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「何で、って…どうしてですか」
 西原は予想もしなかった問いに、口元まで持っていったコーヒーカップをソーサーに戻して、隣に座る倉本を見た。
 倉本曰く「仕事に関しては絶大な信頼を寄せている」という知り合いに、放浪中と同じようにギャラリーを任せて、二人は木村の店に向かった。
 そこで西原は不意に将来のことについて訊かれ、素直に「教師になりたい」と言うと、倉本は「何で」と言ったのだ。
「絵を描く仕事なら他にもたくさんあるだろう? それこそ、俺のように画家になるなり、デザイナーになるなり。夢を否定するわけではないし、教師も立派な仕事だから、俺がとやかく言うこともないんだろうが……気になってな」
 言いたくない事情があるなら別にいいと、カウンターに置かれたコーヒーを飲んで倉本は西原の言葉を待つ。
 するとそれに付け加えるようにして木村が西原に言った。
「紺くんは絵が好きでね、もうずっと画家になりたいと思っていたんだよ。だから、絵の好きな人が…言い方は変だけど、回りくどい仕事を選ぶのは気になるらしい。何でも自分のものさしではかりたがる性分みたいで」
 でも、それを訊ねるのは西原くんを気に入っている証拠だから、と笑う。倉本は「余計なことを言うな」という目で木村を軽く睨んだ。
「いえ、いいですよ。ちょっとびっくりしちゃったんで……そんなことを訊かれたのは初めてですから」
 もちろん、教師になるという希望の理由を訊ねられたのは初めてではないが、何故美術関係の仕事で「教師」という枠を選んだのかを訊かれたのは初めてだった。
 前者にはその質問に最も相応しい「与えられた答え」があった。だが今度は、西原の本心を知りたいのだと暗に言っていて、少し動揺してしまう。
 西原は慎重に言葉を選びながら、その「答え」を口にする。
 西原は高校時代、いくつかの作品展に出展し、それなりの賞を貰ったこともあった。だが、その時に自らの作品の表現力や創造性に限界があり、そしてそれは芸術の世界で通用するかといえばそうではないのだと、自己完結をしてしまっていた。
 けれど絵を描くこと自体をやめる必要はなく、その経験を生かした仕事に就こうと思ったとき、両親から教職を勧められ、そのままそれを選んだのだ。
「結局、親の意見だけで将来を決めたも同然ですよ。でも、そのときの俺には、芸術の世界で食べていこうという意欲も度胸もなければ、絵やそれに付随するある程度の技能以外の何かを持っているわけでもなかったんですよね」
 美大には進まずあえて教育学部を選んだのは、教えるために必要な教育概念などの理解を深めるためだった。
 偏った自らの理念だけで、十人十色の青少年の面倒を見るのには問題があり過ぎるのだ。それを考慮した上でのぎりぎりの進路選択だった。
「けど、絵を描き続けていたいって気持ちだけは、いつになっても何をしていても変わらないんです。俺、やっぱり絵が好きなんだなーって思えることが変な話、嬉しいんです」
 そりゃあ、諦めないで努力して、自分のやりたい仕事に就いて大いに実力を発揮出来る倉本さんからすれば、バカみたいな選択にしか思えないだろうけど、と自嘲気味に西原は笑った。
 臆病だということは西原自身が一番よくわかっていた。あるいは、簡単に道を閉ざしてしまえるような軽い気持ちで描くことをしているんじゃないかと、自分自身を責めることもした。そんな中途半端な気持ちで向き合うくらいなら、いっそ切り捨ててしまったほうがマシだ、と。
 それでも絵が好きだということは変わらず、未練がないと言えば嘘になる。
「――――お前、バカだな」
 倉本は全てを話した西原に向かって、野球のボールを投げるように言った。受け取りやすい、大きく弧を描いた投げ方で、それでもはっきりと口にした。
 その倉本の言葉はどんな言葉よりも暖かく耳に響き、西原は、知ってます、と今度はぎこちなく笑った。 
 不覚にも、無遠慮なその言葉に癒された気がして、涙が出そうになった。だから西原は笑った。得意のポーカーフェイスでもって。
 今日もまた倉本、西原、そして木村の三人しかいない店の中は何ともさびれた光景にしか見えない。それでも相変わらずコーヒー豆の香りが空気を満たしていて、それがいいんだ、と倉本は笑いながらまたコーヒーを一口飲んだ。
「それは私に廃業しろと言ってるのかい、紺くん」
 抽出済みの豆をネル袋からかき出しながら、木村は訊ねる。それでも言葉には棘がなく、そう言われてもまんざらでもないといった感じだ。
「いや。俺はここにこの店がなきゃいけないと思うし、ずっとこのままがいい」
 必要なら融資だってするさ、とわがままな子供のように、冗談とも本気ともつかない口調で答える。すると木村は苦笑して首を横に振った。
「冗談だよ。今は時間帯が微妙だからね。夕方になると、少しはお客さんも増える」
 紺くんには随分と貴重なものを貰いすぎているから、そこまでしてもらうわけにもいかないさ、と言ってネル袋を洗う。
「貴重なもの? そんなもんいつ木村さんにやった、俺」
 わざと謙遜しているのか、本人がそう思っていないのか、それでも木村が紺から受け取った品々は多分それだけで家が買えてしまうほどの価値があるものばかりだ。
 そして物よりも木村が大事にしているものも、倉本は持ってやってくるのだ。
「例えば西原くんとか、ね」
 急に話を振られて、西原は「何で」という顔しか出来ない。
 その言葉に倉本の顔は、見た目ではわからない程度でわずかに引き攣っていたが、それに気付いたのは木村だけだった。木村の方もそうなることを予測していたかのように何も反応はしなかった。
「西原くんは、いい子だと思うよ。とても素直だ。だからいい出会いをした、と私は思っているよ」
 いい子、だなんて言われるのはとうの昔に過ぎ去った、世間擦れしていない純粋な子供にのみ与えられる社交辞令だと認識していた西原は、その言葉に目を丸くした。
 素直、と言われるのは初めてかもしれない。いつの間にか、ひねた性格になってしまっていた西原に向けるものだとは誰も思わないだろう。
 何も知らない他人は、露見した過去の一部分に相手の人格を全てはめ込んで、平気でそんな無防備な言葉を無責任に投げかけることが出来るのだ。
 簡単に不快度指数を上げる西原は、本人が気付かない程度に不調だった。
「……素直だとは、思いませんが」
 西原は眉間に皺が寄らないように気をつけながら、コーヒーに口をつけた。
 棘がないようにしていたつもりだったのだが、どうしても声が硬くなりがちで、木村は何ともいえない表情で手元に目を逸らす。
 そしてすぐに、西原は謝った。
「すいません。言われ慣れていないもので……」
(我ながら、大人気ない)
 訊ねられていたとはいえ、べらべらと喋り続けていたのは自分の方なのだ。
 ただでさえ、人の一挙一動で心情を読み取ってしまうような感性を持つ――ただの西原のイメージに過ぎないが――木村の前で、していいことではなかった。
 それでも木村は西原の中に生まれた小さな罪悪感でさえ、
「どうして謝るんだい? 私の方が悪いことをした、とばかり思ったのに」
 と言って、溶かしてくれる。
 だが、隣に座る、それとは対照的な男が口を開く。
「不器用にもほどがあらぁ」
 口の端を吊り上げて、倉本はそっけなく呟いた。
 その通りだと言えない西原は、素直じゃないな、と思いながら言い返す。
「それは、自分にも言えることでは?」
 鋭い西原の突っ込みに、木村と倉本は思わず笑った。ばれたか、と倉本は西原を見る。
「これだけ話していれば、わかります」
 果たして他の人間の場合はどうなのだろう、という疑問が生まれたが、西原は気にしないようにした。
「不器用さに関して言うなら、人のことばかりは言っていられないでしょう?」
 西原の歯に衣着せぬ物言いに倉本はむっとする。
「生意気な奴だな」
「それもお互い様、ですよ」
 あしらうことに関しては木村並に上達してしまったらしい。倉本は「木村さんがもう一人いるみたいだ」と眉を顰めた。


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