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「―――かよ」
「あ?」
「誰が呼ぶかっつってんだよ。用があるんならテメェで行きやがれ、卑怯者」
 自分が何を言っているのか、十分わかっていた。途端に男の顔から笑みが消える。
「ほぉ。この状況でそんな口が叩けるとはな。その根性は褒めてやる。だが、賢い選択じゃねぇな」
「賢くなくて結構。俺は元々バカだからな、っ」
 な、の部分で突然脇腹に衝撃が走った。
 すぐ脇にいた別の男が俺の腹を思いっきり蹴り上げたせいで、俺は仰向けに引っくり返されてしまった。
 衝撃の後に来た激痛に喘ぎながら、激しく咳き込む。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞガキ。テメェは黙って言うこと聞きゃいいんだっ」
 さらにそんな言葉をふっかけながら、周りに控えていた男は、身体のいたるところを蹴り上げ、シャツの襟を掴んで俺を立たせると、その瞬間に頬を殴打してくれた。
 数分後、先ほどと同じようにアスファルトに伏した俺は、痛みで全身から力が抜け、満足に身体が動かせないくらい痛めつけられていた。
 手の甲どころか口の端からも血が滲み、シャツや制服のズボンはクリーニングに出さなきゃ着られないほど汚れていた。衣服の下はきっと内出血だらけで目も当てられない状況になっているだろう。
 それでも俺は、長谷川さんを呼ばなかった。
 俺が痛めつけられるのを、まるでショーを見るかのように傍観していた男は、仕方ないとばかりに俺の携帯を勝手に操作して、電話帳から長谷川さんの番号を呼び出した。
 俺の携帯を我が物顔で耳に当てる男の手元を見ながら、どうせ今頃運転中だから出るはずがないと、高を括る。
 しかし俺の予想は外れた。
 何と言って長谷川さんが応答したのかはわからない。ただ男が「残念ながらこの携帯の持ち主じゃねぇよ」と話し出したのを聞いて、唇を噛んだ。
 二言三言、静かに男は話し、そして唐突に俺に向き直ると、屈んで携帯のマイクの部分を近付けてきた。
「薄情な長谷川は、お前が人質に取られていることを信じていないらしい。声でも聞かせてやれ」
 これも予想の範囲内、という顔で、男は何でもいいから俺に喋れと言う。
 男の言うことが本当――いや、こんな状況でまどろっこしいだけの嘘をつくとは考えられないからおそらく本当のことなんだろう――であれば、つまり俺が何も言わなければ、長谷川さんはただの悪戯電話だと思ってくれるということだ。
 俺の携帯が発信源でも、誰かが俺から盗んだり、何かの拍子に落としたものを使われたと考えれば、十分に筋は通る。
 それは俺にとって都合が良かった。大した抵抗もできず、早々にぼろぼろにされてしまった俺でも、一言も洩らさないといういたって簡単なことをするだけで、長谷川さんはここにやって来ないのだ。
 俺は何も喋るものかと噛んだ唇をそのままに、向けられた携帯のマイクから顔を背けた。
「まだ足りねぇようだな」
 そんな言葉が聞こえてきたと思ったら、またもや俺は罵声とともに蹴りを食らう。背中ならまだ耐えられたが、二、三度脇腹の同じ位置を蹴り上げられたとき、かつてないほどの激痛が走り、思わず携帯に向かって呻き声を上げた。
「ぅあ…ぐ……ッ」
 それでもすぐに歯を噛み締めて、精一杯声を出さないようにした。
『……拓海、さん?』
「…………ッ」
 半信半疑という様子で長谷川さんが問いかけてきた。スピーカーからその声を聞いて、今の呻きで感づいてしまったのかと、俺は目を瞠る。
 ―――あぁ、この人、人一倍洞察力が鋭かったんだっけ。
 観察力もあるなら、僅かな音声だけで相手が誰なのか見当をつけるのも容易なんて。
 今の俺では、この人に隠し事などできはしないのだと思い知る。
 だったら、こっちも正々堂々と抵抗しようと思った。
 どうせもう、今ので信じ始めている長谷川さんがこのままやり過ごしたとして何もせずに片付けるとは思えなかった。
『拓海さん?』
 今度ははっきりと問いかけてきた長谷川さんに向かって、唯一できる「抵抗」を口にした。
 ……いや。
「絶対に―――」
 これはきっと俺の願いだ。
 「俺」が、長谷川さんをこの過去に関わって欲しくないんだ。
 長谷川さんがここへ来て、俺を見たら、絶対にあの人は自分のせいで俺がぼろぼろになったのだと思い込む。
 長谷川さんは何も悪くないと、誰が言ってもだ。
 あの人はきっと、今も辛い思いをしている。だからこれ以上、傷を増やさないように。
 俺の存在のために、傷を深くしないように。
 どんなに自分自身が傷つくことになるのかを知っていながら、俺はそれをもう恐れることはしなかった。
 俺が今、できうる最大限のことをして、今を生きる長谷川さんを守りたいと思った。
 どんなに痛めつけられても浮かぶことすらなかった涙が、何故か滲んできた。
 こんな時なのに、胸の辺りが締め付けられるような感覚に襲われる。
「絶対、ここに来んなよ」
 あんたは、この世界を抜け出そうと決意したんだ。
 それを俺みたいな存在のために、揺らがせちゃいけない。
 痛みを訴える腕を無視しながら上体を持ち上げ、十分な声量を出すための体勢をとる。
 俺のせいで思い悩むあんたなんて、もう見たくないんだよ。……知りたくもないんだ。
 だから、頼むから。
「何言われても、あんたはここに来んな……!」
 少し大きめの声を出したためか、全身に散らばる傷に響き、俺はその痛みに耐え切れずに再びその場に伏せる格好になる。
 携帯の向こう側で、静かに、でも確かに息を呑む微かな音が聞こえた。
「…んなよ……ッ」
 駄目押しに発した言葉は、聞こえてはいないだろう。男が満足した様子で携帯を取り上げた後だったからだ。
 そんな俺を馬鹿馬鹿しいとでも言うように低く笑いながら、男は真隣に建つビルの名前を言い、早く来ないと俺の命の保証はないとまで言って一方的に電話を切った。
 だから、俺一人の命なんてどうでもいいんだよ。
 あの人は、俺なんかよりもっと大事な命を失っているんだから。
 その考えにまた一人勝手に傷ついていることを滑稽に思いつつ、ひたすら長谷川さんがこの場に来ないことを祈った。
 たとえ俺の監視が上司の命令だとしても、ここには来ちゃいけない。
 今まで長谷川さんが宮村組で築いてきたものが台無しになってしまう、そんな気がした。
「……俺みたいなガキ一人のために、長谷川さんが来ると、本当にそう思ってるわけ?」
 痛みに歪みそうになる顔に笑みを貼り付けて、精一杯虚勢を張る。
「この俺に、本当にその価値があると思ってんの? はっ、どんだけお気楽なんだよ」
 鼻で笑ってやると、脇で逆上した奴がまた俺に蹴りを入れようとした。しかしそれを男がわざわざ止め、俺と視線を合わすようにしゃがみこんできた。
「あぁ、あいつは来るさ。……俺が何も知らねぇまま、おめぇを人質にしたとでも思ってんのか」
「その根拠って何? 言っとくけど、俺はあの人の血縁でもなければ、恋人でも親友でも何でもない。上の命令で世話を焼くように言われているただのガキだぜ?」
「ただのガキってこたぁねぇだろうよ、お坊ちゃん。おめぇんとこの親父が会社の社長だってことも調査済みだ。たとえここで長谷川が来なくても、身代金要求するなり、薬漬けにしてオークションに出すなり、何かしらこちら側に利益があるわけだ」
 俺の身元はしっかりバレていたらしい。最初の予想も近からず遠からずの答えで、結局俺を帰す気はなかったんだということを思い知るが、それももう今更な気がして、そこまでショックではなかった。
「それに、長谷川の死んだガキと名前も年も同じで、あの男が何の情も湧かさないなんてあるか。何せ、抗争でガキと女を亡くしたくれぇでケツまくって宮村なんて所帯だけでけぇ臆病者の集団に逃げ込むんだからなぁ」
 まるで、人が死んでいくのなんて当たり前というように男は言った。
 続けられた言葉の何もかもに、俺は目を瞠る。
 長谷川さんの過去を知っているどころじゃない。平気で宮村組までもを侮辱してくる男の神経が信じられなかった。
「臆病、者……?」
「そうさ。無駄な争いは好まねぇとか何とかほざいてるが、実際は命張れねぇ奴らの溜まり場に過ぎねぇよ。あんな甘っちょろい神経してよ、面倒な利害関係なんてなけりゃぁ、今すぐにでもぶっ潰しに行ってやるってのに」
 虫唾が走る、と人も殺せそうなほど凶悪な表情を浮かべたその男に、考える間もなく俺は唾を吐いていた。
 人を傷つけることと、命を張ることは全くの別物だ。
 同じだけのリスクを背負うのだから、男の考えでは一緒くたなのかもしれないが、少なくとも長谷川さんはそうじゃない。
 本当は、あの人は誰よりも強い。目の前にいる無神経な人間が貶していい人じゃない。
「あんたみたいな考え方してるような奴には、一生わからないよ。長谷川さんが、どんなに辛い思いをしてきたのかなんて、人を傷つけることに何も思わないあんたらに、わかるわけが―――」
 顔面に飛んできた足を咄嗟に腕で防いだが、それでも衝撃は直に伝わってきた。
 腕を外すと、今度は背中に、痛みと共に圧力がかかるのがわかった。
「わかりたくもねぇな。そろそろその減らず口、閉じておいた方が身のためだぜ? クソガキ」
「………っ」
 肺が圧迫されて、口を閉じるまでもなく、言葉を紡ぐどころか呼吸さえ困難な状況に追いやられた。
「奇麗事ばかりほざいてんじゃねぇよ。……お前ら、ここで長谷川が来るの待っとけ。俺は先に事務所に戻る。長谷川が来るまでコイツは適当に可愛がってやれ。十五分しても来なかったら、コイツを連れて戻って来い」
 俺から足を離すと、男は周囲の部下に命令した。その表情が途中、妙に下卑たものに見えたのは、おそらく気のせいというわけではないだろう。何をして「可愛がる」のか、それこそわかりたくもなかった。
 男が立ち去ると、力なくコンクリートの地面にうつ伏せになっていた俺を、ずらりと部下の男たちが取り囲んだ。
 その中の一人が、へらへらと笑いながらさっきの男と同じようにしゃがみこむと、俺の顎を掴んで持ち上げる。
 目にかかるくらいの長さの前髪を真ん中分けにして左右に流した、三十代くらいの男の品定めをするような目つきに、生理的な嫌悪感を覚えた。
「へぇ。男のわりに、綺麗な顔してんじゃねぇの。こりゃ、オークションでも結構な値がつくだろうな。さしずめ、金持ちお坊ちゃんの没落ってとこか?」
「下手なAVの見すぎなんじゃねぇの? ……俺は同性に抱かれる趣味なんてねぇよ」
 嫌な予感はやはり的中した。この場合、俺の性癖なんてのは特に配慮されるような問題ではないことも理解はしていたが、言わずにはいられない。
「心配すんなよ。その時が来たら、せめてもの慈悲で薬漬けにしてやる。売られる時にゃ、相手が男か女かなんて気にならないくらいにはキマってるだろうからな」
 そんな話をしているんじゃないとわかっていながら、相変わらずへらへら笑いながら言うのに、周りも何が可笑しいのか笑っている。
「あまり傷だらけにすると価値が下がるからなぁ。刈谷さんの言うとおりにするんなら、リンチするよりもコッチの方で―――」
 そう言いながら、前分け髪の男は顎を持ち上げていた手をすっと背中に這わせ、最終的に臀部に持ってきて強く掴んだ。
「可愛がってやろうか。十五分なら、余裕で輪姦(まわ)せるだろうしな。オイ、誰かやりてぇ奴いるか」
 もはや突っ込みどころを探すなんて余裕もなく、貞操の危機に顔が自然と強張った。
 逃げようと思って上体を起こそうとしても、集中的に蹴られた脇腹のあたりに走る激痛のために、起き上がることすらままならない。
 その上、周囲にいる五、六人ものヤクザ相手に渡り合える要素なんて端からどこにもない。完全に八方塞の状態だった。
「っ、めろ……、触んな……ッ」
 そうは言ってもろくに腕を振るうこともできない俺は、うつ伏せの状態からすてんと引っ繰り返されて、簡単に着ていたシャツを裂かれた。
 誰かがヒュウ、と口笛を吹いて煽る。
 十五分の間に俺ができることは何もない。
 無力感に襲われながらも、俺はただ、長谷川さんが来ないことだけを祈っていた。


This continues in the next time.
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