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−8−

 何も、することがない。
 出来ることがない、と言ったほうが正しいのだろう。
 もちろん、大学の講義も受けているし、出された課題も期日までにしっかりとこなしている今現在の状況から考えると、傍から見れば矛盾しているのだろうが。
 それでも、西原には自分に対してやれることが何ひとつなかった。
 倉本と中森が二人でいるところを目撃した日から、一週間が過ぎていた。
 何の音沙汰もなければ、これといって変わったこともなく。日々が淡々と過ぎていくだけの生活が続いている。
『あの時』、一時的ではあるが発熱もした。が次の日にはすっかり治っていて、今ではその名残もない。
 倉本はもちろん、中森からも連絡はない。二人が西原の存在に気付かなかったという何よりの証拠だろう。もしくは、西原が気付いてないと思っているだけで、わかっていながら黙っているか、だ。
 気になることは山ほどある。
 が、そんな野暮なことをするような無神経さは持ち合わせていないし、西原はただ事実として受け入れなければならない。
 変わった、と言えばその辺のことだけで、言ってみれば西原には何の関係もない。ただ自分の知り合い同士が付き合い始めたというだけの話で、普段どおりに生活していればそれでいいのだ。
 何も、変わる必要はない。
 それ以外のこと――つまり過去の話――で気になることがあるのなら、単純に訊けばいい。
 それでも、未だに西原は中森へ連絡することを躊躇っていた。
 話せば、倉本とのことを訊かずにいられる自信がないというのもある。
 何を口走ってしまうか、全くわからない。
 もし、傷つけてしまうようなことを言ってしまったら。唯一無二の親友を失うことになるかもしれない。
 男が原因で親友と離れる、なんていう女の腐ったようなドロドロとした関係は真っ平御免である。
 それ以前に、倉本とは一緒にコーヒーを飲んで話したりするだけの知り合いで、横から口を挟む理由も権利もない。
 そうと判っているのに、言いようのない不快感は募っていく。
 例え自分をダシにして仲良くなろうが、結果は結果なのだ。まぁ、それだけのために倉本が西原に近づいたのだとすれば、失望を通り越して、恨みたくもなるが。
 人の恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られて死んじまえ、なんていう格言もあることだし。
 納得しなければ、どうにもならないことだというのは確かだ。
(納得……したつもり、なんだけど)
 それでも、しこりが取り除けないのは、やはりどこか受け入れられないのだろう。
 どうして、そんな単純なことが出来ないのか。
 それさえ越えられれば、他のことも一気に消化出来るのだから、さっさと受け入れてしまえばいいのに、と。
 自身に無理強いしていても、どうしても駄目なのだ。
 そんなわけで、最近の西原は絶不調の真っ只中にいた。
 講義の内容は何一つ頭に入らずに右から左へスルーしていき、ノートはシャーペンの点描が形成しつつあるだけで、黒板の文字は最初の題しか書かれていない。
(一番の問題は、俺自身その理由がわからないところにあると思う)
 冷静に現状を分析して、二重の意味で溜め息を吐く。
「いったい、いくつ幸せが逃げてってんだろ」
 普段の西原なら、絶対にしないであろうぼやきも、ポロリと洩れる始末で。
 そんなむなしい呟きは、講義の終了とともに立ち込めたざわめきによって掻き消された。
 すると、タイミングを見計らったように携帯のバイブが鳴る。西原はノートと筆記用具をトートバッグの中に入れながら画面を見て固まった。
 表示されていたのは「倉本」。
(なんつータイミングで……。最悪だよ、アンタ)
 西原がここ数日悩んでいるのは誰のせいでもなく西原自身が考えすぎているだけだが、それでも事の発端のうちの一人が今このタイミングで連絡してくることに、何か含みがあるのではないかと疑り深くなってしまう。
 何も知らなければ……何も見ていなければ、素直に久しぶりの連絡を喜べたのに、と。
 西原は一度咳をしてから通話ボタンを押し、なるべく普段どおりに話しかけた。
「―――久しぶりですね」
 多少の声の震えは、この際無視をして。
 早く用件だけを簡潔に述べてください、という言葉を飲み込んで。
 西原は倉本の第一声に全神経を集中させた。
『ああ、久しぶり。最近、木村さんの所に来てないんだってな。木村さんも、元気でやってるか心配してたぞ』
 身構えることもない、ただの定期連絡のような内容も、西原は一つ一つの言葉をゆっくりと咀嚼していく。自分に対する含みや、倉本の感情を読み取ろうとしたが、結局それも叶わなかった。
 ただ、低い、包容力のある声。
 無条件に、その落ち着きのある声に癒され、安堵する。ささくれ立った気持ちさえ溶かされてしまうほどの深みのあるその声を。
 自分だけに向けられているという嬉しさが、ひたひたと西原の心を埋めていくようだった。
 その感情に思考を遮られ、まともに考えることが出来ないのだ。
「いたって元気にやってますよ。ただ同窓会とか、レポートの期日に追われて、中々時間が取れなくて。倉本さんは、製作の方順調ですか?」
『おぉ。ひと段落ついた。―――あと少しだけど、ちょっとぎりぎりになりそうだ』
「そうなんですか……次の個展、日付と場所教えてくださいね。見に行きますから」
 本音を言えば、今の状況だと個展どころか、まともに倉本の顔を見られるかどうかさえ怪しい。木村の店に行かなかったのも、倉本と鉢合わせたくなかったというのが理由の一つに加わっている。
 バイトも、なるべく裏方の仕事を手伝い、カウンターには出ないようにしていた。
 倉本本人は気付いていないが、西原は少しだが確実に倉本を避け始めていたのだ。
『べつにいい。国外でやるから、そんな暇ねぇだろ。気持ちだけで十分』
 ついつい、『べつにいい』だの『気持ちだけで十分』だのという適当さを感じさせる言葉に反応してしまう。以前なら、何も感じなかったであろう単語一つに対しても、無意識のうちに「含み」を探ってしまうのだ。
 中森がいるのに、いいんですか? と。
 思わず脳裏に浮かんだ言葉を、寸でのところで飲み込む。
「ところで、今日はどうかしたんですか? 俺、これからすぐ次の講義なんで、長話は出来ないんですけど」
 西原は自分の声が思いのほか焦っていることに驚く。せっかく連絡をくれたのだから、もっとぎりぎりまで話していたいという思いとは裏腹な、取り付く島もないその言葉にも。
 幸いにも倉本はそれが講義に遅れそうで焦っているという意味で取ってくれたらしく、『悪い』と短く謝った後、硬い声で言った。
『今日、夜に……俺のギャラリーに来て欲しい。渡したいものがある』
 トートバッグを肩に掛けて、講堂を移ろうとしていた西原は思わず立ち止まった。
 何を……?
 ―――何故?
 というより。
 西原自身ではなく、西原を経由して中森に、という図式が頭の中で即座に浮かんだからだ。
 忙しくて時間がない倉本の代わりに、中森に渡してもらいたいものをメッセンジャーとして西原に預けるのだとしたら。
 天才画家が、ただの「息抜き仲間」に物を渡すという行為も、納得が出来る。
 同時に倉本と中森の仲も強引に納得せざるを得ない。
 声が硬くなっていたのも、それを快く承知してくれるかという倉本なりの不安の表れなら、尚更だ。
 嫌なら断ればいいのだ。
 自分は宅急便なんかではないし、渡したいなら、直接本人に持っていけばいい、と。忙しくても時間を割いて会いに行くのが恋人ってもんだろ、と。
 断ればいい―――のに。
「……わかりました」
 胸の中で渦巻くドロドロとした感情を押しやって、西原は了承した。
「俺も話したいことがありますし、丁度良かったです」
 話したいことなど、本当にあるのだろうか。
 言ってから、西原は自問してしまうが後の祭りである。
『―――そうか』
 倉本は答え、時間の指定だけして切ってしまった。講義に遅れたら、迷惑になるという配慮なのだろう。
 それとも、またしてもダシに使ってしまうことへの罪悪感からだろうか。倉本がそんなことに罪悪感を覚えるような人間には到底思えないが。
 そこまで考えて、西原は急に叫びたくなった。
 喉が嗄れるまで、ありったけの声で叫び続けたい衝動に駆られた。
 そうすれば、この胸の痛みも、どうしようもない蟠(わだかま)りも、全て捨てられるような気がしたのだ。
 それでも、理性は悲しいくらい現実を見つめていて。もちろん、そんな衝動任せに行動することの出来ない場所にいるということも判っている。
 何一つ、叶わないまま。
 西原はツーツーと電子音の流れるスピーカーを耳に押し当てたまま、唇を噛んだ。
(もう、やめてくれよ……)
 西原の心は、これ以上ないというほど脆く、痛みを受け止め切れない。
 既に倉本の目には、自分を通した中森しか見えてないのだということも。
 唯一見つけられた安らげる場所さえ、もはや自分ひとりのものではなく、いずれ失ってしまうということも。
 何一つ、受け入れて消化することは出来なかった。


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