ただ目の前にある安らぎと穏やかな日常を手放したくないと。 余計な勘ぐりから嫉妬し。 それでも、大切な人の幸せを願うために、倉本と同じ道を歩もうなどという勘違いも甚だしい選択をしていた。 そんな西原に。 「何で……っ」 何故、この男は「悪くない」と言うのだろう。 「何で、そんなことを……言うん、ですか……っ」 倉本の言葉は、西原を単に気遣うもので、責めるための言葉ではなかった。だから余計に苦しいのだ。 嗚咽を隠す余裕もなく。 みっともないと自覚していても。 西原はせり上がってくる涙を止めることが出来なかった。 どうしてこんなにも。 優しいのだろう。 恨まれ、呪いの言葉を叩きつけられたほうがマシだったのかもしれない。 どこに、どんな理由があろうとも、倉本は決して西原を責めようとしなかった。 「俺に、お前を責めることはできない」 倉本は深く静かに言う。 「お前を、西原陽司を傷つけることを、俺は一番恐れていた。だから今日も、お前を傷つけるために記憶のことを話したわけじゃない。ただ……このままでい続けたら、俺はいつかお前を強引に奪っちまうかもしれない。だからお前から離れる前に、謝っておきたかった」 他の誰かから告げられる前に。 自分から本当のことを話して。 心から謝罪をして。 感情を抑えこんででも。 傷つけたくない相手なのだと。 「離れる……って……」 「―――しばらく、海外で活動しようと思ってな。手に入らないってわかってても、お前がいると余裕がなくなるんだよ。どうしてもお前のことばかり考えちまうし、お前にとってもいい迷惑だろ。男に惚れられてる、なんて」 西原は何年経とうが何十年経とうが西原のままで変わりはないが、倉本の気持ちに応えた「西原」は何処にもいない。 「やっぱり、何度逢ってもお前に惚れちまう運命らしい。だから、今日で最後だ。このギャラリーも、しばらくしたら閉める」 その言葉は暗に、日本に戻るつもりはないのだということを示している。 倉本は今も昔も西原を想っているというのに、それも今日、これで終わらせるつもりなのだ。 ―――おそらく、永遠に。 会えなくなる。 この優しさも。 誠実で一途な想いも。 安らぎも。 穏やかさも。 声も。 今、触れている手も。 倉本の全てが。 ―――なくなる。 「…………で」 「え?」 「いか、ないで……下さい」 西原は頭の上に置かれた手の袖口を掴み、掠れた声で言った。 想いが同じなら、離れる必要などどこにもない。今、それがわかっているのは西原だけだ。 気持ちを伝えることは、単純でとても難しい。 だが、そんなことで臆病になっている余裕などなかった。倉本を繋ぎとめるために、西原は敬語も忘れて必死に言葉を搾り出した。 我慢しなくてもいい。 このまま何も言わなければ、本当に終わってしまう。 それだけは、何よりも嫌なのだ、と。 「どこにも……俺の手の届かないところに行くな……っ。今更そんなことしても意味がない……」 西原は頭の上の手をどけて、目を丸くして「どういうことだ」と無言で問いかける倉本の顔を真っ直ぐに見た。 「俺……倉本さんが何よりも大事だと思ってる。安っぽい言葉にしか聞こえないと思うかもしれない。けど、好きだ。倉本さんのことが……。なのに、そんなことしたら―――」 誰も幸せにならない、と続けることはできなかった。倉本が西原を強く抱きしめたからだ。 中学生の頃から慣れ親しんだ絵の具の匂いと力強い腕に、壊れそうなほど揺れていた心を宥められるような抱擁。 広い肩の向こう側に見える紺色の絵をぼんやりと見つめて、ふと西原は気が付いた。 (ちがう……父親、なんかじゃない……。これは―――) 寂しそうに見える背中。 眺める景色に込められた哀しみ。 呆然と立ち尽くすその後ろ姿は。 (倉本さん……?) 他の誰でもない、倉本自身の姿なのではないかと、西原は直感する。それを倉本に訊くことはしなかったが、おそらく、そうなのだろうと。 倉本の抱えた決意と。 哀しく、悲痛なその気持ち。 初めて見たとき感じたものの正体は、包み隠さずに描かれた倉本自身の未練だったのかもしれない。 そのとき倉本が語ったのは名前の由来だったが、それも本心を隠すために用意された「理由」なのだろう。 そんなことを思いながら、布越しに伝わる倉本の鼓動に、暖かなもので満たされていくのを感じていた。 今度こそ、きっと。 二度と忘れることはない。 そして誰も苦しむこともない。 「倉本さん……」 倉本は何も言わずに、ただ強く西原を抱き締めていた。十年分の想いを、抱き締めることで西原に注いでいるようにも見える。 「俺、もう忘れないから……さ」 「―――もう少し」 このまま、と。 耳に入り込んできた言葉は、余裕がなくて、震えているようにも思えたが、西原は何も言わず、ただされるがままになる。 ついさっき、二度と手に入ることのないはずだった温もりが惜しげもなく西原へと向けられ、必死に縋りついた心は徐々に溶かされていく。 いつまでもこうしていたい、と西原は思うが、現実的に考えて無理な話である。 それでも、倉本が少しでも体との間に距離を置くことを赦してくれるまで、その腕に抱かれ続けようと、西原はうっとりと目を閉じた。 *ご意見・ご感想など* ≪indietro prossimo≫ |