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 慌てて電車から降り、いつもの見慣れた駅前で携帯を取り出して時間を確認しながら歩き始めた。
 俺の住んでいるアパートは駅から比較的近い場所にある。徒歩十分もかからない。
 今は……七時過ぎだから、ゆっくり歩いていたら、間に合わないかもしれない。
 玄さんの言葉もあって、俺は携帯をポケットにしまいながら少しずつ早足になる。
 だがその歩みも、走り出そうとした瞬間、唐突に止まってしまった。
 信号待ちなどではない。
 目の前に、見覚えのある男が立っていた。
 どこかで……と思い出そうとしたその時、首の後ろでガツッと鈍い音がして、俺の視界はぐらりと歪む。
 体の力が抜け、前のめりにその場に倒れそうになるのを、寸でのところで腕をコンクリートの上についた。
「―――ッ、は………っ」
 食らった打撃はよほどの衝撃だったらしく、何とか呼吸を繰り返して落ち着けようとしても、目に映ったものは霞んでいた。
「ほぉ、今ので気を失わないとはな」
 俺の頭上から、笑いを含んだ重低音の声が降ってきた。
 何とか立ち上がろうと腕に力を込めながら、目の前に立つ男の足元を見たとき、一時的に朦朧としていた頭の中で、相手が誰なのかをはっきりと認識した。
 こいつ、この前の慰謝料詐欺男だ……。
 後頭部に走る痛みに顔を歪めながら、ふらふらと立ち上がると、間髪を入れずに後ろから何かを背中に突きつけられた。
 頭を押さえて後ろを見る。おそらく今俺を殴ってくれた、いかにもヤクザです、という人相の男が「死にたくなければ、大人しくついてきてもらおう」と早口に言った。背中に突きつけた、黒光りする拳銃をちらつかせて。
 視線をちらりと下に落としてそれを確認し、もう一度正面に向き直る。
「ちょいとそこのビル裏まで、付き合ってもらうぜ」
 言われて、男が踵を返す時に、目だけを動かして周囲を見渡した。
 俺の周りには今目の前にいる男と、後ろで物騒なものを突きつける男以外はいなかった。道路を挟んで反対側はこっちの道よりまばらに人通りがある。住宅地から通勤通学の人ごみができるこのロータリーは、駅前広場から車道脇に道が続いている。通勤ラッシュと帰宅ラッシュ、両方とも今立っている側の道は住宅地と反対側にあるためか比較的空いていて、いつもこちら側を通っていたが、定時帰りの帰宅ラッシュがひと段落した今の時間、人通りが少ないことが逆にあだになったらしい。
 ここで大声を上げれば、すぐに反対側を歩く人が気づくはずだ。だが相手は銃を持っていて、どうやらどっきりでもなさそうな様子。
 今は素直に従っておいた方がよいと判断し、俺は数メートル前を歩く男に、後ろからせかされながらついていった。
 まったく、今時こんな仁侠映画みたいなことがあってたまるかよ……。
 そうは思っても、今俺に起きている非常事態は電車の中で転寝しながら見ている夢ではなく、首の後ろの痛みも本物なら、背中に突きつけられた銃口の硬さまでもが現実だった。
 というか、あれだけ痛いの食らったら、普通に起きるよな。
 よく暗転しないで意識を保っていられた、と自分で感心しながらついていった先は、駅前の通りから離れたところにある、テナント募集の広告が貼り出されたビル脇の狭い路地だった。
 よくまぁ、こんな典型的な場所を見つけて指定してきたもんだ。程よく寂れているし、薄汚れも目立っていて、裏社会を演じる舞台にはこれ以上最適な場所もないだろうな。
 そんなことを思っていると、男は路地の中間あたりで立ち止まった。それに合わせて立ち止まると、いきなり後ろから突き飛ばされ、今度こそ俺は灰色の地面に体を叩きつける羽目になった。
 その勢いで、ポケットの中から携帯が飛び出す。
 無意識に転がった携帯に手を伸ばすと、届かないうちに革靴の底で手の甲を踏まれた。
 しかも踵でぐりぐりと、だ。
「――――ぃつッ」
 痛覚が手への刺激を正確に受け取ってくれたおかげで、ようやく俺の中にいかにこの状況がやばいのかという実感が湧いてきた。湧いてきたところで、そんな感覚は何の役にも立ちゃしない。
 俺の手を容赦なく踏みつけるSM女王さながらの凶悪な足の持ち主を見上げる。痛みと苛つきとで、かなりメンチを切っている自覚はあった。
 少なくとも俺は相手方に対して何もしたつもりはないし、この前の件では理不尽な要求を嫌々ながらも(長谷川さんが)呑んだはずだ。
 とはいえ、何の目的もなく、ただの憂さ晴らしやリンチの標的にするには、俺の今の立場を考えると他の人間よりも些かややこしいことになる。……こいつらが今の俺の立場を理解しているかどうかという話は別として。
 まさか身代金目的の誘拐ってわけじゃないよな? ヤクザって、そういう風に表立って派手な犯罪はしないイメージがあるし。でも可能性は否定できない。どういうわけか俺の親父は経営者、所謂社長というやつだった。
 だからといって、俺は生まれてこのかた、誘拐事件に巻き込まれたことなど一度もなかった。
 ……つーかいい加減、足どけろよ。携帯は諦めるからさ。
 そう思っていると、手を踏みつけていた男はイルカのストラップがついただけの俺の携帯を拾い上げて、やっと手を解放してくれた。
 男が携帯を拾い上げる際に屈んだせいで、みしみしと骨がなるほどの圧力を受けた手は、革靴の底で踏みにじられたこともあって見事に皮膚が切れ、血が滲んでいた。
 ってーな、このクソッ。
 もしこれが一般人にやられたのであれば、そう言っていた。だが俺はいつの間にか柄の悪い複数の男に囲まれていて、最初の一息すら出せずに、ひくりと喉を引き攣らせただけだった。
 うーわー……、マジかよ。
 状況的には、明らかに不利。というか、有利不利とかいう前に何故こんな状況になっているかという理由がわからないから、理不尽と言った方がいいかもしれない。
 ただここで弱気になっても仕方ないのは何となくわかった。だから少しばかり気丈に振舞うことにした。
「何だよいきなり。この前の奴だってことはわかる。だけど俺はあんたたちに対して何もしてないだろ!」
 すると人の携帯を閉じたり開いたりしながら、リーダーらしい男は「まったくその通り、お前は何もしていない」と言った。
「じゃあ、一体何なんだよ」
「お前には、ちょいと人を呼んでもらいてぇんだ。大人しく言うことを聞いてくれれば、無傷で返してやる」
 無傷って、今この手に滲んでいる血は一体なんだ。
 心の中だけで突っ込んで、俺はとりあえず、男の言うとおり人を呼べば何事もなく返してもらえるのだとわかって、それなら話は早いと思ったが、相手がヤクザだと思い出した瞬間に胃がきりきりと痛み出した。
 そうだよ、俺の知り合いでこの人が呼び出して欲しそうな人といえば、明らかに宮村家の人間じゃねぇか。
 理人のこともあって、宮村家とそこに関係している人や物に関しては、なるべくややこしいことにしたくなかった。
 果てしなく0%に近いとわかっていながらも、一縷の望みにかけて「誰を呼べばいい?」と訊ねる。
 男は「ちょろいな」とでも言うように薄く笑って、その名前を口にした。
「長谷川藤次。この前一緒にいたろう? 俺はその男に用がある。昔の『礼』をしたくてな」
 その礼って、どの「礼」ですかね。
 凶悪そうな笑みから察するに「お辞儀して、ありがとうございました」ってわけじゃなさそうだ。
 おそらく礼は礼でも、お礼参りと同じニュアンスなんだろうな。
 誰がそんなこと……と言い返しそうになって、はたとなる。俺がもし抵抗すれば、この周りにいる怖いオッサン達が実力行使に出ることは既に予告されているじゃないか。「大人しく言うことを聞いてくれれば……」っていうのは、そういう意味だ。
 いつもの調子で、立て篭もり犯との交渉で時間稼ぎなり何なりをするネゴシエーターのように長々と手間を取らせたとしても、ここは人気のない通りに建つビルの脇、しかも誰かが俺を助けに来てくれるわけじゃない。
 ―――素直に、言うこと聞いておけばよかった。
 今になって俺は長谷川さんの忠告の意味がわかって後悔した。しかし事態は後悔先に立たず。
「さて、俺たちもこんなところでガキといつまでも遊んでいられるほど暇じゃねぇ。とっとと連絡取ってもらおうか」
 今しがた俺から取り上げた携帯のストラップ部分をつまみ、ぷらぷらと本体をちらつかせてくる。
「……何で、長谷川さんなんだよ」
 すぐには結論が出せなかった。そして保身のために躊躇う自分が情けないと思いながらも、もしかしたら……と意味もなく希望ばかりを抱いて俺は訊ねた。
「あぁ? 礼だって言ったろぉが。お前が生まれたか生まれてねぇかくれぇの……十七年前の話だ、話したってわからねぇだろうよ」
 そんなに昔のことならそうかもしれないが、顔は明らかに「何でお前にそんなこと話さなきゃなんねぇ」だ。年齢は俺の制服と見た目から判断したのだろう。
 俺が生まれる前の話……ということは、長谷川さんが宮村家に来る前の話だ。そして少なくとも、どこかの組の人間だった頃の……。
 十七年前、と聞いて何かが引っかかった。
 そしてすぐ、長谷川さんが内部抗争で妻と子供を亡くした時期だということに気付いた。
 ということは、きっとその内部抗争のことと何か関係しているんだ。
 今でも古参の組員に「鬼」と畏怖されている長谷川さんは、味方なら尊敬に値するようなすごい人だろうけど、敵側にしてみれば非常に厄介な相手だったはずだ。
 今じゃあんな風に穏やかで優しい人にしか見えない長谷川さんの、いわば「原因となった過去」に結びついている人物。そしてその「礼」をするために、自らではなく俺を使っておびき寄せようとしているのなら、明らかにこの男は「敵側」だ。
 その過去によって、長谷川さんは変わろうと決意した。誰かを故意に傷つけることをやめ、内に潜んだ「鬼」を封じた。愛する者を失ったという過去を背負いながら、今を生きている。
 口を引き結び、今度は意志を持って男を睨み上げた。
 長谷川さんを、ここに来させてはならない。
 自分が痛めつけられるかもしれないという恐怖さえ、その瞬間の俺は忘れていた。それほどに、長谷川さんを……今の長谷川さんを「守りたい」と思う気持ちは強かった。


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