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−6−

 ペタペタとスリッパの薄っぺらな音が廊下に響く。体育館から校舎への渡り廊下は、両サイドの窓から光が差し込んでくるため、晴れの日は特に明るい。
 連休に加え、卒業生の同窓会ということもあり、学校側の配慮で休日の部活動や補習などがなく、校舎内は閑散としている。
 騒がしくもつつがなく終了した同窓会の後片付けをしている中森を待つ間、西原は久しぶりに美術室まで行ってみることにした。
 とりあえず全体会は終了で、二次会は場所を移してそれぞれでやるそうだが、もちろん西原は大勢で行くつもりはない。女子からの誘いが多かったが、やんわりと笑顔で逃げてみせた。
『悪い、俺用事があるんだ』
 と口で言いながら、内心
(るっせぇんだよ、ピーチクパーチクと……テメーらとよろしくするくらいなら、休日返上でバイト出た方がよっぽどマシだっつーの)
 けんもほろろに毒づいていた。
 そういう類のものはきっぱりすっぱり断るのが常の西原には、「元同級生のよしみ」だの「旧交を温める機会」だのというプレッシャーなどあってなきも同然。
 後者にいたっては「そんな元からないものをどうやって温めりゃいいんだ?」。
 いっそ見事なまでの毒舌で一線を引く、というのも一つの手だが、すべては中森のためとも言える。
 西原にとっての「他人」でも、中森にとっては「友人」で「仲間」なのだ。その辺の微妙な距離感や人間関係が煩わしくて仕方のない西原は、誰が何をどうしようが「他人」なわけで。
 同窓会を企画し、数人の幹部と共に準備・運営を手がけている中森が、会を楽しんでいるのは、見てわかった。それをぶち壊すことなど、出来るはずもない。
 ご機嫌取りなら「ご機嫌取りらしく」振舞えばいいことだと、猫の重装備で全身を固めてきた西原は、解散の合図が出た途端に重苦しい溜め息を吐き出した。
 何もしていない(普段通り「対人専用」の態度を崩さずにいただけ)のに、肩はずしりと重く、足取りは一見普通に見えるが、西原本人からすれば引きずっているも同然だった。表情も、人がいなくなった瞬間に不満垂れ流し顔になる。
 もちろん、中森もそれは承知の上だったわけで、しっかりきっちりフォローをしておいた。つまり、二人だけの「二次会」。
 積もる話もあることだし……と、西原を見やる中森の表情は何やらいろんな思惑が混ざっていて、余計不愉快になってしまう。
(ガキ扱いしやがって……覚えてろよ)
 それなら、遠慮なくいかせてもらおう、と言うわけだ。
 教室棟の二年の教室の前を通り、二階まで上がって、中等部の教室棟へ続く廊下を抜ける。今度は一階まで降り、廊下の突き当たりにある技術室の隣が、中学時代、部活動場所だった美術室だ。
 第一美術室と第二美術室に別れていて、授業の内容によって使い分けられている。第二美術室にはデザイン用の机が完備されていて、設備も結構充実していた。
 美術部で利用していたのは、大体の授業で使われる第一美術室の方だが、西原がまともにそこで活動した記憶はあまりない。
 それでも、西原は美術室の雰囲気が嫌いでなかった。
 光が取り入れられるように、東側から西側の壁は窓がついている。ドアについている窓からは、太陽に照らし出された明るい室内がよく見えた。
(あ、鍵借りんの忘れた)
 美術室の目の前まで来て、西原は自分がボーっとしていたことに気付く。それでも無駄な足掻き……とばかりにドアに手をかけて力を入れると、ガラリと音がしてドアは開いた。
「何だ、開いてんじゃん」
 無駄足をしなくて助かった、と思いながら、ゆっくりと開けて中へ入る。
 中のものの配置までは覚えていなかったせいで、こんなんだったっけ? と首を捻る。まぁ卒業してから何年も経っていれば、それなりに室内環境も変わっていて当然だろうし、そんな細かいことまで覚えているほど西原も思い入れがある、というわけではなかった。
 だが壁に飾られていたゴッホやピカソ、モネ、ルノワールの見本は題名が言えるくらいには覚えがあった。それも思い出の一部ではなく、美術に関する知識の一部として身についていたもので、実際に見るのは初めてのような感覚だ。
 壁際にある乾燥棚と台の上には、粘土や紙で作られた立体作品が並んでおり、まだ形はあいまいで、何を作っているのかわからない。
(完成しても、何が何だかわからないような作品になりそうだな)
 中学の芸術センスなんて、そんなものだ。
 似ていない自画像と一緒で、言われれば「あぁ、言われてみれば何か似てるかも……」と思う程度のレベル。酷ければ、言われても「ぇえ、違くねぇ?」と悪気のない一言に終わるのだ。
 イメージは出来ても、それを完璧に具現化し、表現するための方法がわからないから、そうなってしまう。美術の先生は、その手助けのためにアドバイスと言う名の知識を体や経験で覚えこませるのだ。
(これじゃ、小学生の先生なんて、褒め方がうまくないと出来ねぇよな)
 何せ、何を描きたいのかを模索しながらただただイメージに合った色を塗り固めていくだけの低学年の絵など、どうすれば傷つけることなく「褒められる」のだろうと先生は考えなければならない。
 単純に「綺麗」「上手ね」「すごい」で満足してくれるなら、それに越したことはない。が、どこをどう褒めて欲しいと求められるのが一番困る。
『俺らの世界に比べりゃあ、テメーらの絵なんざ足元にも及ばねぇんだッ。褒められてぇなら、それなりのモノを描きやがれ!』などと言われた日には、幼心なりのショックでクレヨンなど持てないだろう。
 中学生にもなると、感情的になり、貧弱な知識と半端な語彙力で、目上の人間だろうと何だろうと、無理やり貶めて、反発する。別の意味で創作意欲は失われてしまう。
 だからこそ、他人を理解する力が必要になる。
(そう考えると俺には向かねぇんだけどなぁ……教師、なんて)
 いつか別の道が開ける、なんて淡い期待など初めからするだけ無駄と思って。理想と現実のギャップに耐え切れずに落ちぶれていくだけだと思うと、せめてまっとうな生活を送りたいという気持ちだけが決め手になる。
 自己満足の世界に浸っているだけ、と言えば身も蓋もないのだが、傷つかず、侵されることのない平穏で安らかな日々はそれなりに充実している。
 ただ何にも否定されず、自分の表現したいように描く。そこには自らの感性以外には何も存在しない。期待も、批判も、求められる技術や芸術性も。
 好きだから描く。
 それだけでは、超えられない壁があるのだ。
「暗い、人生だぁな」
 珍妙で奇形な作品が、まるで屈折した自分の末路のように思えて、西原は自嘲した。
「――――にし、はら……?」
 唐突にその場にあった空気がかき乱される。
背後で聞こえたその声に、西原は驚く。が、態度には億尾にも出さずに振り返った。
 いくつも並べられている作業台の向こう側で西原を凝視しながら目を丸くしている男に、もちろんといえばもちろん、見覚えはなかった。
 カーキのチノパンと白のカットソーに身を包み、さっぱりとした長さの髪はダークブラウンに染められている。
「……誰」
 再会の喜びどころか、記憶の隅にもないという言葉で、相手の期待を一刀両断する。それを仕方ない、と言えるのは中森だけだろう。
 が、油断しているときに声をかけられては、本音もポロリと出てしまうものだ。これが確信犯なら性質が悪いのだが、事実、西原には何の悪気もない。
 すると男は何がおかしかったのか、いきなり噴き出した。からかわれているようで「何なんだ、コイツ」という目で西原は男を見た。私服姿で、顔つきからしてみても二十代。同窓会に来ていた内の一人だということしか、西原には判断がつかなかった。
「や、ゴメン。言われると思ったこと本当に言われたから、可笑しくて」
 と、いうことは、最初から覚えていると期待していたのではないということだ。
「誰」
 まるでわかったような口をきかれて、顔を顰める。先ほどよりも強く問いかけた。
「元美術部員の天野。まぁほぼ『校外活動』してた西原とは、あまり縁がないからねぇ。知らなくて当然だわな」
 ニッと口の端だけ吊り上げる笑い方をする天野に、西原は露骨に嫌そうな表情をしてみせた。意識してそうしたのではなく、誰かと昔話をしたい気分ではなかったせいだ。
「露骨に感情むき出しにすんなって。俺は別に「あの事」なんて何も気にしてねぇし、ただ懐かしい顔だなって声かけただけなんだからさ」
 苦笑して、ゆっくりと天野は歩み寄る。西原は自分の中で何かが音を立てた気がした。
「あの事、って……何の話だ」
「だから……一時期ものすごかった――アレのこと」
「つう」といえば「かあ」で返せるほどの相手ではない。「あの事」の「あ」の字も身に覚えがない西原は、妙な因縁でもふっかけてんのか、と訝しげに天野を見るが、その表情は心底驚いているようだ。
「西原……お前、まさか本気で忘れてる、とか言わねぇよな」
「まさかも何も、知らねぇって。何だよ、あの事って」
(何度言やぁわかるんだよ、こいつは)
 眉間に皺を寄せて、「……マジ?」と訊き返してくる天野にもう一度「知らない」と答えた。
「何、俺お前に何かムカつくことでもしたのか?」
「何もしてないはずの俺に露骨に嫌な顔しておいて、それはないだろうよ」
 久しぶりの再会に、向こうは顔も名前も覚えていたにもかかわらず、「誰」と何の躊躇いもなく訊ねる事は確かに他の人間からすれば(西原は「わからないものはわからない」としか思っていないのだが)多少憤りを感じる場合もあるかもしれない。まぁ、そんなことも許容することができない人間など、どうせロクな覚え方はされていないだろうが。
「まぁ、西原が俺に何かしても、多分忘れるのは当たり前だから。もちろん違う」
「じゃあ……何」
 記憶云々のそれとは無関係だが、自分の事に関して、本人のあずかり知らぬところで妙な話が流れるのは誰だって気になるはずだ。西原は基本的にスルーするタイプだが、妙に引っ掛かりを覚えた。本人が知らないことがそんなにも驚かれるほど有名な話らしいのだから、知りたくもなるだろう。
「……あまり、景気のいい話じゃないからなぁ。忘れたままの方がいいと思うよ」
(むしろ、その方が好都合)
 が、天野は肝心なところではぐらかす。思わせぶりな言動で関心を引いておいて、それはないだろう。
「いい加減にしろよ。言いたいことがあるんならさっさと言え」
「だから、別にいいのに」
 熱を上げるのもバカみたいに思えてくる。西原は笑顔でのらりくらりと逃げる天野に溜め息をついて、冷静を保つ。
(何、マジになってる? 別に、覚えてもいない奴が何を言おうが、知ったこっちゃねぇだろ)
「ただ、別件では大アリなんだけど、ね」
「俺はな―――」
 い、と言おうとしたところで、言葉を切ったのは故意ではなく、天野が急接近してきたせいだった。
 瞬間。
(――――は……?)
 何が起こったのかわからず、西原はただ呆然とすぐ目の前にある天野の目を凝視していた。わかるのは、肩をつかんでいる手と、何かが自分の唇に触れているということだ。
 何、と問う前に、西原は反射的に天野から体を引き離そうと腕に力を込めて押すが、天野の体は動かない。
(う……あ、マジ―――?)
 何があっても、大抵のことは冷静に構えていられる西原も、この時ばかりはあまりの衝撃に頭が回らなかった。
 キスを、されている。
 誰かも覚えていない、奴に。
 男、に。
(…っれ……?)
 呑気に考え事をしている暇などなく、早くどうにかしてこの状況から抜け出さなければならないとわかっているはずなのに、西原は妙な既視感に襲われる。
 絵の具の染み付いた匂い。
 落ちかけた陽に照らされて。
 とても、寂しい。
 いつ?
 何処で――?
 何故――……?
 その思考も、天野がロクな抵抗もしてこない西原の口蓋を割って舌を潜り込ませてきたことによって遮断される。
 そうなれば、あとは本能が感じ取る危険信号を察知するだけで。今度こそ西原は渾身の力で天野を突き飛ばした。
「―――ッ、何しやがるクソ野郎!」
 完全に冷静さを欠いて、猫も建前も関係なしに、テンプレ台詞もいいところの罵りだ。本調子ならもっとグサグサと言えるだろうが、非常事態というものに慌ててしまうのは仕方のない事だろう。
「何だ、やっぱ……ノンケなわけだ?」
 青筋を立てて怒りを露にする西原に対し、天野は面白そうに呟いて、ニヤリと口の端を吊り上げた。
 口を手の甲できつく擦り、西原は天野のその言葉を無視して、何もされないうちにさっさとその場を去ろうとする。ノンケ云々はこの際どうでもいい。ただ、とにかくキスされたこと自体に激しい怒りと嫌悪がこみ上げてきていた。
 何故たかがキスくらいでそれほどまでに怒りを感じるのか、西原自身でもわけがわからない。
 ただどうしようもなく、感情が高ぶっていて、収まらない。
「何で、こんなことされなきゃなんねぇの」
男にされた、という事実よりも、気を許してもいない相手にされたことの方に意識が向いているのは、同性愛に対して免疫ができているからでもあった。何せ、バイト先ではそれが公然と許されているのだ。
 突き飛ばされて、作業台に軽く体を打った天野はいたって冷静にその問いに答えた。
「何って、したかったからだよ。それ以外に、何か理由でもあると思うか?」
「何でしたいとか思うんだよ。迷惑だってのがわからねぇのか」
 天野はますます西原を苛立たせるような笑みを浮かべ、そして簡潔に述べる。
「あえて言うなら、すっげー好き、だからかなぁ」
 日常会話の中の一部のように、何の躊躇いもなく天野は「告白」した。
 そして西原も、ゆっくりとその言葉を咀嚼した。
 好き? 誰が? 誰を?
 天野が。
 俺を。
 スキ。
 ――――ナンデ?
 ――――……。
 いや……理由なんて、考えたって。
 受けるつもりはないのだから。
「―――どーでもいい」
 西原は何の躊躇いも違和感もなく、その言葉を受け止め、そしてけんもほろろにそう返した。西原の今の心情を表すのには、丁度いい言葉だったかもしれない。
 冗談だろうが、本気だろうが。
 誰が、誰を好こうが、関係はなくて。
 自分が好かれようとも、関係ない。関係したくない。
 恋愛、なんて体のいい感情でオラオラと押しまくり、上手くいけば「やった!」とガッツポーズでもかまして、平気で私生活に割り込んでくる。された方も、相手がいるから、と煩わしいながらも必然的な感情が生まれて、結局自由ではなくなってしまう。  あくまでも西原の恋愛に対する意識と言うものは希薄で、あるとすれば、無意味で鬱陶しい「束縛」というところだろう。
 だから、なのだ。
「俺、恋愛に興味ねぇから。男だろうが、女だろうが、関係ねぇ。とにかく、鬱陶しいだけ」
 せっかく母校の懐かしさに浸っていたというのに、最悪だとしか言いようがない。人前でないだけまだマシかもしれない、と思うことにして、西原はさっさと出て行こうとする。
 向けられた背中に、天野はいかにも未練タラタラに言葉を投げる。
「それは―――過去のトラウマ?」
 西原は立ち止まる。
 何の覚えもないはずなのに、図星を突かれたかのように、心臓が軽く跳ねた気がした。
「何のことを言ってんのかわかんねぇけど、俺はお前みたいな奴とよろしくする気はねぇんだよ」
 そして西原は天野を振り向くこともせず、動揺した様子もなく美術室を出て行く。ただ、怒りや余計な感情を吐き捨てるように、思いっきりドアを閉めた。
「ひでぇなぁ……結構、本気だったのに」
 特に傷ついた様子もなく、表情一つ変えずに天野は呟く。美術室に空しく響いたその言葉は、もちろん西原のもとには届かなかった。



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