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 携帯がポケットの中で小刻みに揺れて、俺はふと目を覚ました。
 場所は電車の中。でも向かっているのは自宅の最寄り駅、というわけではない。
 突然の着信に意味もなく左右をちらりと見て、とりあえず近くには誰も座っていないことに妙に安堵してから二つ折りの携帯を開いた。
 理人だと思ったが、メールボックスを確認すると長谷川さんからだった。
『今日は少し遅くなりそうです。理人さんにも同じ内容のものを送りましたが、一応確認をしておいて下さい』
 今頃部活動の真っ最中の理人は、おそらくまだそのメールを読んではいないだろう。
 理人の部活が終わるのはだいたい六時半から七時の間。いつも長谷川さんは六時半に学校裏で待っているらしいが、体育会系の部活動の終了時間というものは一々変動して正確な終了時間というもの自体あまり存在しない。だからいつも、長谷川さんを待たせる羽目になっていた。
 少しくらい遅れたって別にいいのに、と思いながらも、返信をしないでポケットに携帯を押し込んだ。理人にはタイミングを見計らって後で電話をかければいい。
 大きく息をついたとき、眉間にかなり皺が寄っていることに気付いて人差し指の腹でこねくり回した。
 何か言えよと思うのに、長谷川さんはいちいち冷静で、きわめて事務的なこと以外で連絡を取ることはしない。
 そんなことでイライラしている自分を自覚すると、ますます奈津の言っていることが真実味を帯びてくるから嫌になる。以前は長谷川さんから連絡なんてほとんどなかったし、それが変わることも変わる必要もない。だからこれは普通のことだ。
 何も言わないということは、少なくとも長谷川さんは何かを言う必要性を感じていないことになる。
 それだけのことだ。
 そう、ただ、それだけのこと。
 頭を冷やすとはこのことなのか、結局のところ長谷川さんにとって自分はどういう存在なのかと考えてみると、上司の命令で世話をしているだけのガキであって、上司の命令を最優先する一番良い方法だと判断したというのなら、今回のことは俺の単なる自意識過剰に過ぎない。
 奈津と話してから今まで、ずっと考えて気が付いた。俺は自分中心にしか物事を考えていなかったことに。或いは、自分の考えていることこそが事実だと信じて、他の可能性を何かと理屈っぽく否定していたことに。
 剛さんにあんなタイミングで言われたから動揺しただけで、長谷川さんが何も言わないのだって、むやみやたらに過去を明かすのが嫌なだけだったとしたら。そんなことをしなくても、何も言わなければそのうち俺がその答えに行き着いて、また元に戻ると考えているとしたら……。
 まったく、くだらないことだった。
 それは違う、そう言った長谷川さんの言葉を否定する権利なんて俺にはなかったはずなのに。
 奈津の言う通りだ。俺一人で考え込んでいるからわからないのであって、ちゃんと話をすればおのずと真実はわかる。簡単なことだ。
 それから逃げていたのは、傷つくことを恐れていた俺自身だ。
 それをわかっていても、何も言わない長谷川さんに対してイライラしてしまう理由は一体何なのか。そこまでいくと、もはや別問題な気がして考えるのをやめた。
 馬鹿馬鹿しいと自嘲気味に口元を歪めて、目的の駅に着いた電車から降りる。
 そこは初めて降りた駅だったが、携帯を使って探し出した地図を頼りにロータリーから続く大通り沿いに数分歩いていくと、見覚えのある場所にたどり着く。
 一人では行かないようにと忠告されていたが、実際この前のようなことが起きるというのはきわめて稀だ。見渡せば定時上がりらしいサラリーマンやOL、俺みたいな高校生や中学生、塾通いの小学生までその辺を歩いている。要するにカモにされるような歩き方とか格好をしなければいい話だ。
 先週来たばかりの大型書店は、初めて見たときと変わらぬ印象でそこに建っていた。ショウウィンドウに飾られた今月号の雑誌や文芸書の新刊も寸分たがわぬ位置に置かれ、洋服を着せられたマネキンと同じように柔らかな証明に照らされている。
 アレは来月になったら、ライトの日焼けでおそらく売り物にならなくなって捨てられるんだろうな。
 そんなことを思いながら店内に入り、案内板を見ることなく上階へ上がる。目的の本棚にはぱらぱらと人がいたが、雑誌やマンガのコーナーほどではなかった。
 前はたしかこのあたりだった…と、同じような顔をして並ぶ新書の棚を見ていくと、読んだこともないのに見覚えのある著者の名前があった。
 今回のテーマは無難に地球温暖化にしたが、その本は題名からして全く関係のない経済書のようなもの。はてどうしてだろうと思ったとき、それが長谷川さんが薦めてくれた著者だったことを思い出した。
 そういえば、前もこの辺に来たとき、長谷川さんが手に取っていたのは、この本だったかもしれない。
 無意識のうちに手を伸ばして、そしてふと自分の右隣を見る。そこには誰もいない。
 この本を手にとっても何の意味もない。誰も何かを言ってくれることはない。
 何かを無意識のうちに求め、求めたものがそこにないことに、言いようのない悲しさがこみ上げてきた。
 理由はよくわからなかったが、とにかく何か満たされないものに寂しさを感じた。本の背表紙にかけた手をゆっくり下ろして、その手を見つめた。
 何でいきなり、寂しいとか思うんだ。
 誰もいないのは当たり前だ。
 頭を二、三度振ってから、俺は本来の目的を果たすために、今立っている場所から見える範囲全てに目を走らせ、少しでも関連のありそうなものを手当たり次第に引っ張り出し始めた。
 子一時間後、目次のページやその冒頭を斜め読みし、レポートに必要なことが書かれていそうな本を三冊ほど選んで買った。
 今回はさすがにカバンにも入る量で、これならカモにされることもない。
 書店を出ると、外はすでに暗くなっていて、携帯に表示された時間は、自主練を含めても理人の部活が終わっている時間帯だった。
 今から学校へ行くよりは、一度家に帰って着替えてから宮村家に行く方が良い気がして、その旨を伝えるために宮村家の方に電話を入れた。
 今電話しても、きっと長谷川さんは運転中だろうし、自分から話しかけるにはまだ少し勇気が足りなかった。
 電話帳から呼び出すと、ツーコールで電話は繋がった。
『はい、こちら宮村』
 電話口から聞き覚えのある声を聞いて、それがいつもの電話番と違うことに気付く。
「大林拓海ですけど。今日は電話番、玄さんなんだ?」
 すると電話の向こうにいる玄さんは、金子は他の連中とシノギに出ていて、今はほとんど本家にいないことを教えてくれた。
『どうした。長谷川さんは、野暮用から戻って、ついさっきおめぇを迎えに行ったぜ?』
 鷹揚で勢いのある少し大きめの声は、少し心配そうなトーンに変わった。
「長谷川さんにってわけでもないんだけど、今俺学校にいなくて……。必要なものがあって遠くの本屋に行ってたからさ。……今から一度帰って、着替えてからそのまま家に行くからってことを伝えたかっただけなんだ」
 今電話しても、運転中は出られないから、帰ってきたらそう伝えて欲しい、と玄さんに頼むと、快く承知してくれた。
『気、つけろな。まぁやたらめったらカモにされることもねぇだろうがな』
「それ、玄さんも知ってんの?」
『金子が訊きもしてねぇのに、一人でべらべら喋んのを聞いてただけだ』
 あいつ酒が入ると妙に饒舌になっちまうから、変なことは言わない方がいい、と少し小さめの声でひそひそと玄さんは話した。……さっきほとんど本家にはいないって言ってなかったか?
 こういう話って誰もいなくても自然と声が小さくなるものなのか。
 色んな意味で苦笑しながらも、今度からはちゃんと気をつけようと思ったことは言わないで流した。
『それはそうとおめぇ、最近長谷川さんの送り迎えを無視してるよな? それだけじゃねぇ、自分からあえて避けてんだろ』
 ギクッ。
 まだ二回目だろ、と思うのに、しっかり玄さんにはバレていた。
「そうかな。俺別に普通にしてるんだけど」
『とぼけんな。あれだけ懐いていた相手に対して何時間も喋らねぇなんて、何かあったとしか思えねぇだろぉがよ。金子でさえ、様子が変だって言ってるくらいだぜ?』
「…………」
 気付かれないようにしていたのに、やはり不審には思われていたらしい。
 詰めの甘い自分に呆れつつ、今は長谷川さん以外とその話をするつもりがなかった俺は、適当に誤魔化すことにした。
「金子さんも玄さんも、考えすぎ。送り迎えは無視したわけじゃなくて、たまたま寄りたいところがあって、付き合わせるのは悪いと思ったからだし、喋らなかったのも単に虫の居所が悪かっただけで、長谷川さんに甘えてる部分があったから、喋ったら八つ当たりしそうだと思ってただけ」
 すらすらとでまかせが出てくる口とは裏腹に、背中は冷やりとしていた。
 正直、玄さんに嘘をつくのは勇気がいる。バレた時が物凄く恐そうだからだ。
 それでも一応、『ふーん』と納得してくれた。
『まぁ、俺には関係ないことだがな。……それで、こっちには何時くらいに着ける』
「八時前くらい。急げばもっと早いけど、電車の時間にもよる」
『わかった。厨房に伝えておく。時間厳守だからな』
 メシ不味くしたら承知しねぇぞ、と笑いを含みながら言って、玄さんは電話を切った。
 俺は俺で、その言葉にもたもたしていられないと、駅まで小走りで戻り、発車寸前の電車に何とか飛び込んだ。
 今しがた俺を無情に締め出そうとしていたドアに凭れて息を静かに整えていると、また携帯が震えた。
 今度は理人からだった。
『今どこ? もう俺長谷川さんのとこ行くぞ』
 あ、電話入れんの忘れてた。
 すっかり忘れていたことを思い出し、すぐに家に寄ってから一人で行くことと、それを長谷川さんにも伝言しておいて欲しいと返信した。送ってから、同じことを玄さんに伝えるように頼んだことを思い出したが、あまり気にしないことにした。
 数分後、また理人からメールが来た。
『了解。……最近、お前一人で行くこと多いけど、長谷川さんと何かあった? 明らか避けてるだろ』
 またそれか。
 俺はそれに『別に何もない』とだけ送り返した。
 違う人間から、体調不良以外で同じ心配をされるなんて。
 何だか、色んなところで俺の外面がぺりぺり剥がれていっているような気がした。
 特に宮村家と……長谷川さんに関わるようになってから。
 奈津や理人はともかく、玄さんや普段そういうことには気付かなそうな金子さんにまで、長谷川さんとのことを心配される。
 以前なら、こんなことはなかったはずだ。
 何かが、自分の中で変わってきている。
 一体何だ?
 そしてまた、屋上にいたときに感じたあの妙な感覚がよぎった。それの正体も原因もわからない。
 どうせまた来るな、と予想していた理人からのメールを無視して、俺は電車の中でずっとその「何か」を考え続けた。電車を降りそびれそうになるほどに。


This continues in the next time.
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