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−終−

「ほんっと、何でそんなにバカなんだってんだよ、お前ら」
 西原はバツの悪い表情で出されたコーヒーを黙って啜る中森と、その場にはいない最愛の男に向かって力を込めて罵った後、盛大な溜め息をついた。
 数日後、西原は全ての事実を明かされ、それを知っていて教えなかった中森を問いただすために中森のバイト先まで押しかけていた。
 長話になるということと、丁度中森が上がる時間帯だったということで、西原はその店の窓際の席を陣取り、見た目だけなら一人前のコックコートを脱いで、正面の席に着いた中森に言いたいだけ言わせてやった。
 途中、明らかに親友に向ける言葉や感情としてはいき過ぎているのではないかというほどの言葉もちらほらと出てくるのを一言一句洩らさずに聞いていた西原は、正直複雑な心境だった。
 知らないところで、西原に対する不安や苦悩を抱えていたことも、今でこそ性格のキツさでカバーできていた、中森の言う「危うい色香を放つ、脆弱で手折られそうな華の美貌」に寄ってきた虫の「駆除」をしていたこと――中森の話によれば、天野は特にしつこい部類に入る者らしい――は確かにこれ以上ないほど大切にされ、労わられ、気遣われている証拠なので、そこまで悪い気分ではないのだが。
 だからといって、そこまで脆くひ弱に育ったつもりのない西原は、過保護で臆病な中森には恨む気持ちもないわけではない。
 そのせいで、ここ数日の不調や発熱にうなされる羽目になったのだ。
 まだ、西原にその頃の記憶は戻らないままだ。無意識のうちに体の何かが……もしくは全身で、その記憶を拒絶している証拠なのかもしれない。
 中森も無理に思い出さなくてもいいと言うし、西原自身も、失った記憶そのものや記憶喪失の原因なんてものはどうでもよかった。
 西原が求めていたのは、過去、といっても忘れていた「重要な何か」であり、いじめにあって云々なんていう話はただの補足程度の価値でしかない。
 それに、今更思い出したところで、ショックを受けてどうなる西原でもない。実際、記憶に残る学校生活の中で、西原に対する陰口も少なからずあったのだ。
 問われなかったから、黙っていた……と言うのは、まさに中森のために用意されたぴったりな言い訳だった。
 その一言で、中森は西原の「当たり前だろ」という言葉とともに平手を頭に食らう。
 そして最後に、今まで黙っていて悪かった、と全てを打ち明けた今、荷を下ろすように中森は言った。
「っんとーにバカばっかりだ」
「まぁ……言われるとは思ったよ」
 呆れ口調で「バカバカ」と繰り返す西原に、中森は苦笑して心境を明かした。
 同窓会の日、西原の言葉の端々に滲んでいたものが何なのかはよくわからなかったが、何かがあったということは確実だった。
 本人に問いただす方が早いと踏んで二次会に誘ったが、突然の断りと、天野からの連絡で、すぐに倉本の方を片付けることにしたのだ。
 帰国した倉本を糾弾し、二度と西原に近づけさせないと言ったのは、やはり中森だったのだ。そしてその時倉本は二度と近づかない代わりに、中森にある条件を出した。
 それは西原の様子を定期的に教えて欲しいというものだった。
 もし、いつかまた西原が困ったとき、表立って力になれることはないかもしれないが、とにかく何かできることをしてやりたい、と頼まれ、非情になりきれなかった中森はその条件を呑んだのだ。
 いくら西原を苦しめた張本人とはいえ、倉本と西原が相思相愛になり、儚くも幸せな時間を共に過ごしていたことを知っていたせいもあるのだろう。
 基本的に、根はいい男なのである。
 だが天野の余計な茶々入れで倉本と繋がっていることすら危ういかもしれないと思った中森は、話をつけるためにすぐに倉本と連絡を取り、倉本に連れられた店で「一切関わるな」という話をした。それが「The free sky」でのことだったのだ。
 中森はその店が同性愛者の溜まり場だということを全く知らずに入ったらしい。倉本には既にそのことについては確認済みで、
『プライベートな空間に西原以外の他人を入れたくない。かといって、無防備な場所で男二人が男について顔を突き合わせて「寄るな、切れろ」などという話は怪しまれる。だから、そういう手の話をしていても全く問題のない店を選んだだけ』
 初っ端から赤面させられて、あとの言葉はほとんど頭には入ってこなかったが、そういうことらしい。
 ちなみに、倉本と「The free sky」のオーナーは留学先での同期で、今もたまにギャラリーで絵を買っていくのだそうだ。
 倉本から考えれば、始まったのは十年も前だ。丁度中森と知り合ったとき、倉本ともまた出会った。
 しかし、実際のところ西原には倉本との記憶はここ二ヶ月くらいしかない。
 けれどもし、いじめられなかったら、倉本が留学をしなかったら……今の西原はいないのだ。
 西原には今の自分以外の自分を想像することは出来なかったし、いじめられたくらいで熱を出して倒れるようなやわな精神の自分よりは、今の方がマシだと思っている。
 結果的には「終わりよければ全てよし」だ。
 まぁ、その一言でこの十年間のそれぞれの苦悩を括ってしまえるのは、やはり西原である所以なのだが。
「ま、そうなんだろうけど。お前にしてみれば」
 あっけない物言いに少なからずムッとする中森に、西原は普段は見せない極上の笑みを浮かべた。
「拗ねるなよ。本当に感謝してる。俺のことそこまで心配してくれてたんだって思ったら、素直に嬉しかった。色々、悩ませてごめんな」
 これがあるから、いつまでも何かしてやりたくなるんだよな、と中森は心の中で呟きながら破顔した。
 窓の外は気がつけば陽が傾き始め、空の色はゆっくりと深い紺色へと塗りかえられている。
 西原はそれを見て、すっと立ち上がった。
「悪い。これから用があるから、またゆっくり話そう。俺が今日聞きたかったのはそれだけだから」
「バイトか?」
「いや、絵のモデル。俺の絵、描きなおしてくれるんだってさ」
 西原は嬉しそうに言う。中森は内心倉本に軽い嫉妬をしながらも、結局西原の満面の、というには恥じらいの混じる笑みには敵わなかった。
 あの夜、倉本が西原に渡したかったという物は一枚の絵だった。それには、まだいくらか幼い頃の西原が真剣な眼差しで何かを描いている様子が描かれていた。
 記憶にない約束。
 帰ってきたら、身に着けた最高の技術で描いて欲しいと言われ、倉本はその約束を守っていたのだ。
 バカらしくて。
 それほど大切にされていたことも忘れてしまっていた不甲斐なさと、言葉にできないほどの込み上げてくる嬉しさに、せっかく堰き止めたはずの涙をこぼしてしまったその絵を。
 倉本は描きなおすと言った。
 過去はやはり過去であり、自身の記憶にない姿では約束を果たせたとは言い切れないのだと言って、倉本はその絵をすぐに西原の手から取り上げてしまった。
 が、一枚でも、自分のために描かれた絵のことは、自分で決めると西原は言い張って、今は西原の乱雑な部屋の壁に額装されて飾られている。自分の絵を飾るのは気恥ずかしい感じもするが、倉本の描いた絵なのだと割り切った。
 今日は夕方から何枚かデッサンをするというので、初めて倉本の家へ行くことになっている。
 待ち合わせ場所はもちろん、木村の喫茶店だ。
「そうか。……お前、今度あの男に困らせられたら、俺にすぐ言えよ。二度と朝日を拝めなくしてやるから」
「そういうことを言うなよ。俺はお前も、倉本さんも大事に思ってんだからさ」
 暗に、西原の中での位置づけは、中森と倉本はあくまで同等の地位だと釘を刺す。行き過ぎた感情でも、一線を越えないというけじめをつけているからこそ、中森の場所は不動のままなのだろう。
 排他的な人間関係しか基本的に持とうとしない西原の処遇にしては、かなりのものだろう。それにケチなどつけようものなら、西原は何を言うかわかったものではない。
「それは、どうも。……お前らしいな、そういうところ」
 倉本と基本的に同じ扱いなのは少々気に食わなかったが、態度で示されることはあっても、大切だと面と向かって伝えられるとは思ってもみなかった中森は柄にもなく照れる。
 この十年間の中で、今このときが、一番平和なのかもしれないと、それでも中森は思う。
 そんな平和を一番噛み締めているのは、西原のために奔走した中森よりも、西原だけを想い続けて苦悩を重ねた倉本よりも、西原自身なのだろう。
 いや……初めから、そう仕向けられていたのかもしれないとさえ思う。
 西原の笑顔のために、自分たちはあれほどまでに互いを牽制し合い、必死に守ろうとした。
 それも、今日で本当に終わるのだ。
 これからは、西原が幸せを掴むために努力する番になる。
「じゃあな。また連絡する」
「あぁ」
 伝票を持ってまだ中身の残っているカップと中森をその場に残し、西原はレジへ向かい清算を済ませて外に出た。
 風は涼しいが、寒いと唸るほどのものではなく、むしろ心地がよい。
 中森がバイトをしている店は、西原のアパートの最寄り駅から二駅しかないので結構近いところにある。
 電車を降り、改札を出たときには紺の面積が先ほどよりも広くなっていた。
 西原は帰り道を一本ずらし、商店街のアーケードをくぐる。まだ夕暮れ時のため、あちこちの店が買い物客で賑わっている。普段はあまり気にしていなかったが、かなり活気のある商店街のようだ。
 自転車で塞がれそうになっていた八百屋と団子屋の間の狭い路地に入ると、歩いて数歩で賑わいは遠ざかり、そこだけは賑やかな商店街と異質な空間なのだと思わせる。
 今日も腰あたりの高さでイーゼルは立てられていて、ガラスのドアの向こうからは暖かな光が洩れていた。
「こんばんは」
「やぁ、西原くん、いらっしゃい」
「やっと来たな」
 カウンターの内側でドリップをしながらにこやかに西原を迎える木村と、スツールに腰掛けてコーヒーの出来上がりを待ちながら西原に穏やかな眼差しを向ける倉本。
 一瞬でこの喫茶店の世界の住人にさせてくれる二人は、すでに西原になくてはならない存在だ。
 不安も焦りも、全て溶かしてくれるこの場所は、西原にとって大切な場所だ。
 この先何十年と、ここにこの店と木村のコーヒーがあればいい、と倉本と同じように西原も願う。
「今日はカフェラテをお願いします」
「おや、珍しいね。西原くんがブラックのまま飲めるもの以外を頼むなんて。胃の調子でも悪いのかい?」
「違いますって。勝手に穴なんて開けないで下さいよ」
 言えるわけがない。倉本と一緒にいれると思ったら、尖った苦味より、暖かさの沁みるものの方を飲みたくなった、なんて。
 内心焦りながらもなんとか誤魔化せた事に安堵する。木村が西原の胸のうちを見透かすように、口元だけで笑みを浮かべたことなど知らないまま。
 この先どんなことがあっても、忘れることのない穏やかで安らげる時間を切に噛み締めながら、西原は倉本の横顔を見て微笑む。
「これ飲んだら、行くか。あんまり長居しすぎると、平気で何杯もお代わりしちまいそうだしな」
 しかもお代わりは自由じゃねぇし、と倉本は不満げに言うが、言葉ほど悪く思っていないことは西原にもわかった。
「そりゃあ、そんなことしたら、商売上がったりさ」
 木村は苦笑する。
 それもそうだな、と倉本は言い、いつかのように、また穏やかに三人は笑った。
(やっぱり……この人達、好きだなぁ)
 そして、宵闇の空と同じ名を持つ倉本を何よりも愛しいと心から思う。
 西原はそんな気持ちを抱きながら、長閑に過ぎていく空間(とき)の幸せを確かに感じていた。


La fine
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