-2-


 俺が「理人の友人」というだけでなく、「宮村家の客人」として扱われるようになったのは、夏休みに入ってからすぐのこと。
 俺の父親はいわゆる経営者で、創立して十年にも満たない中小企業の社長をしている。
 経営にはやはり先立つものが要る。俺は父親の経営している会社には興味がなくてあまりわからないが、他の会社から融資を受けていたらしい。
 しかし融資の契約の更新の際、再融資を条件に、融資先の会社の社長である里見が、理人を攫う手伝いをするように、突然俺に持ちかけてきた。
 会社に興味はなくても、築数年の真新しくて広いアパートに一人暮らしさせてもらえているのは、親の苦労があったからだってことはそれなりにわかっていたし、融資がないと困ることになるってことも、何となく理解した。
 もちろん最初は疑ったが、契約書や過去の調査書なんかを次々と目の前に出されて、信じざるをえなくなった。
 もっと頭が良かったら、何か別の良い解決策があったかもしれない。
 けど、病み上がりの上にいきなり親の経営する会社の命運を握らされて、俺にはどうすることもできなくて。
 夏休み、外泊許可が貰えない、と俺のアパートに逃げ込んだ理人に睡眠薬を飲ませて眠らせた後、里見に引き渡して、俺は理人を裏切った。
 でも理人は、俺は悪くない、と許してくれた。
 理人は事情を酌んでそれで許したが、宮村にとっては、恋人を奪われる寸前だったわけで、事情を知っていようと簡単に許すわけにはいかなかったと思う。
 射殺されそうな視線で「次はないと思え」と言われたときは、本当に寿命が縮む思いだった。
 長谷川さんの運転でアパートに戻ってから、俺はひたすら罪悪感と、里見の部下に襲われそうになったことが頭の中で渦巻いて眠れなかった。
 寝不足のまま昼を過ぎ、とりあえず何か食べようとキッチンに立ったところで、宮村から電話がかかってきた。
 「残りの夏休みを宮村の家で過ごしてもらう」と有無を言わせぬ口調で告げられ、俺はとる物もとりあえず、旅行カバンを一杯にして数時間前に乗ったものと同じ車に乗せられて宮村家に連れて行かれた。
 それは理人にとっての俺が、簡単に見捨てられるような存在でないこと、つまり色々と面倒な立場におかれているために、また同じようなことが起こらないとは限らない、ということで、宮村の家で保護という名目の下、軟禁状態にして監視するためだった。
 自分のしたことがそうされても仕方がないくらいのことだったと自覚していた俺は、むしろ望んでそれを受け入れた。
 親には「夏休みだから」という理由で、強引に長期外泊の許可をとりつけたため、あまり面倒なことにはならずに、宮村の家の離れに部屋を貸してもらった。
 本当は理人の部屋だったらしいが、宮村の部屋に移ることになった、と二日目の朝食の席でよれよれの理人が力なく言った。
 よれよれの理由は、まぁ……容易に推し量れた。
 それ以降、夏休みは組の人間が一緒の時以外は外出許可は下りなかったが、外に出なくても生活に必要なものは大体揃っていたお陰で、不自由なく夏休みを過ごすことが出来た。
 だが、新学期が始まると今度は親から自分の家に戻るようにと言われてしまい、さすがに日常生活の場にするわけにもいかず、週に三日、宮村の家に寄って夕飯を食べて帰るという条件で、今はアパートから学校に通っている。
 そして理人の部活がない日は理人と、そうでない日は俺一人で迎えに来る車に乗って、平日二日と休日の一日は宮村の家に夕飯をご馳走してもらっているというわけだ。
 監視と言っても、当初のような警戒心なんかは全くなくて、俺も夕飯を自分で作る手間が省けるし、アパートに一人でいるよりみんなでご飯を食べたり、たまにゲームをしたりして過ごす方が楽しかったから、それで納得していた。
 宮村家の中で一番世話になっているのは、ほとんど迎えに来てもらっている長谷川さんだと思う。
 夕飯を食べて、喋ったり遊んだりしているうちに十時とか十二時前になって、アパートまで送ってくれるのも長谷川さんだ。
 そんなのは下っ端にやらせればいいのに、と夏休みの間に結構仲良くなった組の人の名前を挙げたりもしたが、結局それは変わらないままだ。
 でも考えてみれば、見た目がいかにもガラの悪い(実際は全然そんなことはない)組員よりも、長谷川さんが送ってくれた方が、アパートの他の住人に見られたりしても妙な噂が流れる心配はない。
 この前なんて、アパートの大家さんに送ってもらったところを目撃されたとき、「お金持ちのお友達でもいるのかい? 今の人、背筋真っ直ぐで、育ちもよさそうだったけど」と驚かれてしまったくらいだ。
 お金持ちってところは否定しない。それ以外は全くの誤解だが、それくらいしか体のいい言い訳はなかったため、そのままにしている。
 近所で噂が広まるのは本当に早い。が、悪いように思われていないのが幸いして、一時期は根掘り葉掘り訊かれたものの、一週間近く経つと、ゴミ集積所で徒党を組んでたむろっている野良猫たちに関心が移っていって、今は何の音沙汰もない。
 でも、だから余計に、変。
 いくら見た目が優しい大男で、きっと幼稚園児におんぶに抱っこと強請られるほど人気がありそうだと思っていても、裏社会に生きる者のさだめっていうのは、陰日向に関係なくついてくるわけで。
 でもそれで長谷川さんに俺が同情しないのは、たった数ヶ月の付き合いだけで十分にわかるほど、組の人間からの信頼があると知っているからだ。
 ……昔もこんな人だったのかな、長谷川さんって。
 ぼんやりと思いながら、何となく訊けずにいると、見覚えのある住宅街に入り、すぐに目的地にたどり着いた。
 家の周りを歩いて一周するのに何分かかるだろうな、と考えてしまうほどの敷地面積の、いかにもそれらしい純日本家屋の大邸宅は、都内の住宅地にひっそり紛れ込みつつ、しかし堂々と居を構えていた。
 学校の正門ほどに大きく、どっしりとした重厚な木製の表門を通り過ぎ、屋敷の周りを半周して車庫に直通している裏門から中に入る。
 そうすると、丁度表門から死角になる、離れと母屋を結ぶ渡り廊下の裏に来て、俺はそこで一旦降りた。
 開け放たれたシャッターの奥、四、五台はゆうに停められる広い車庫の一番端に長谷川さんはバックで入って、迷いなくハンドルを切ると、一度でぴたりと丁度いい場所に停めた。
 華麗な運転テクニックをいつも通りしっかりと堪能した後で、長谷川さんの後ろについて、母屋の渡り廊下の手前にある裏戸口から中へ入る。
 中は適温に設定された空調がよく効いていて、涼しいと感じた空気もすぐに馴染んだ。
 廊下は庭に面しているが、ガラス張りになっているため外には出られないものの、秋の訪れを感じさせる紅葉の赤く燃えるような色の葉が風に揺れて、高校生の俺が見ても思わず感嘆の息を洩らすほどに風流漂う和風庭園だった。
 これがヤクザの家じゃなかったら、茶道や華道の家元の屋敷だな。
 二日前に来たばかりなのに、また景色が大分変わってることに驚きつつ、長谷川さんが廊下の真ん中あたりで曲がったのに気付いて、慌てて広い背中を目で追った。
 宮村と長谷川さんが屋敷の中で仕事をする部屋の前を通り過ぎ、突き当たりにある茶室の手前の和室に案内された。
 夏休みの間はご飯以外ほとんど離れの方にいたが、学校が始まって、夕飯をご馳走になりに通う俺は、普段身内の者だけで食事をとる比較的広めの和室に通されることになった。
 昼白色の蛍光灯で照らし出された室内に誰もおらず、掛け時計は五時を指していて、夕飯までには一時間近くあることを告げていた。
「少し時間があるので、飲み物と間食を出すように厨房に頼みましょうか。何か希望はありますか?」
 長谷川さんは、俺が時間を気にしたことに気付いたらしく、夕飯の時の人数分に合わせて座布団を食卓の周りに敷きながら訊いてきた。
「じゃあ飲み物は抹茶。おやつはどら焼きがいい。普通にその辺のスーパーで売ってるようなもので全然いいから」
 最初のうちは恐れ多くて、たとえ夕飯までに時間が有り余っていても、そんなことは口に出来なかったが、訊かれていることには素直に応じれば良いし、誰も悪いとは思わない、と長谷川さんに言われてからは、大分宮村家の住人や組の人たちに対して意思表示が出来るようになった。
 最後に市販モノでいいと断ったのは、そうしておかないと、厨房で元料亭の板前だった料理長が、本格派の創作菓子や取り寄せものの葉で飲み物を淹れたりするためだ。
 いくら小腹が空いていても、そこまでしてもらうほどじゃないし、俺一人のためにそんな豪華なものを作ってもらうのは何より罪悪感を芽生えさせられて、正直心苦しすぎる。
 初めて何を食べたいかをはっきり伝えたときには、出来立てほやほやのワッフルと絞り機で抽出されたばかりの100%グレープフルーツジュースが出てきた。わざわざ厨房から出てきた料理長が数種類のソースを持ってきてくれたりして、本当に俺一人に申し訳ないとひたすら平謝りをしながら口にしたワッフルは、美味しいと思うのに味がしなかった。
 以来、市販モノでいい、と断るのを忘れない。
 あくまで庶民派発言の俺に、長谷川さんは「料理長は好きで作っているのですから、気にしなくても大丈夫ですよ」と笑う。
「いいのっ! せっかくの夕飯前に、それだけでお腹一杯になるのがもったいないだけっ」
 思わず強い口調になった俺は、そこまで意地を張る必要なんてなかったと気付くが、時遅し。
 長谷川さんは珍しく、ぷっと小さく吹き出して、丁寧に座布団の曲がりを直して立ち上がると「わかりました」と言ってから厨房へ行ってしまった。
 残された俺は、一人顔が熱くなるのを感じてごしごしと頬を両手で擦った。
 多分、長谷川さんは俺の言ったとおり、厨房の棚から市販(それでも一個五百円はするような高級なもの)のどら焼きを出すように指示をする。
 あんまり優しすぎて、逆にこっちのペースを意識せずに乱すから、長谷川さんには本当に敵わない。
 照れくさいやら恥ずかしいやら、腹の辺りに妙なくすぐったさを感じ、高校生になってまでそんな風にされてしまうのが何となくムカついて、少し乱暴にバッグを壁際に投げ出した。
 一番近い座布団に胡坐をかいて座ると、ものの数分もしないうちに長谷川さんが戻ってきた。
 その手には、見た目に似合わない木製のお盆が載っていて、白い皿の上に美味しそうなどら焼きが三つも盛られていた。
「料理長が、『抹茶はいつも点ててお出しするもの』と、既製品は常備していないそうです。なので、あと五分ほどお待ち下さい」
「……りょーかい」
 その抹茶がグラムいくらで売られているものなのか、スーパー以外でお茶を買った経験すらない俺には見当もつかない。ただ、こんな広々とした家の本格的な厨房で、元料亭の板前が百グラム二百円くらいの真空パック茶葉を使うはずはないよなぁということだけはわかった。
 そして、今更「冷蔵庫にあるものでいいや」とも言えなかった。
 お陰で、ここに来るたびに舌が肥えていく。
 というか、こんな頻繁に訪ねてくるだけのたかだか十七歳のガキに、そんな豪華なもん出す必要なんてどこにもないんじゃない?
 どんだけ無駄遣いしてんだよって話だ。
「……どうかしましたか」
 目の前のどら焼きに手をつけることもなく、ジッと見つめながら考えていた俺を、長谷川さんは背中を曲げて覗き込んできた。
「……何でもない」
 言ったところで、結局庶民の意見は金持ちには通用しない。
 ヤクザも変わらないもんだと思う。
 だから俺は、いくらでも湧いて出てくる疑問を心中にとどめて、美味しそうな色をしたどら焼きに手を伸ばした。
 俺の横で、長谷川さんが声を出さずに笑ったのがわかった。
 絶対、この人俺が何考えてるのかわかってるな……。
 甘すぎず、口当たりの良いつぶあんと、ほんのりあまい生地が口の中でふわふわと踊るのに、何故か「美味い」と言えなかった。
 何故か、というか。
 単に、真横でそれを見られることが……まるで親に見られているような感じで、何となく嫌だった。
 向けられる笑顔は、いつも柔和で、これ以上ないというほど優しげだ。
 それをどうしようもなく意識してしまう。
 もそもそとどら焼きを頬張っている俺を、何故か長谷川さんは暇つぶしのように観察している。
 気になってちらっとでも目を向けると、膝の上にお盆を抱えながら正座をしている長谷川さんと必ず目が合って、その度ににっこりと微笑まれる。一体これは何の罰ゲームだ。
「は、長谷川さんも、食べれば?」
 黙っている方が何となく嫌になって適当に話を振ると、「甘いものは苦手なので」とやんわり断られた。
 そこでせっかくの会話も終わり。一緒に食べれば「つぶあん美味くない?」とか言えるのに。
 何かないかと探して視線を泳がせていても、全く関係のないことしか浮かばなかった。その中でレポートを書くのに本を買いに行かなければならないことを思い出した俺は「今日八時半に出たい。レポート書くのに必要な本買いに行きたいから」と残りを口に放り込んで言った。
「ええ、いいですよ」
 それを面倒だというように眉を顰めることもなく、長谷川さんはすぐに小さく頷いた。
 保育士のような、小学校の先生のような、親のような、でも実は組長の秘書みたいな仕事をしている、結構高い地位のやーさん。
 それなのに、俺みたいな高校生の相手もする。態度も全くそれらしくなくて。
 そして俺はそれ以外の長谷川さんを知らない。
 だから人一倍、違和感を覚えるんだと思う。
 ……やっぱり、色んな意味で、奇妙だ。


This continues in the next time.
*ご意見・ご感想など*

≪BACK    NEXT≫


≪MENU≫