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−7−

 熱い。
 とにかく、熱くて、息苦しい。
 吐く息も吸う息もいつも以上に熱を持って、何をしようにも億劫な体は動いてくれない。
 じっとりとこめかみが汗で湿る。潤いという表現には程遠い不快感。
 早く何とかしなければ。
 どうにかして、楽にならないと。
 苦しい……っ。
 ―――熱い……!
「う……っ、ぅ……!」
 バッと音がしそうな勢いで、西原は目を開けた。呼吸は荒く、噴き出す汗に濡れて全身が不快感を訴えていた。
 何故、こんな状態になっているのか、西原自身、よくわからない。
 ついでに言うと、自分が寝ていたことにも、気付いたばかりだった。
 雨戸を閉め忘れた窓のカーテンの隙間から光が差し込み、荒野状態の室内に細い線を引いている。
 じっとりと汗ばんだ手のひらをシーツに擦りつけ、前髪をかき上げた西原は、思考を巡らせて何が起きたのかを思い出そうとするが、叶わなかった。
 記憶にあるのは。
 久しぶりに見た、中森の顔と。
 美術室と。
 天野の苛立たせるような笑みと。
 そして、熱。
 体が燃えているのかと錯覚させられるほどの、熱に襲われていた気がしていた。
 ただひたすらに、熱く。
 逃れる術はなくて。
 息苦しい、世界。
 もがき苦しみ、何を感じていたのか。
 もしくは―――失ったのか。
「……やめよ」
 独りごちて、西原はシャワーを浴びるために立ち上がる。時刻は既に十一時を回り、講義は丸々一回分逃している。
 連休明けは、何もかもが上手くいかないのは何故だろうか。
 西原は、がしがしと汗で湿っている髪を掻きながら大きく息をついた。
 ―――夢を見ていた。
 かつて、中学時代の三年間を過ごした校舎の中で、人と会う。
 中森であったり、天野であったり、麻生であったり、村井であったり……記憶にないクラスメイトだったりした。
 ただ一人、背を向けている者がいた。
 その相手をどうしても見たくて、西原は美術室まで追いかける。そしてやっと捕まえたと思った相手に、何故か近づけないのだ。
 そうしてもがいているうちに、体が燃えるような感覚に襲われて、目が覚めたのだった。
 実際、そんな夢を見るのは初めてで、多分、同窓会に出たせいなのだろうと思っていた。
 シャワーヘッドから噴き出てくる熱湯を全身に受け、汗にまみれた体を清めていく。ふと、熱気でくもった鏡を擦って自分の顔を見れば、顰められた眉も、不機嫌さに鋭くなっている目も、弱々しいものに見えて仕方がない。まるで、臆病な犬が強がってギャンギャン吠えているような意味のない抗いのようだった。
 一体何がそうさせているのか、西原にはわからない。それが余計に苛立たしくさせている。
 普段とは比べ物にならないほど不調な自分に気付いているのに、どうすればいいのかさっぱりだった。唯一の逃げ道だった「寝る」という行為も、今では火に油を注ぐだけで無意味だ。
 天野の言葉が脳裏に蘇る。
『西原……お前、まさか本気で忘れてる、とか言わねぇよな』
『あえて言うなら、すっげー好き、だからかなぁ』
『それは―――過去のトラウマ?』
 何か、大切なものを落としているのだろうか。
 ただの狂言に振り回されるほど西原は馬鹿ではない。過去の出来事で忘れていることなど、腐るほどあるだろうし、別に覚えていなくとも困るようなことではない……はずだ。
 現在は過去の積み重ねの上に成り立っている。が、過去の積み重ねは、すべてがすべて、現在を支えているわけではない。
 例えて言うなら、ジェンガのゲームで、だんだん空洞が目立ってきても、決定的な部分が抜けなければいつまでも立っていられるというような感じだ。
 つまり、今、西原が自身を保っていられるのは「必要最低限」の経験と記憶が備わっているからであって、きっと天野の言う「あの事」は忘れても構わない程度のものだったに違いないのだ。
「あるいは、要らないもの、か」
 そんなものを今更どうしようと言うのか。
 自分の身に何が起こったのか、考え出したらきりがないことは一番わかっている。  覚えのないことは、自分以外の何かから引き出すこと以外に知る方法はない。そして、正しい答えを知るものに訊かなければ見つからない。
 正しい答えでしか、自分は納得してはくれないのだ。
 正しい答え――記憶――を知るもの。
「―――篤」
 無意識のうちに零れた言葉に内心驚きつつも、迷いもなくすることを決める。
 なくても困らないとわかっていても、知る価値はあるかもしれない、と。
 自分を知らないことが原因で自分を失ってしまうなど、考えたこともなかった西原だが、この動揺ぶりは半端ではない。
 ただひとつ、確かなことは。
 何かを忘れている、ということだけだった。

* * * * *

 生暖かな風に包まれた夕暮れの空を見上げて思わず息をついた中森は、携帯を片手に雑居ビルの前をうろうろしていた。
 同窓会の日に連絡を取った相手は中森の険しい声音に声を硬くし――中森と話すときはいつも真面目だったかもしれない――、すぐに中森の用件に応じた。
 直接会って話がしたいと中森が言うがいなや、すぐにでも、と相手は時間と場所を指定してきた。一応「会ってもらう」という形になるのだから、その程度の条件なら呑むのが礼儀というものだろう。もちろん、中森に異論はなかった。
 重要なのは会うことではない。直接話をすることに意義がある。大切な話というのは、いつでも相手の目を見てすることだと、中森は思っているからだ。
 ビルの間に沈んでいく夕日を眺め、闇に包まれ始める空を感じ、中森はゆっくりと目を閉じて過去を振り返る。
 記憶の中の人物は幼く、弱々しい子供だった。電車やバスが大人料金に変わったばかりで、変わったといえば、そのことと学校と生活環境くらいのはずなのに、子供と言われるのを極端に嫌がる年齢の、子供。
 個性を個性として認めるだけの寛容さがなく、ある意味排他的で、革新を怠慢で否定し、庇護下にあるということの自覚もなく自由だなんだと胸を反らしてえばる。少しでも気に入らなければ、徹底的に潰そうとし、貶め、責任を擦り付け合い、それを罪とも思わないガキの中に埋没し、同じように見えて違っていたのは、西原だけだったような気がする。
 だから、ふとしたはずみに、簡単に繋がりは断ち切られてしまったのだろう。
 中森は知っている。どんな気持ちで西原がその悪夢のような時間をやり過ごしてきたのかを。勝手に騒ぎ立て、傷つけ、貶めて……悪いのは西原だと言って譲らない頭の悪い連中に、悪し様に言われ続けた西原がどうなってしまったのかを。この世の誰よりも、わかっていた。
 誰が―――悪いのか。
 どうして―――そうなってしまったのか。
 いつから―――思うようになったのか。
 誰から―――始まったのか。
 何故―――そうならなければならなかったのか。
 明けても暮れても、西原は答えを見出すことは出来ず、何もわからないまま忘れてしまった。知っているのは、中森とこれから会う相手だけだろう。
 原因は、くだらない嫉妬だった。
 原因は結果を生む。
 くだらないどこぞのバカのために、はかりしれない苦痛を受けた西原に同情する者はいなかった。その嫉妬自体が及ぼす影響など、誰も予想など出来はしなかったのだ。
 ただ言いようのない焦燥感から生まれる不完全燃焼の不機嫌さを発散させるためだけに、発せられた言葉を誰かが鵜呑みにして。
 誰かが誰かに話して、広めて、噂して。
 それが鎖のように繋がって。
 じわりじわりと西原を攻めたて、傷つけ、その傷を抉り、再起不能にしてしまえと言わんばかりの理不尽な攻撃を繰り返した。
 ただわけのわからないまま受け止め続けているだけの西原は、結局耐え切れなかったのだ。中森でさえ、惨すぎると感じていた。普通ならとっくにノイローゼになっているような状況に追い込まれても、西原は自身を保ち続けた。

[そういえばさ、アレって本当の話? 西原と高等部の先輩の……]
[本当じゃん? だって実際、先輩がうちらの校舎の美術室に来てるって、天野君言ってたよ]
[あ、この前あたしの姉ちゃんが言ってたんだけどさ、その先輩、西原に会うためにこっち来てるんだって。西原がわざわざ呼び出してるらしいよ]
[その話聞いた〜。絵を描くなら、中等部でも変わらないーとかって言ってるんだって。ずうずうしいって言うか、ねぇ。よく高等部の先輩にそんなこと言えるよ]
[先輩、結構優しいって有名だからね。可愛い後輩の頼み…くらいにしか思ってないんだろうけどさ]
[西原って、やっぱりホモなんだねー]
[何、ほもって]
[知らないの? 男のくせに男のことが好きなヤツのこと、そうやって呼ぶらしいよ。先輩、背も高くてかっこいいじゃん? だから西原が一目惚れしたってみんな言ってる]
[ゲーッ、やだぁ。オカマってことでしょぉ? それってヘンタイじゃん]
[そういえば、その先輩、一ヶ月後くらいに留学するんでしょ? もしかして、西原があまりにもしつこすぎるから、逃げたんじゃない?]
[可哀想ぉ〜。……クスクス]

 西原がいるとわかっていながらわざと口にされた嫌悪と悪意に満ちた無責任で鋭い言葉が、中森の耳に谺(こだま)する。
 当時、中森の目にどれだけ西原が痛々しく映っていたのか、今でも鮮明に思い出せるほど、脳裏に色濃く焼きついている。
 そして、もう二度とそうさせてはならないと誓ったことも。
 やっと騒ぎが収まったときには、既に、排他的で潔癖の嫌いがある別人に成り果ててしまっていた西原を、傷つけないように。
 だからと言って、親友といえどあくまで他人である西原の対人関係に口出ししたりするのはあまり好ましくはない。西原が知れば、即「余計なことはするな」と睨まれることは間違いない。そこまでガキでいたつもりはない、と。
 それでも、知らないままでいたほうがいいことも世の中にはたくさんあるもので。
 忘れてしまっているのなら、忘れたままでいて欲しいと願っていることに関しては、中森も譲れないところがあった。余計なお世話だと言われても、自分のやり方で西原を守ると決めているのだ。
 ふと空気が揺れる。
 中森の目蓋の裏にあった記憶は唐突に掻き消され、目を開くと目の前に呼び出した相手が立っていた。
「お久しぶりですね、先輩」
 実際、再会するのは高校を卒業してから四年ぶりになる。先輩、と呼ばれた相手は眉を顰めて露骨にその言葉に不快感を示す。
「先輩、なんて白々しい呼び方はするな。こっちの気分が悪くなる」
「……そうでしたね」
 にこやかに答えながら、中森もバシバシと不機嫌オーラを垂れ流している。本当は顔など合わせたいとも思わない相手なのだ。その証拠に、定期的に連絡は取り合っているが、四年間、一度も会ったことはなかった。
 まぁ、それが連絡を取り合うことの条件として中森が提示したのだが、事情が事情なだけに仕方なかったのだ。
(あいつさえ……余計なことをしなければ、な)
 あいつ、とは天野のことだ。
 これまで、あの手この手で危険因子を西原の周りから取り除いていたというのに、ほんのわずかな隙に潜り込んできた天野に地雷を埋め込まれてしまった可能性は十分に考えられる。
 天野と今中森の前にいる相手は全く関係ないのだが、西原に繋がってしまっている以上、放っておくわけにはいかないのだ。
「……知り合いの店がある。そこでゆっくり話してくれ。俺は立ち話は嫌いなんだ」
 中森の思惑などお構いなしに、相手は踵を返してスタスタと行ってしまう。
(人を身勝手に振り回すところは全く変わってないな、この男)
 目の前の男が自覚もなしに人を傷つけ、本人のあずかり知らぬところとはいえ、全く気付かずに生活し、人づてに初めて事実を把握して「知らなかった」と呆然となっていたあの時。
 どうしようもない怒りがふつふつと湧き上がるのを確かに中森は感じていた。
 考えようによっては原因の半分以上が、この男が西原に近づいたためだ。
 何も悪くないはずの西原だけが糾弾され続けて、勝手に好意を抱いてわかりづらいアプローチをかけ続けたために、周囲の反応は余計にエスカレートしていったのだ。
 西原はそれを知らない。否、忘れてしまっているのだろう。
 そう考えていると。
 苦痛の日々を切り捨てる代わりに、西原にとっての平穏で明るく満たされた日常を奪ったすべてが、中森は、いつの間にか憎らしく思えて仕方なくなっていた。
 付き合う相手も選んでいるつもりだったのだが、西原には「みんな大事にしたいと思っている仲間意識の強い人間」にしか見えていなかったようだ。西原と比べて、許容範囲が広いためなのだろう。
 それだって、大いに楽しんで、屈託なく笑いあって生きたいと、当たり前のように出来ていたことを心のどこかで願っていたのではないのか。
 記憶はなくても、人間の本質は変わらない。本人が自覚していないだけで、過去の捨てきれない「心」を抱き続けているというのなら、納得がいく。
 それがわかる――ただの思い込み、とも言えるのだが、不思議と中森は疑っていない――からこそ、中森はそのわずかな「心」も守りたいと思っているのだ。
「……おい」
 声をかけられて、またもや中森はハッとなる。見れば前を歩く男からは随分と距離が開いていた。
 上半身だけを中森の方に向け、無表情に見つめる男は、未だに想いを抱いているのだろう。人の感情など、一度決まってしまえば、他人にどうこうできるほど簡単なものではないことは承知している。だから、中森も最大限の譲歩をした。
 それも、きっと今日で終わる。
 すべては中森の胸のうち一つだということを、男は理解しているだろう。そして、直談判の理由もある程度予想はついているはずだ。
 いたって冷静に見えるのは、感情を押し込めた無表情の仮面をつけているからなのか。いつかは訪れることだ、と諦めがついているためなのか。
 だが、中森にとって、そんなことはどうでもいいことだ。
 大切なものを守るためなら、手段を選ばない。必要なら、手を黒く染めることも厭わないのだ。恨みを買うことになっても、他の誰かを傷つけることになっても……あるいは自分自身が傷つくことになっても。
(たかが親友相手に、ありえねぇっつの……。そう思うのに、あいつのこととなるとまるで見境なくなるんだよなぁ)
 これでは、面と向かって天野と同じことを言われたときに、何も反論できなくなりそうだが。天野くらいしか妙に的を射た質問をする知り合いはいないので、今のところはただの杞憂に過ぎない。
 しみじみ思いながら、中森は、眉間の皺を瞬時に消して足早に男の後を追った。

* * * * *

 今日も今日とて、西原のバイト先は賑わっていた。
 どこからそうなってしまったのかは定かではないが、「The free sky」という名のこのバーは、同性愛者の集う場所だった。
 スタッフや一部の客の間では、オーナー自身がゲイだということが少なからず関連していると言われている。
 初めてバイトの面接を受けに行った西原はオーナーの根本から聞かされた同性愛者云々のことで少なからず驚きはしたが、その方が案外楽かも知れない――普通の性癖の人間は迂闊に近寄ってこない。つまり知り合いと顔を合わせなくても済む――と思い、承知していた。恋愛は個人の自由だという思想の持ち主であるのも幸いしている。
 つい最近、同じバイト仲間までそうなってしまったのも事実だ。
 そのバイト仲間の永沢も、今日は夕方のシフトで入っている。カクテルを作りながら楽しそうに談笑している相手は恋人の葛西という男だ。先ほどから永沢はその場所から動こうとしないので、仕方なく同じカウンターに入っている西原が出来上がったカクテルを客のところまで運んでいた。
 バイトとはいえ、私情を交えながらの業務態度はいただけない。まぁ、それで腹を立てるような西原でもなかったが。
 永沢に相手が出来たことによって西原が抱えた問題は、そんな些細な不満とは比べものにならない。
 永沢に恋人が出来たということが常連の客――特に、永沢フリークの人間――に知れ渡るのは時間の問題で、フリーでなくなった永沢を密かに狙っていた多種多様な年齢層の男は、何故か西原に流れてくるようになり、今まで永沢が貰っていた数々の高価な品は、西原の元に集まり始めていた。
 貰っても、これ以上部屋に物を置けるような状態ではないために、与えられていたロッカーにはガラクタと化した時計やらアクセサリーやらが溜まり、今もなお増え続けている。たまに、どういうつもりなのか怪しげな錠剤やコンドームが入っているときがあり、さすがに気持ち悪く思った西原はそれらもろともゴミ箱に突っ込んでしまうこともあった。
 要らないなら全て捨ててしまえばいいのだが、いつか質に入れようと思い、そして忘れ続けているのだった。
「や、西原くん。今日は何時までいるの?」
 洗ったばかりのコーヒーカップを拭いていると、目の前に座った二十代後半の男に話しかけられ、思わず洩れそうになった鉛よりも重い溜め息を飲み込んだ。
「今日ですか? あと二時間くらいですけど。すぐに人と会う予定がありますので、お誘いでしたらご遠慮させていただきます」
 言うまでもなく、嘘である。
 いつも通り、にっこりと営業スマイルで釘を刺す。棘があるわけではないのだが、有無を言わせぬその威圧的な雰囲気を持つ言葉に男の顔は少なからず引き攣った。
「そう、残念だ。じゃあ、これだけでも受け取ってくれるかな? 買ったはいいんだけど、私にはとうてい似合いそうにないから」
(って、最初からそのつもりだったんじゃねぇのかよ)
 心の中で悪態をつくものの、表情は完璧に猫を被っている。
 男がカウンターの荷物置きから取り出したのは長細い箱だった。中身はきっとネックレスか何かだろう。
 恋愛は自由だとはいっても、好きでもない相手にサービスしてやるほど西原も寛大ではない。が、高価なものに罪はないのでありがたく貰っておくことにする。
「ありがとうございます」
 貢がれたって嬉しくも何ともないのだが、一人暮らしの西原にとっては大切な収入源でもある。ここまでくるとホストと変わりないのだが、生憎と何時間も座って話を聞いてやれるような耳は持ち合わせていない。もちろん、今日も適当にフロアから外れる予定だった。
(貢がれて嬉しがる女の気持ちがわからねぇ。好きでもない相手にたかって、モノ買ってもらって、どうしてそれがステータスになるとか思ってんだろうな)
 自分で働いて、高価でなくても自分に見合ったものを買う方が、適当に変な男を捕まえるよりよほど有意義であると西原はつくづく思う。
 そんなことを考えていたせいなのか、いきなり女性客から注文がかかって、西原は心臓を跳ねさせた。
 注文された酒のボトルを手にとって、西原は栓抜きを探しながらふと思い出す。それは唐突に頭の中を支配し、一瞬、西原は動きを止めた。
 何故、と考える暇もなく。
 それが当たり前の行動であるかのように。
(―――倉本さん)
 倉本のことを思い出すといつも一瞬作業が止まってしまうのは、もはやどうしようもないことだった。
 ここ数日、木村の店にも顔を出すこともなく、倉本と連絡すら取っていない。
 単に課題や文献調査など、しなければならない事が多かったのと、製作に入った倉本の邪魔をしてはならないと自粛していたせいだ。
 そんなことを考える余裕など、先日の「珍事」によって失いかけていた。
 記憶を失っているかもしれない。
 何か、忘れている気がする。
 それがどれほど重要なことなのか、西原には皆目見当もつかない。が、確実に他の事を考えている余裕を失っていたのは事実だ。
 今、どこで何をしているのだろう。
 少しでも、自分のことを気にかけていてくれているだろうか。
 他人など、どう思われようが関係ないと思っていた西原にとって、無意識のうちにそう思ってしまうなどありえないことだった。
 そして「どうでもいいと思われている」と、少しでも考えるだけで胸が痛むのだ。
 倉本の傍はどうしてか、居心地が良い。悪くない、と感じることはあっても、はっきりと「良い」と思えたことは、記憶の限りでは、ないはずだ。
 やっと「良い」と思える場所がひとつ見つかったというのに、どんなにきつく手を握っても零れ落ちる水のように、また時が流れ過ぎ、手を伸ばしても届かないところへいってしまうのだと思うだけで、どうしようもない不安に駆られるのだ。
 声が聴きたい。
 会って、話がしたい。
 一緒にいたい。
 そのいずれかをすれば、この不安も溶けてなくなってしまうのに、と。
 ばかばかしいと思いながらも、全身が求めている。
(どうかしてる……)
 西原は目頭を押さえ、力を込めてぐいぐいと捏ね回し、二、三度瞬きをしてからやっと動き始めた。
 と、店のドアが開き、控えめな音で鈴が来客を告げる。西原はボトルの栓を引き抜いてストローを挿し、人待ち顔の女性客の元に運びながらチラリとドアのほうを見やって――― 一瞬目を瞠った。
(うそだろ……?)
 こんなところに、何故。
 何の理由があって、来るのだろうか。
 その動揺を素早く隠し、カウンターテーブルの上にボトルを出来るだけ慎重に置いた。
 にこりと客に微笑みながら、その目には客の後ろに見える男が映っている。
(く、らもと…さん?)
 しかもその後ろには、何故か中森がいる。
 二人が知り合いだったことにも驚き、それ以上に、何故ここに来るのだろうと疑問に思うばかりだ。
 ここは、同性愛者の溜まり場で。
 普通の性癖を持つ人間が、来るところではないはず。
 周囲に示し合わせるかのように男二人で入ってくるのだろうと問えば。
 誰もが、デートか援交か……と答えるだろう。
 哀しいが、ここはそういう場所なのだ。
 二人は幸いにもカウンターから離れたテーブル席に向かったが、西原の目はそれをただ追うばかりだ。
 中森に倉本。
 二人を知っている西原にしてみれば、非常にミスマッチな光景であることには間違いない。赤の他人、特に女性であれば、美形の男が顔をつき合わせて愛を囁き合っている……とうっとりするのだろうが。
 西原はさり気なく立つ位置をずらして、二人から見えない場所に移動する。そうすると西原からも二人の様子は見えないのだが、知り合いとはいえ、業務時間に「客」に対して不躾な視線を送るほど非常識な神経は持ち合わせていないし、考え事をしていてうっかり見られたりしたら、気まずくて顔も合わせられない。
 男女間の一般的な恋愛でデートしているところに出くわすならまだしも。
 男同士となれば、話は別である。
 同じ性癖を持つ者同士なら、さほど気にはならないだろうが、西原自身は自分がどんな性癖を持っているかなど、恋愛経験ゼロな人生が災いしてはっきりとしていないし、それを中森や倉本に言った覚えもない。一般常識で考えるなら、西原は二人からすれば「普通の性癖を持つ人」なのだ。
 そして西原は中森や倉本が仮に同性愛者だとしても、それを知らない。
 そんなことをベラベラと喋るような人間ではないし、普通は口に出すべきことではない。
 つまり……当人たちがどんな反応を示すか、些か気にしているのである。
 そして。
 引っかかっていることもあった。
 中森はどうして倉本と知り合ったのか。
 倉本は何故この店に、中森を連れて訪れたのか。
 もし、何らかの理由で、中森と知り合う機会があり、倉本が気に入ったとして。何をネタにそこまで深い関係になったのか、と興味を持つのもある意味当然の野次馬根性だ。
 中森と結構な付き合いで、道端ですれ違って何度か一緒にお茶をしたことのある西原のことを間に持ってきて、中森が食いついた……と言われても、理解の範疇であるので――理由は知らないが、中森が西原に関しては敏感に反応するところがあるという想像はついている――特段驚きもしないが。
 それだけの情報を必死にかき集めて出た結論はほぼ仮定に近いものだが、それでも考えるだけで西原は愕然となった。
 二人の関係に、というのもあるのだが。
 それ以上に。
 ただのダシに使われただけ、という机上の空論で導き出した結果が。
 胸をグリグリと抉り。
 腹に底冷えするような感覚が襲い。
 終いには、後頭部に言いようのない衝撃を受ける。
 それだけの価値しかなかったのだと、言われているようで。
 あれほど優しいと感じた声も。言葉も。
 自分ひとりに向けられることはないのだと。
(………っ、こんなときに、何考えてんだよ、俺)
 今は自分の目に映らない、すぐ近くにある倉本の居心地の良い雰囲気が、息苦しささえ感じさせるようだ。
 いつの間にか、自惚れて。
 次の瞬間には、突き落とされる。
 無鉄砲なドリーマーの見事なまでの挫折感に似た絶望(ショック)を、これ以上ないというほど噛みしめているような気分だった。
 ぐるぐると考えすぎたせいなのか。
(熱っ……)
 必死で気を紛らわせるために、水切りに置かれた小さなグラスを手に取り、ごしごしと拭いていた西原は、体の内側から今までに感じたことのない熱が込み上げ、全身を覆っていくのを感じた。
 いつの間にか、息は少しずつ切れ始め。
 じっとりと額に脂汗が浮かぶ。
 極めつけ、とばかりに。
 西原は手を滑らせ、カクテルグラスが落ちた。衝撃で、一瞬にして粉々に砕け散る様を虚ろに開いた目で見て、必死に止めようとした。そしてもう遅いことに気付く。
 幸い、グラスの割れる音は店内に流れているBGMと客の声に掻き消され、そんなに人目が集まることはなかった。
 すぐに西原は調理室の脇にある用具入れに向かおうとしたが、永沢に止められる。
「……何? 片付けなきゃいけねーんだけど」
 なるべく平常を装って言ったつもりだったのだが、しっかり見抜かれていた。
「何、じゃねぇって。お前、顔真っ青だぞ」
 具合でも悪いのか、と永沢は西原をそのまま奥のスタッフルームまで引っ張っていき、途中、スタッフの一人に割れたグラスを片付けるように頼んだ。
 プールのロッカー室のような細長いスタッフルームのほぼ中心に置かれている長いソファに、西原は倒れこむように腰を下ろした。
 全身が、熱い。  炎で焼かれているような感覚だった。
 永沢はオーナーが用意しているスタッフの需要品が入った共同ロッカーから、清潔なタオルを取り出して西原に放る。
 そして一度スタッフルームを出ると水の入ったコップを持ってまた戻ってきた。
「飲めるか」
 西原の前でしゃがむと、顔色を窺うように覗き込みながらコップを手渡す。西原はクールダウンさせるために、渡された水を一気に飲み干した。
 それでも、簡単に熱は冷めてくれない。
「具合悪いなら、最初っから休めっての。今日は帰れ。俺から言っといてやるから」
 風邪の菌が飲食物や周りの人間に飛んだら迷惑だし、と永沢は見当違いなことを言う。それを訂正する気にもなれず、ただ西原は無言で頷くだけだった。
 ただ自分自身が突きつけた現実に。
 無意味に打ちひしがれていることを、笑うことも出来ない。
 そうと決まったわけではない、と首を振るだけの力もなく。
 声にして言うだけの台詞も浮かばず。
 10キロの重りを幾つもくっつけているのと同じくらい重たくなっていた体を無理矢理ソファから引き剥がし、自分のロッカーの前で着替えることしか出来なかった。



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