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 男が外気に曝されてすーすーする上半身をそのままに、今度は下の方を剥ぎにかかった。足をばたつかせようにも、別々の人間に両足を押さえつけられているためそれも叶わない。
 ベルトが緩められ、動かせない両脚からするりとズボンが抜き取られる。さすがの俺もここまでくると羞恥心が嫌がおうにも湧いてきて、顔面が熱くなってくるのを感じた。
「足もいい感じじゃねぇか。体毛薄いほうのが見苦しくねぇしな」
 俺はお前らと違ってそういうとこにも気ぃ遣ってるだけだっつーの。
 身体を這い回り始めた手の感触に猛烈な嫌悪感を覚えながら、口には出さずに睨む。それが逆効果だったかどうかは知らないが、目が合った男は、それをも楽しむかのようににやりと気持ちの悪い笑みを浮かべただけだった。
 助けて、と思いそうになるのを俺は必死でこらえていた。誰が今こんな状況になっている俺を助けられる? 誰がここに来るんだ? 『誰も来ないこと』を望んでいる俺が、助けを求めるのは愚考以外の何物でもない。
 自分の母親や親友さえ守れなかった俺が、守りたいと思う相手さえも傷つけてしまう俺が、助けてもらおうなんて考えることすらおこがましい。
 今度こそ、誰も傷つけたくないから。
 俺は犠牲になると決めたんじゃないのか。
 逃げないと決めたんじゃないのか。
 ざわざわと全身を巡る不快感に小さく震える身体のうちで俺は自身に言い聞かせた。
 唇を強く噛み、目の前の現実から逃げるように目を閉じる。直後に、男の手が下着にかかるのがわかった。
 その時。
「そいつに、触るな」
 醜猥な雰囲気が漂うその場に、静かな低音が凛と響いた。
 それは知っているはずなのに、どこか、何かが違っていて、誰が来たのかと思わず目を見開く。
 人通りの少ない通りの街灯が僅かに差してくる路地の出口に、誰かが立っている。首を捻ってみるが、押さえつけられた状態で角度も悪かったため、顔が見えなかった。それでも黒いスーツを身に纏った長身の男だということはわかった。
 そんな人、俺は一人しか知らない。
「聞こえなかったか。そいつに触るなと言ったんだ」
 俺の知っている人はそんなぶっきらぼうな言葉を使わない。だが確実にその人を俺は知っていた。
 押しつぶされるような痛みが胸に走った。
 これ以上の行為を強制されることがないという安堵よりも強い、後悔だった。
 何で―――。
「何だ、いいところで来ちまいやがって」
 俺を組み伏せていた男はつまらないとばかりに舌打ちをしながら、その場に立ち上がって長谷川さんの方に歩み寄った。
「俺は言うとおりここへ来た。その子は解放してもらう」
「おっと、そうはいかねぇよ長谷川さん。俺たちは用心深いんでね、刈谷さんのところにあんたを連れて行くまではガキも一緒だ」
 動かない俺を別の男が無理矢理立たせようとした。脇腹あたりに幾度目かの激痛が走り、俺は呻いてまた蹲る。
 痛みが走る部分に手をあてると、少し腫れあがっているような感触だった。それに加えて、他の部分よりも確実に熱を持っている。
「……何をした」
 長谷川さんが鋭い口調になって詰問する。
「何って、人質を黙らせただけさ。あんまりにも聞き分けないもんだからなぁ。言うこと素直に聞いていれば、痛い目見ずに済んだものを……」
 男が振り向いて、俺を馬鹿にしたような目つきで見下ろしたその瞬間、その先にあった黒い二本の足が素早く動いた。
 鈍く小さな、しかしどこか重たい衝撃音とともに、その場に男が倒れこんできた。
「黙れ」
 シンと静まり返ったその場に、またよく通る声だけが響いた。その声音は先ほどよりもより明確に怒りを孕んでいるようにも思えた。
 緊迫した空気が一気に膨らんで、この場にいる全員を包む。
「っテメェ何しやがる……!」
 俺を取り囲むように立っていた屈強な男たちは、敵意どころか殺意をもむき出しにして長谷川さんと対峙する。足元を見ていると長谷川さんに向き直るように全員が動いたのが何となくわかった。
 腹を押さえながらどうにか現状を把握しようとして頭だけを持ち上げると、一筋縄ではいかないような男たちに囲まれていても、長谷川さんは怯むどころか更にその表情を険しいものにさせて、自然体で構えたところだった。
「人の大事なもんを傷つけやがって。……どうなってもいいってくらいの覚悟は出来てんだろうな」
 優しさや穏やかさとはそれこそ無縁のようなそれに、俺は一種の恐怖を覚える。
 そして恐怖を抱きつつも、「大事なもの」という言葉に、不謹慎とわかっていながら、この上ないほどの「悦び」とそれに付随する「期待」に高鳴る鼓動が恨めしかった。
 長谷川さんは、間違いなく人を殴ったのだ。
 二十年も使わないでいた拳を、俺のために振るった。
 俺のせいで、長谷川さんは自らに課した戒めを、築き上げた穏やかな日常を無に還してしまった。
 そして今も、さらにその拳で人を殴らなければならない状況になっている。
 やめてくれ、とは言えなかった。
 今言ったら、きっと本当にやめてしまうと思ったから。素直に言うことに従い、刈谷と呼ばれていた男の元へ連れて行かれると思ったからだ。そうなったら、俺も長谷川さんもどうなるかわからない。
 それだけはダメだと、わからないなりに必死で考えていた。今ならまだどうにかなりそうな気がした。
 動かない身体で、いくら策を弄しても意味がないと思いながら、それでも長谷川さんのために何かしたかった。
 そんな俺の思いを知らない長谷川さんは、「うるせぇッ」と一人が殴りかかってきたのを合図に動き出した。
 繰り出された拳を低く姿勢をとってよけ、その鳩尾に拳を深々と打ち込む。その一発で、相手は呆気なくアスファルトの上に倒れこんで動かなくなった。
 触発されて次は二人の男が立て続けに向かってくるのを、またも素早い動きで体をさばき、空振りさせる。もう一人が突き出してきた拳も大きな手のひらで受け止め、相手が悲鳴を上げるほどに強く握りつぶした。空振りした男が後ろから襲い掛かってくるのを、振り返ってビルの壁に叩きつけると、両肩に物凄い速さで手刀を振りおろす。相手の男の肩が衝撃でがくりと落ち、その場に叫び声が上がる。おそらく、両肩の関節が外れたのだろう。
 四人目は懐からナイフを出した。突き出された切っ先が掠めるか掠めないかのタイミングで身を翻してよけると、ナイフを持った手を掴み、力任せに引っ張って腕を強制的に伸ばしたかと思うと、膝で肘辺りを蹴り上げた。骨が折れたような鈍い音がして、またもや野太い悲鳴が上がる。カランとナイフが落ちたときには、死屍累々の惨状ができ上がっていた。
 あまりに動きが速過ぎて、うっかりそれに夢中になっていた俺は、長谷川さんが俺の方を向いたのと同時に、いつの間に起き上がったのか、一番最初に伸されたはずの男に捕まって、またもや強引に立たされた。首に腕を回されたかと思うと、頬に冷たいものが当たり、それがナイフだということに気付くのにそれほど時間はかからなかった。
「う、動くな! 言うとおりにしないとこいつを殺す」
 その言葉は呆れるほど陳腐で、三流映画ですぐにやられる下っ端のようなものだったが、俺が思った以上に効力があったらしく、目の前で長谷川さんは動きを止めた。
「と、まんなよ……ッ」
 立ったせいで走る痛みに顔を歪めながら、怯む長谷川さんを俺は睨んだ。
「何をしているか、わかってんのか」
「それはこっちの台詞だ。よくもやってくれたな……! ただで済むと思うなよ!」
 あーもー耳元でわめくな、煩い。しかもちょっと口におうぞあんた。
 何でこんな奴のちんけな脅しに、さっきまでまさに鬼のごとく暴れていた人が怯まなきゃいけないのかがわからなかった。
 俺なんか二の次にして、とっとと伸せばいいだろ、こんな奴……。
「長谷川さん、動けよ。俺はどうなってもいい。俺は助からなくてもいいから、言うこと聞いてついてっちゃダメだ」
「テメェは黙ってろッ」
 また耳元で怒鳴って、ナイフを突き立ててくる。何かが頬から首筋にかけて滑り落ちていく感触がした。角度が悪かったためか、切っ先が宛がわれた部分から僅かに血が流れ出ているようだ。
 途端、長谷川さんの目が瞠られ、そして身が竦んでしまうほどの鋭い視線が俺の後ろに立ってびびりながらも脅しをかける男に向けられた。
 さっきも怖かったけど、今度は何か別の意味で「キレた」ような印象だった。
 その視線にあてられて後ずさった男つられて俺も二、三歩下がる。長谷川さんは何を思ったのか、おもむろにその場に落ちていたナイフを拾い上げた。
「そ、そこから動くんじゃねぇッ。一歩でも近づいてみろ、こいつの命は―――」
「うだうだうるせぇんだよ、三下が」
 微かに震える男の声を遮って、長谷川さんはその一言で完全に男を黙らせると、男が次の動作を起こす前に、手に持っていたナイフをこっちにめがけて投げた。
 俺の方に向かってくると思って、思わず目を瞑るが、軽い振動が喉元の腕から伝わったかと思うと、腕の力が緩んだ。
 チャンスだと思って男から離れた俺は、その腕に深々とナイフが突き刺さっていたのを確かに見た。
「うぁあ……ッ!」
 声を上げて腕を押さえる男に、長谷川さんは「俺は一歩も動かなかったぜ?」と泣く子も黙るほどの凶悪な笑みを浮かべた。
 そして、呻く男の元へ余裕の足取りで近づくと、うっすら涙すら浮かべて震える身に纏っていたシャツを掴んで持ち上げた。
「どこの組のもんだ」
 首根っこを掴まれて間近で威圧感をもろに受けながら訊ねられた男は、ヤクザのヤの字も見当たらない、情けない声で質問に答える。
「しょ…翔雄会、だ」
「翔雄会……なるほどな」
 長谷川さんは納得したように呟くと、掴んでいたシャツの襟を乱暴に放した。
 腕にナイフが刺さった痛々しい格好のまま、男はその場に座り込んで、痛みと恐怖に顔を歪めている。こっちが目を瞑りたくなるような光景だった。
「俺は逃げも隠れもしない。用があるんなら回りくどいやり方するんじゃねぇ。胸くそ悪くて反吐が出る。……次こんな卑怯な真似しやがったら、お前ら全員、今度こそ息の根止めてやる。覚えとけ」
 未だ怒り冷めやらぬ様子で男を見下ろしながら言った長谷川さんは、まるでその場にはいない刈谷に向かって宣言しているようにも思えた。
 男はそれで参ってしまったのか、長谷川さんが拘束を解いてもその場から一歩も動けないようだった。


This continues in the next time.
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