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「同窓会?」
 自分の部屋のベッドの上で、受話器を片手に寝転んでいた西原は、さも驚いたような声を出した。実際、そのあまりの唐突な行事への誘いに眉を顰める程度には驚いていたのだが。
 西原も大学は四年生に上がり、本格的に就活だなんだと言われる年になった。卒業する年になったところで生活が何か変わるわけでもなく、ただいつものように、相変わらず片付けられない部屋で午前中が休講なのをいいことに、ダラダラと過ごしていた。
 そんな状況が決していいはずがないという自覚はあるものの、「悠々自適」「晴耕雨読」が座右の銘と公言してやまない西原に、「焦り」や「緊張」という言葉はもはや皆無なのかもしれない。
 ただやることはしっかりやっているようで、教員採用試験を申し込んだのは、学部内で西原が一番早かった。
 そんな西原に突然電話をかけてきたのは、中学・高校をともに過ごしてきた友人である中森篤だ。
元々人付き合いに関しては人一倍無関心で面倒だと思っている西原が、腹を割って語らえる唯一無二の親友、と言っても過言ではない間柄だ。
 それは中森も同じようで、他の元同級生たちは音沙汰一つなくても、一ヶ月に一度は必ず連絡を取り合っている。
 つい一ヶ月前まで、そんなことは億尾にも出さなかった中森のその言葉には、西原も少し戸惑う。
「何でいきなり」
『中等部の時、俺らの学年主任やってた村井って覚えてるか?』
「村井……? あぁ、あの白髪のおっさんな」
 二人の通っていた学校は中高一貫で、その中でも古株と言われていた村井は、人一倍白髪が多かった。白髪は経験の比例だと言い訳がましく苦笑し、その言葉の通り結構な博識だった学年主任を、錆付いた記憶の抽斗からガサガサと漁ってやっと西原は思い出す。
『で、その村井が去年度末で定年になったこと……は知らないよな。俺だって人づてに聞いた話だし』
「知らないな。それで、定年祝いを兼ねた同窓会ってことか」
 西原たちが卒業してからまだ三年余り。中等部から高等部へ上がったのを勘定に入れれば、六年以上にもなる。が、そんなに年がいっていたのかと思うと、記憶の中にある村井はかなり若々しかった。
 中森は数人の元クラスメイトと幹部をやっていて、興信所に百名余りいた中等部のメンバーの所在地を調べてもらったりしていたのだそうだ。
 参加か否かの葉書は全員分出したらしいのだが、電話ついでに参加するかどうかを西原に訊ねておきたかったのだと言う。
『就活もあるだろうし、実際何人かは断りの返信貰ったんだけど。無理なら別にいいよ』
 何でもないように言うが、十年来の友人の声には、少なからず落胆の色が混じっているようだ。
 たったそれだけのことでほだされるほど安くはない西原だが、それでも自分と違って他の人間とも平等に仲の良かった中森は、みんなで楽しみたいという中学時代からの理念をまだ持ち続けているのだろう。
「他所は他所、俺は俺」状態で、まだ人付き合いという言葉の意味を履き違えたままに生活をしていた当時の西原にとって、中森はいわばクラスメイトや「その他大勢」とのパイプ役でもあった。
 面倒で、他と自らを完璧に分け隔てているとしても、表面上のつながりだけは保つくらいの常識と忍耐力を嫌々ながら搾り出し、今では猫さえ頭から被れるほどに成長した西原は、当然、ちょっとやそっとでは感情を出さない。
 協調性も、自分次第。
 浅く、広くが基本で。加減は適度に調節する。
 結局は、やはりそうなのだ。
 その他大勢はどうなろうが西原の知るところではないのだが、「一部例外」という名の友人だけは、律儀にも気を使う。ひねてはいるが、自らの筋は通っているのも確かで。
 大切なものは、あくまで一つしかないから、何よりも大切に出来る。人というのはそういうものだと信じて疑わない西原だった。
 大切にする、というのも多種多様な方法があるが、如何せん、西原には考え付く限りの方法の数が乏しかった。
 中森に無理矢理参加させようという意思があるわけではないが、こういう場合で最後に折れるのは、不器用で思慮深く、慎重な人間なのだ。
「俺は別に構わないけど。バイト先に連絡入れないといけねぇから、時間はちゃんと決めておけよ」
 幸いにも、声からほんの少しの不満さも出なかった。それどころか、思いのほか自分の言葉が優しく響いた気がして、懐かしい感覚にとらわれる。
 お互いのスケジュールが合わず、電話だけの繋がりになってから半年以上が過ぎていた。そんな唯一無二の友人のことを考えて譲歩できるほどに、西原には棘がなかった。
 所詮は他人、という普段の冷たさも。
 今更だろ、という本音も。
 たった一つのためだけに、小さな箱の中に無理にでも押し込んで、笑うことがこんなにも優しかったのか、と。
 それが当たり前だった中森との付き合いが、西原自身に変化をもたらしたと言っても過言ではないほど。
 西原には、欠けていて、補わなければならない「存在」だった。
『その辺は大丈夫。もうすぐ着くと思うけど、その葉書に全部書いてあるから。学校で集まるんだぜ? ――あー、言ってたら楽しみになってきたなぁ』
 西原の心境を知ってか知らずか、普段のテンション以上に盛り上がった中森は、電話口の声が掠れている。子供のようなはしゃぎように、西原も苦笑した。
 ただ、それに「俺も」と言えるほど、西原は偽善者ではない。温度差は感じなくても、何処かで一歩引いているのかもしれない。特に、中森以外の誰かが関わるような場面では。
「―――懐かしいな。学校に戻るなんて。制服あったら、着てってもいいぜ」
『それもいいけど、浮くぞ? 確実に』
「だろうな。もちろん冗談だ。制服は卒業してすぐに在校生の家庭向けのバザーに出しちまったからな」
 そんなのもあったなぁ、と思いを馳せる中森に、西原は本音を言えなかった。お前だけに会えれば、十分だと。そしてそれは言わずとも、中森にはばれているのだろうと思った。
 たっぷり三十分近く話したあと、西原はコードレスホンをベッドの端に放り投げた。盛大な溜め息は、どんよりとした重苦しさで以って空気を満たしていく。
(篤だけは……大事だ)
 ただ、他にくれてやる優しさや感情など、これっぽっちも持ってはいない。
 どちらにせよ、久しぶりに会う口実が出来たのだから、周囲の視線には目を瞑ろう、と。
 気にしなければ、ないも同然、と。
 一線引き、他人を自らの物差しで判断して、あからさまに突き放していた西原にとって、あまりいい思い出だとは言えないのも事実だ。
 小学校時代を思い出してみると、比較的社交性もあったし、誰とでも仲良くできるタイプだったような気がするが、何故そうなってしまったのかさえ思い出せない。
 ただそのスタイルが、周りの嫌味さえ気にしなければ煩わしいものがないとわかっているから、意識もせずに定着させてしまったのだが。
 人当たりのいい『猫』も、ついでの副産物、とでも言うのだろうか。
 いずれにせよ、中学生だった西原にとっては高すぎるハードルだったのかもしれない。それを超えてしまった今となっては、考えるだけ傷を抉るようなものなので、あまり意識しないようにしていた。
 昔を懐かしむ余裕のある中森とは、対極的だ。だからこそ、一緒にいれるのかもしれないが。中森の真意は、いつになっても読めない西原だった。
(知らないほうが、いいこともあるんだろうけどな)
 思ってから、自らの考えが唯一無二の存在を疑っているのだと気が付くが、それも考えたところで意味はないのだと、頭を振る。
 猜疑心が強いと、中々苦労するものである。必然的に何事も疑ってかかるようになったのは、それも成長過程での経験から教訓として身についたものだ。
 誹謗中傷もままあることに変わりなかった微妙な学校生活で、信頼できても信用することはなかった。
 それも周囲が疎遠になってしまう原因の一つだった。それを今更悔いる気にもなれない西原は、やはり何処か幼く、頑ななのだ。
 ベッドに沈んでいた西原は、玄関の方で鳴った小さな金属の擦れる音にふと上体を起こす。
(―――配達だな)
 足場のない部屋を横断して、ドアに備え付けられたポストの口をあけると、葉書が入っていた。
 それは中森が言っていた同窓会のお知らせだった。日時はゴールデンウィークの最終日で集合は正午だ。
 その日は昼からバイトが入っていた。が、行くと言った以上は都合も合わせなければならない。
 西原はもう一度ベッドの上に葉書を持って戻ると、放り投げたコードレスホンを取って今度は別の番号にかける。
『……はい、永沢です』
 行儀のいい定型句で電話に出たのは、西原のバイト先の後輩で、一年下の永沢だ。
 背が高く、年下とは思えないほどの物腰で、黙っていればそれなりにできる人間に見える。まぁそれも間違った判断ではないと言えばない。
 だが西原に言わせてみれば、中身はてんでお子様で、何事に対しても腰を引いている「臆病者」なのである。
 赤の他人のままで判断するのなら、その他大勢と意見はそう違わないのかもしれないが、ここ最近は特に永沢の「押しの足りなさ」というものを再認識させられている。
 それでも。
 どうしようもなくそれが可愛くて放っておけない後輩なのだ。
 そんな永沢に恋人ができたのはつい先日のことだ。
 新年度早々、お風呂のお湯を出しっぱなしにして大学へ行ってしまった永沢は住んでいたアパートを追い出された。大荷物を抱えて路頭に迷っていた永沢を拾ったのが、永沢より五歳年上の葛西だった。酔った勢いで拾い拾われる、というのも突っ込みどころ満載な出会いである。
 紆余曲折あった末に、一時は永沢が西原のアパートに転がり込んでくるという事態にまで発展したのだが、覚悟を決めた永沢はきっちりとけじめをつけた上で、葛西にアタックし、見事成就したのだ。
 その際に色々と借りを作った後輩に、借りを返させるには丁度いいタイミングだった。
「あ、純ちん? 西原だけど」
『何だ、西原? 何』
 年下のくせに堂々とタメ語で話すのは慣れてしまったことで今更どうこう言う気にはならないが。
(何だ…って、何)
 大きな貸しを作っておいて、それはないだろうと、西原は眉を顰めた。口調も自然とトーンダウン。
「ゴールデンウィーク最終の昼間、シフトよろしく。用事があるから」
『……何で』
 いかにも「ふざけんなよ、コラ。こっちにも都合ってもんがあるんだよ」という不平不満が詰まった簡潔な返答だ。
「問答無用。それに元々、俺に対してはでっかい借りがあるんだし?」
 伝家の宝刀、とばかりにちらつかせると、それがどういう意味だか理解したようで、永沢は息をついてから「わかった」と言った。
「何。葛西さんとハネムーンのご予定でもあったのかなぁ? 純ちんは」
 熱いねぇ、と嫌味ったらしく言うと、永沢は何も答えなかった。図星なのだろう。
「ま、何も最終日までイチャイチャしなくてもいいだろ。俺と違って、お前らずっと一緒にいるんだから」
 元の鞘に収まった、というのか。結局正式に恋人同士となった二人は、葛西のアパートで同棲中だ。
『…………』
(こうもあからさまだとな……)
 自分でグサグサと突いていったとはいえ、黙ったままの永沢に、悪いことをしたような気分にもなる。
 生まれてこの方、周りからの熱くて痛い「求愛光線」を放つ視線には幾度となく当てられてきたが、恋人と言える相手を作ったことは一度たりともない。
 必要ないとも思っているが。
 身近な場面でそういう「桃色オーラ」に当てられると、どうもウイルスが回ってくるらしく。
 罪悪感と一緒に、余計な嫉妬や執着というのもでてくるわけで。
 しかも西原は「俺も欲しい」じゃなく「世の中、結局は恋人をとるんだな」という意味での嫉妬だ。
 その他大勢がどうなろうと知ったこっちゃないのは変わらないが、お気に入りのおもちゃを横取りされたようで、どこかやるせない。
 むやみにいい顔を振りまかない分、執着は人並み以上なのである。
「じゃ、それだけだから。よろしく〜」
 わざと明るい声で言ってやると、受話器の向こう側で永沢は『この野郎……』という呟きを洩らしていた。
(この様子だと、結構大丈夫みたいだな……二人とも。多少特殊だけど、上手くやってるみたいだし)
 特殊な恋愛事情……と言っても、たまたま相手が同性だっただけなのだが、それなりに風当たりはきついだろう。
 たまたま、と軽く流せる西原の考えにも問題があるのかもしれない。
 ただ無意識のうちに心配する西原は、何だかんだ言いつつも、珍しく「面倒見のいい先輩」だった。
 それは西原にとっての永沢が「放っておけない、面倒の見がいがある可愛い後輩」だからなのだろう。
 それは解釈のしようによっては「哀れな玩具(生け贄)」とも呼ぶのだが。
 自覚しているのかそうでないのかは定かではないが、永沢も不満げな態度をとることはあっても、西原を本気で邪険にはしない。
「性格の悪い先輩」以前に、頭の上がらない人物であることは、変わりようのない事実だった。
 時計に目をやると既に十一時を回っていた。そろそろ支度をしなければ、午後からの講義に間に合わない。
「まだ、こんな時間か……」
 その事実と相反する呟きを洩らしたのは、西原が講義までの時間を持て余しているのではなく、夜を待っているからだ。
 夜になれば、帰ることが出来る。
 この汚い部屋に。
 一日の終幕に。
 優しく暖かな、沈黙と暗闇に。
 そしてそれよりも。
 倉本と木村がいるはずの―――あの店に。
 自分を不快感もなく包んでくれる空気と、朗らかな声に皮肉な笑みと優しい微笑を含んだ空間に。
 何よりも、それが待ち遠しかった。
 着替えようと立ち上がったとき、充電器に繋がれていた携帯が鳴った。着信音で相手がわからないのは、何の変哲もない呼び出し音をそのまま使っているからだ。
 座卓の上にあった発泡酒の空き缶を退かして、充電器から外して画面を見ると、倉本からだった。
(あ……)
 西原は、止まった。
 西原の全てを止めるには、それだけで充分すぎるものだった。
 普段、倉本と携帯で話をすることはあまりない。夕方、木村の店へ行けば必ずと言っていいほど倉本がいたし、それで話し足りていた。――――話したいと思うことについては、足りていた。
 だが、離れがたい充足感と安らぎと、完全で一縷の隙もない穏やかさを、その場限りで終わらせてしまう日常は、心満たされるものではなかった。
 西原の携帯を持つ手はわずかに震えていた。わけもなく、心臓が跳ねる。
「倉本、さん……?」
 通話ボタンを押して倉本を呼ぶと、その声は先ほどの軽々しいものとはうって変わっていた。珍しく慎重で、気を張っているときの掠れた声だ。
『……どうした?』
 酷く落ち着きのある声で倉本は西原にそう言った。
「どうしたって……それはこっちの台詞ですよ。かけてきたのは、あなたの方でしょう?」
 倉本のそれは、重みのある、深い海のような低い声だった。西原は、一瞬で倉本の中に引き込まれていくのを無意識のうちに感じた。
 西原が倉本と同じ年齢になったとき、こうなるかといえば、なれないのだと、すぐに答えが出てしまうほど明白な隔たりで、軽く手を引かれるだけで簡単に乗り越えてしまえる壁がすぐ後ろあるような気分で、西原は返した。
 言葉の。
 声の。
 雰囲気の。
 感情の。
 全てにおいて、絶対的な壁が。
『いや……声がえらく強ばっていたから、何かあったのかと思ったんだが』
(それは間違いなくあんたのせいです)
 と、口に出すことは西原のプライドが許さなかった。
「普段通りに出たつもりだったんですけど」
 自覚アリアリで、ついて出る嘘に何の躊躇いもないのは、西原たる所以なのかもしれない。
『そうか。ならいい』
 余計な詮索を入れず、ただ事実として受け止めるだけの単純な応答さえ、もどかしさを感じずにはいられなかった西原だが、もちろん億尾にも出すことはない。
 これが西原と倉本の差なのだ。
 そう考えると、無性に悲しくなってくる。
「ところで、何なんですか」
 考えれば考えるほど見えてくる差に嫌気がさして、とっとと切りたくなった西原は声が鋭くなった。
『あぁ……仕事の関係で、早急に新作を描き上げなきゃならなくなった。だから、しばらく木村さんのところには行けない』
 下手な役者が読んだ台本の台詞のようなそれは、感情が全く読めない。ただ事務的に、淡々と告げられたそれにどう答えればいいのか、わからなくなった。
 どうしてそれを自分に言うのか、と普段の西原ならすぐに笑うだろう。
 全くと言っていいほど、西原が木村の店に来て、そこに居合わせている倉本と話すことと、倉本自身の仕事の都合は関係のない話だ。
 西原はそれを肯定する気になれなかった。
「何でそれを俺に言うんですか」
 フッと鼻で笑って、西原はそう言っていた。本心と猫はもはや別物で、考える前に猫は行動を起こしている。建前という名の鎧を心に被せるのに、大分慣れたようだ。
 ただ薄っぺらな言葉に気持ちなどこもっているはずもなく、倉本のように感情を読ませない、ある意味「役者」のような言い回しは、とても西原に出来たことではなかった。
『俺と話したくて、木村さんのところに行ってるんじゃなかったのか?』
 それでも、ささやかな抵抗は倉本の足元にも及ばなかったということなのか。
 冗談めいた口調に、西原はわかりやすく顔を真っ赤にした。もし倉本が目の前にいたら、爆笑モノだっただろう。
「誰が……。自意識過剰も大概にしたらどうですか。あまりからかわれるのは好きじゃないんです」
 冷静に、と思えば思うほど、言葉は気持ちを乗せてどんどん感情的になっていく。それを面白がっているのがわかるほど、倉本は楽しそうな声で返してくる。
『悪かったって。まぁ、木村さんが素直だって言うくらいなんだ。生真面目でも今更だな』
「……俺は卑屈であっても、素直でいるつもりはないんですが。木村さんと同じくらいの老化現象、始まってるんじゃないですか?」
 苦し紛れに毒づくと、一瞬倉本は黙り、そして声を上げて笑った。
 何がそんなに面白いのかと問いたくなるほど、普段の倉本からは想像もつかないような笑い声だった。
『っはははは…! 老化か…痛いこと言うなぁ、西原も。俺はまだ三十手前とはいえ、現役の二十代だぞ』
「どうでしょう? 見た目そうでも、精神年齢はいい勝負かもしれませんよ」
『バカ言え。あの人に比べれば、俺なんかまだまだ青臭いガキだよ。……ったく、なんたってそんなケンカ腰で言葉をふっかけるんだ? お前』
「元からこういう性格してますから。人は選びますけどね」
 余計な失言にも気づかず、言葉を選ぶ余裕もない。ある意味「丁寧な物腰で接する人間」よりも特別だ、と言外に匂わせているということに全く気づいていないのだ。
 携帯で繋がっている相手は、ただの男ではなく、天才画家と謳われている倉本紺だと。
 思えば思うほど、どうしようもない距離を埋めようと必死になる。が、西原はひたすら無自覚を決め込んで、距離を保とうとしている。
 長い時間をかけて育ててきた猫は、今や本心よりも決定権を持っている。だからこそ、中森の誘いも断りきれなかったのかもしれない。
『可愛くない性格してるな、お前も』
「どういたしまして」
 可愛くなくて結構、と同意義でそう言い、そして少しだけ後悔した。
 そうしてひとしきり罵倒し、からかい、言い返しあった後。
『とにかく、そういうことだ。……じゃあ切るぞ』
 言い終える頃には普段と変わらない倉本が、同じ質量、同じ穏やかさの声で終わりを告げていた。
 別に今生の別れでもない。
 でも。
「はい」と。
 倉本が望む、素直さと簡潔さを交えてそう答えるのに、西原はどんな言葉を口にするよりも苦労した。
 ぷっつり切れた後の音を聞きながら、西原は大きく息をつき、そして呟く。
「絶対今日も行ってやる」
 無理矢理意固地になっても。
 余計に悲しくなるということは、西原自身がよく知っていることだった。
 そして。
 結局、遅刻ギリギリのアラームが鳴ってから西原はやっと行動し始めた。


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