そこ、どいてくれる? 邪魔。
 何見てんのよ。
 本当にうざいわね。
 あんたなんて、産まなきゃよかった。
 子供なんて大嫌い。
 煩いし、面倒だし、毎日毎日ご飯作ったり掃除したり、私が好きなのはあの人だけなのに、あんたにまでくれてやる愛情はないのに。
 そんな余裕、ないのよ。
 何よ、その目。
 気安く触ってんじゃないわよ。私のことを思うなら、今すぐ消えて。
 早く、あっちに行ってよ!!

 俺の本当の母さんが、俺を……俺自身を見ていないことは知っていた。
 父さんだけを愛したかった母さんは、子供を欲しがっていた父さんのために俺を産んだ。
 だから、母さんは俺に対しての愛情は持っていなかった。最初から、父さんだけを見ていた。
 母さんが、俺を愛すことが出来なかったことも、その頃の俺はなんとなくわかっていた。



-1-


 ハムスターとか、そういう類の小動物は、寂しいと死んでしまうことがあると誰かの本に書いてあった。
 飼ったこともない小動物はともかくとして、俺は寂しそうな女の子を見ていると、たまに死んでしまうのではないかと思うときがある。
 だから、何となく放っておけなくて、つい声をかけてしまう。
 気付いたら、俺はプレイボーイとして、近隣の学校も含め、地味に名前が売れていた。
「拓海ぃ〜ッ!!」
 キンコンカン、放課のチャイムが鳴った途端、俺の名前をはた迷惑な大声で教室の外から呼んだのは、奈津だった。
 俺は眠気に負けないように踏ん張る必要がなくなった目蓋を半目にして、机にだらりと体を乗せながらやる気もなくブーイング。
「うるせー、奈津」
 ここを一体何処だと思ってやがる。
 俺の教室で、担任がいて、クラスメイトも大半が残ってんだぞ。
 恥知らずもいいところだっつの。
「拓海、女の子が可哀想だろ」
 クラスメイトの一人が外野で囃し立てるのを一瞥して「俺の立場はどうなる」と本当に気にしていることを言った。
「立場気にしてちゃ、プレイボーイは務まらないんじゃねぇの?」
 プレイボーイは一般的な感覚を持っていないと思っているらしいそいつに、非常識な部分をも一緒くたにされて不機嫌になる。
「俺はプレイボーイになったつもりはないし、一般人並みの常識と感覚は持ってんだよ」
 勘違いも甚だしいことこの上ないが、俺に関しての話や巷に垂れ流されている噂はあながち間違っているというわけではなく、結局そう言われても仕方ないのだと諦めざるを得ない。
 結局ニヤニヤとしたまま「早く行ってやれ」という言葉にせかされて、教室を出る。
「何だよ、奈津」
「ホントにもう嫌になっちゃうわッ! 順ちゃんと喧嘩になっちゃったのよ!」
 俺だって嫌になるよ。突き刺さる視線が痛くて。
 掃除だ部活だ帰宅だと廊下に出ている他教室の生徒の視線が、何となく俺と奈津に注がれているのがわかったが、奈津がそれを気にするようなたまじゃないことはよく知っていた。
 ついでに、人の迷惑を考えないことも。
 それは去年の半年間付き合っていた頃から変わっていない。変わったといえば、奈津は別の年上の男を捕まえて、俺は恋人から相談相手になったことくらいだ。
 俺は「またかよ……」と頭を掻きながら溜め息をついた。
 奈津が恋人と喧嘩をして俺のところに愚痴りに来るのは、これが一度や二度のことじゃない。
「悪いけど、俺これから理人と一緒に帰るんだよ。あいつ部活オフだから。相談は、帰ってからメールで受け付けとく」
「何ソレーッ、仮にもあんたの元彼女が半泣き状態で場所もわきまえずに喚くくらい傷ついてるってのに、冷たい!」
「本当に傷ついてる奴は、自分で傷ついてるって言わないの。それと、傷ついててもTPOくらいは最低限弁えてくれ。ほら、帰った帰った」
 しっし、と手を振ると、奈津はむぅっと頬をリスのように膨らませた後で、絶対よ、と捨て台詞を吐いてから廊下を走り去っていった。
 付き合っていた頃よりも、傍迷惑さがパワーアップしてきてるように思えるのは、絶対気のせいじゃないだろうな。
 きっと相手が甘やかしているに違いない。それをむしろ幸せだと思え。
 出会った第一印象が「おとなしい子」なんて、今じゃ考えるだけでも恥ずかしい判断だ。アレのどこをどう見たら、「おとなしい」なんて形容詞が出てくるのか、昔の俺には本当に見る目がなかったとつくづく思う。
 俺は奈津のパワフルなわりに小柄な背を見つめて、少しだけ過去の回想に浸った後、何事もなかったように気を取り直して教室の中へ戻った。
 紺のスクールバックに最低限持ち帰らなきゃいけないものを詰め込んでいると、また誰かに呼ばれて、振り返る。
 そこには携帯を片手に微妙な顔をした理人が立っていた。
 俺より少し背が低く、髪が伸びたせいで制服を着ていても女と見間違えそうな顔は、気の強さを表すかのような目尻の上がった目元によって引き締まった面立ちに仕上がっていた。
「さっき宮村からメールが来てさ……」
 奈津のことをからかわないのは、おそらくそんなことなど気にしていられないような事情が出来たに違いない。
 「宮村」という単語が出てきた時点で、それは容易に予想できた。
 黙っていれば年上の女性からモテモテなのになぁと常々思っていたその顔が、気まずそうにというよりは、気恥ずかしそうに歪められ、まるで初めての行為に沸き起こる羞恥に耐える処女のような表情になって、理人は目を逸らした。
 その仕草で、俺はどんな内容のメールが着たのか、すぐにピンと来てにやりと笑う。
「んで、今夜もデートですってか?」
「……らしいです」
 マジあいつ勝手なんだよな。人の都合なんて無視して、自分の予定が空いた時にそういうの入れるんだ、と悪態を吐くわりに、結構満更でもないようだった。
「言うほど嫌ってわけでもないくせに。素直になったらどうだよ?」
「無理。絶対無理。あいつの前で素直になったら、即行やられる」
 何をどう「やられる」のか、別に訊かなくてもわかる。でも理人がその意味深な言葉を普通に使うようになったのも、やっぱり恋愛効果なんだろうな。
「お前も色々大変だな」
「そう思うなら、デート行かなくて済む方法考えろ」
「俺、この年で死にたくないから遠慮しとく。だから頑張れ。いいじゃん、毎回高級ホテルのスイートなんだろ? 普通の学生じゃ味わえないような贅沢だぞ。それを棒に振るなんて罰当たりもいいところ。愛されるってのは結構幸せなもんよ?」
「…………っ」
 愛、という言葉に理人は過剰に反応する。なんと初々しいんだと、思わずにはいられない。
 放課後のお泊りデートに、こいつの周りだけ雰囲気がふんわり桃色。下手したら侵食されるってくらい、分厚い雲のように漂っている。
 あぁ、俺は色んな意味でお前のことが眩しい。
「んじゃ、今日は俺一人で屋敷?」
「ってことになりそう。あいつが車出してくるらしいから。拓海は長谷川さんと一緒に屋敷で夕飯食べればいいって」
「了解」
 火照った頬を隠すように、ありもしない目やにをとる仕草をしながら、じゃあ行くわ、と急ぎ足に理人は教室から出て行った。
 俺はその背中を黙って見送って、それからぽりぽりと頬を掻いた。
 あんな初心な反応をいちいちする癖に、この教室の誰よりも……プレイボーイと言われても仕方ないと思えるほどには経験豊富な俺でさえ敵わないと思えるくらい、やることはやっちゃってるんだよなぁ。聞いているこっちが恥ずかしくなる。
 俺は理人と違って、恥ずかしくても表情を消すくらいのことは動作もないから、きっと理人は俺が単にからかっているだけとしか思っていない。
 まったく、惚気も大概にしてくれよな。
「さて、俺も行かないとな」
 独りごちて、荷物を詰め終わったバッグを肩にかけ、適当に挨拶をしながら教室を出ようとすると、よく喋るクラスメイトにまた呼び止められた。
「何」
「お前ってさー、前から思ってたけど、東と一緒にいても大丈夫なのかよ」
「何で」
「だってあいつさ、何か夏休み入る前くらいから、変な人っつーかもうバリマジ『ヤクザ』って連中と付き合ってるじゃん。今だってたまに黒塗りのベンツで学校の近くまで来てるの見るしさ」
「……むしろそっちの方がよっぽど安全なんだけどな」
「え?」
「いや、こっちの話。誰と付き合っていようが、理人は理人だろ。いい加減、そうやって遠巻きにコソコソすんのやめろよ。あいつの気持ちも考えてやれ」
 そりゃそうだけど……と口ごもるクラスメイトに、じゃあな、と手を振った。一応笑顔にしたつもりだが、絶対不機嫌になっていたと思う。
 高校に入ってからの友達である東理人が、今になって周囲から遠巻きにされているのは、過保護な恋人のせいでもあった。
 何をどうしたらそんな結果になるのかは俺にもよくわからないが、梅雨も明けぬ初夏のある朝、校門の前で、俺と実の兄に向かった理人は、突然「ヤクザの恋人になった」と言った。
 冗談でも何でもなく本当のことなのだと、言うなり理人は呆然としている俺たちを尻目に、陸上で鍛えられた足でもって華麗なスタートダッシュを決めて、逃げた。
 後日家族にどう話し、どういう結論が出たのか、これも俺は他人なのであまりよく知らないが、それでも理人が恋人である宮村ジンの住む屋敷の離れに移り住んでいるところをみると、とりあえずは丸く収まったのだろう。
 しかも宮村は、つい一ヶ月ほど前に襲名して正式な組長となった。二十九歳で組長って若くないか、と思ったがその辺の事情も俺にはわからない。ただ、理人が本来組の中で「姐」という立場にいることから、学校への送迎も当たり前のようになっていた。
 毎回のように「スモークガラスの黒ベンツ、運転手は黒スーツの長身の男」とくれば、怪しまない人間はいないだろう。さらにその男の顔が下手なモデルよりもよほど整っているというのだから、奇妙としか言いようがない。
 高校の制服もまったくもってミスマッチなものだから、違和感もバリバリ。だけどそれは理人の望むと望まざるとに関わらず、習慣化していた。
 俺からすれば、至れり尽くせりで愛されてるっていうのが目に見えてわかるから、口の中がむず痒くなるような光景にしか思えない。
 だが。
 それは事情を知っている俺だからそう思えるというだけで、何も知らない一般市民はただただ遠巻きにそれを見ては、ヒソヒソと噂話に余念がない。
 そうされる側の苦労も知らずに。
 まぁ俺がその状況を憂いても、結局当人たちの問題だから意味はないんだけどな。
 廊下の突き当たりにきたところで、俺は手前にあった窓を立ち止まってちらりと覗く。
 ここは三階で、街路樹の少ない学校裏の外の道もよく見える。野球部が使うグランド部分の高いフェンスの向こうに隠れるようにひっそりと、黒い車がゆっくり止まったのが見えた。
 遠目からでも、その運転が優雅でそつがないことがわかる。
「やっば、もう来た」
 待たせたらまずいと、俺はその車を見つけた時点で呟き、次の瞬間には昇降口へ小走りになって急いだ。
 運転にも人の性格は出る。理人の恋人は、あんな風に運転はしない。普通だが少々無茶な運転をする。
 日常の風景に溶け込めない嫌に目立つ車を、丁寧にその場に滑り込ませるような運転の仕方に、誰が運転してきたのかがすぐにわかった。
 スニーカーに踵を入れるのももどかしく、バタンと下駄箱を勢いよく閉めて、急いで学校の周りを半周する。
 残暑の日差しを学校の敷地内ギリギリに植えられた桜の葉の影でしのいで走っても、やっぱり汗は滲んだ。
 窓から確認した場所の一歩手前で一度立ち止まって息をつき、汗を拭ってから車の前に来た。
 それと同時に、学校裏というある意味健全な場所には不釣合いなほどに優美で妖艶な雰囲気を醸し出す黒塗りの車体がドアの開閉で揺れた。
「お帰りなさい」
「……どうも」
 軽く見上げなければならい場所からかけられた声は、多分その辺の保育園の保育士と同じ響きを持っていると思う。
 くもり一つなく磨かれた高級車の傍らに現れた黒スーツの男の柔和な微笑みにつられて笑う。けど、これ以上ないというくらい見た目と職業が合わない人間はいない、と毎度のことながら考えてしまい、微妙に頬が引き攣った。
「理人さんは、先ほど坊ちゃんと一緒に出かけられました。……急がせてしまって、申し訳ありません」
「や、別にいいし。……すごいね、長谷川さん。俺が走ってきたことわかったんだ?」
「少し顔が赤かったので。見たところ、気分が悪いようではなさそうですし、それに、踵を踏んだままスニーカーを履いて学校裏までのんびり歩く人もいないでしょう」
「……すげ」
 俺は感心しながらスニーカーに踵を押し込んだ。
 この人の洞察力は探偵か刑事か、と思うくらい鋭い。
 百九十近い身長に広い肩幅、立っているだけでも思わず引いてしまうくらいの存在感がある体躯、荒削りされた風貌は、立派にその筋のお方。
 でもその見た目とは裏腹に、浮かべる表情は常に柔和な笑顔。虫一匹殺せないようなお人好しな表情をするし、細かいところによく気付く人で、言葉遣いも所作も全てにおいて丁寧で礼儀正しく、かつ無駄がない。
 長谷川さんには悪いけど、思わず首を傾げたくなるほど、不自然。
 今時普通の人だって、こんなに礼儀正しくないと思う。言葉遣いが礼儀正しい人や運転の仕方が上手な人はたくさんいるが、長谷川さんはもっと違う次元の人間だ。何から何まで完璧すぎる。
 何でこの人ヤクザやってるんだろう。
 前に理人も同じようなことを言っていた。俺もその言葉には頷ける。
「……拓海さん?」
 怪訝な顔をして俺を見ている長谷川さんにハッとなる。既に後部座席のドアが開けられていた。
「あ、ごめん」
 俺が座り心地の良いシートに腰を下ろすと、長谷川さんは俺が手を伸ばす前にドアを閉めて、運転席に乗り込んだ。
 俺は普段こんな送迎はしてもらっていない。だから普通に車に乗るときと同じように自分でドアを閉めようとするのに、長谷川さんはそうする暇を与えない。
「ドアくらい自分で閉めるのに。開けるのも、しなくていいよ」
 静かなエンジン音を響かせてウインカーを点滅させた長谷川さんに言うと、「それも客人に対する礼儀ですのでお気になさらず」とバックミラー越しにまた笑みを向けられた。
 そうされると、一々断るのも逆に悪い気がして、何も言えなくなる。……もしかして、長谷川さんの最強の武器ってこの善人の微笑みだったりするのか。
 だったら余計に、接客業や小中学校の教師とか、もう保育士くらいにでもなった方がよっぽど似合ってると思うんだけどなぁ。
 でも何となく、それは長谷川さんに対して失礼な気がして言ったことはない。言ったことはないが長谷川さんと顔をあわせる度に思っている。
 長谷川さんがヤクザらしいところなんて、いまいち想像できなくて、笑いかけたところで、それは不謹慎だと自分自身を戒めたために、口元が変な具合に歪む。
 気を紛らわせようと、暗い青紫のシートが貼られた窓の向こうを流れるあまりに平和で平凡な景色に目をやって、それから背凭れに深く沈みこんだ。


This continues in the next time.
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