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 全てが終わり、長谷川さんはようやっと俺に向き直る。その表情は例えるなら仁王像とか金剛力士像とか、「鬼」と呼ばれても不思議ではないほどに険しかった。
 ―――怖い。
 本能的な恐怖を抱いてしまう。助けられた側のはずの俺でさえ、その視線を感じるだけで身が竦みあがるのだから、さっきの男の恐怖は並々ならぬものだったのだろうと容易に想像がつく。
 無言のまま、立つことのできない俺に近づいてきた長谷川さんは、片膝をついて俺の顔を覗き込んできた。
 小刻みに震えていた俺の体を、長谷川さんは包容力のある腕で傷に障らないようにそっと抱きしめてくれた。
 冷たく硬いコンクリートの地面と違って、それは暖かく、優しいものだった。
「申し訳ありませんでした」
 耳元で、穏やかで心地の良い声音がこだまする。いつもの長谷川さんだ、と気付いたら、瞬時に肩の強張りも小刻みな震えもすぐに消えた。
 ……また、謝った。
 どうしてこの人は、そんな必要もないのに誰かの代わりに謝罪するのだろう。
「私の過去の事情にあなたを巻き込むことになってしまった。本当に―――」
「だ、から……それは長谷川さんのせいじゃないだろ……。どーして謝るの」
 自責の念に満ちた言葉を遮って、そんな必要はないのだと伝えると、長谷川さんは抱擁をといて改めて向かい合った。
「長谷川さんは悪くないよ、何も。危害を加えたのはこいつらの方だ。どこにどんな理由があろうと、実質的に俺を傷つけたのは長谷川さんじゃない。だから気にしなくていいよ」
 どうすれば長谷川さんが自身を責めないように説得できるのかがわからなくてとりあえず笑うと、口元が切れていたらしくぴりぴりとした痛みが走って、「ぃ、つつ……」とすぐ変な顔になってしまった。
 長谷川さんは痛みに歪む顔に傷の方が心配になったのか、見せてください、と口元どころか全身をくまなくチェックし始めた。
 衣服はほとんど機能を果たしていなかったし、下に至っては下着以外のものを身に着けていなかったため、標準的な肌色に殴打の痕が数多くついているのがよくわかった。
 一番痛みを発していた脇腹辺りにいたっては色がおかしなことになっていて、長谷川さんはボソリと「あばらがいってる」と低い声で教えてくれた。また暴れるのではないかとハラハラしたが、長谷川さんは理性的に怒りを抑えたようだ。
 あばらがいってる…って、つまり肋骨が折れてるってことか?
 捻挫や打撲以上の内部的な傷を負ったことがない俺には免疫がなく、聞いた瞬間にさっと青ざめる。
「とにかく病院へ急ぎましょう。積もる話は処置が終わってからでもできますから」
 長谷川さんは落ちていた鞄や携帯、ズボンを拾うと、それを腕にかけて持ち、自分で立ち上がろうとした俺を「無理はしないで下さい」と横抱きで軽々と持ち上げてしまった。
 誰も見ていないとは言っても、俗に言う「お姫様抱っこ」には耐え難い羞恥心を覚えた。しかしそれを拒否するには、体の傷は深すぎていた。
「すぐ近くに車が停めてあります。そこまでは我慢してください」
 俺の心情を察したように長谷川さんが言う。
 なら安心か、と思ったが、いやいや俺は今物凄い格好をしているんだと、半裸状態で抱えられている状況に羞恥心どころか一種屈辱的なものを感じざるをえなかった。
 五分程度その格好のままでひとけのない道を行くと、歩道に横付けされる形で停められたいつもの黒ベンツがあった。
 長谷川さんは後部座席のドアを開け、荷物を中に放り投げてから慎重に俺を横たわらせた。
「……理人は」
 すぐさま運転席に座った長谷川さんに訊ねた。理人を家に送っている途中じゃなかったか、と思い出していると、ちゃんと送り届けましたよ、と穏やかに返してくれた。
「電話が入ったのは家に着いた直後でしたので、理人さんはもちろん宮村家の方にいます。そんなことより、今は自身の事を心配した方がいい」
 少し飛ばしますよ、と前置きして、長谷川さんは車を発進させた。
 数十分後、キキッと小さな音を立てて止まった場所は、スモークガラスの内側から覗ける範囲で判断すると、個人邸宅のようにしか見えなかった。
 長谷川さんが車を降りて、その門前でインターホンのようなものを鳴らす。そして二言三言話すと、両開きの門がテーマパークのお化け屋敷のようにゆっくりと開いた。
 長谷川さんは車に戻り、先ほどの法定速度を無視した運転とはうって変わって、静かに車寄せへと進めた。
「これから担架で中に運びますから、落ちないように気をつけてくださいね」
「……さっきのお姫様抱っこよりは暴れずに済みそうだよ」
 心配しているのかからかっているのか判断に迷うところだが、それに一々文句をつける余裕はなく、ぐったりとしながらもとりあえず皮肉だけは忘れなかった。
 ものの数分もしないうちに、誰かが建物から出てきた。長谷川さんが車の横で頭を下げているのがわかって、そしてすぐ、後部座席のドアが開けられた。
「……っ」
 長谷川さんが開けたと思った俺は、見知らぬ男が姿勢を低くして顔を覗き込んできたのに動揺して身じろぐ。そしてまた顔を歪める羽目になった。
「っと悪いな、驚かせて。これから担架で処置室に運ぶから。多少傷に障るかもしれないが、まぁ男だからそれくらい我慢できるだろ」
 無言で頷くと、おそらく長谷川さんと同じくらいの年齢だと思われる男は、ふっと口角だけを吊り上げて、『ちょい悪オヤジ』という単語が似合っていそうな笑みを浮かべた。
 普通の人(俗に言う一般市民)、というわけではなさそうだ。
 というか、こんな夜にあばらを折った上に全身傷だらけの人間を連れてこられて何のリアクションも示さないところを見ると、そういうことに慣れているに違いない。
 男が顔を引っ込めて、担架を取りに行くと言って離れたあと、俺は長谷川さんを呼んで、今の男は何なのか訊ねた。
「彼は宮村家が世話になっている主治医です。一般の病院に運べない事情がある時などは、よく彼に治療の依頼をします」
 後部座席に横たわる俺に、先ほどの男と同じようにドアから上半身だけを覗かせて長谷川さんは答えてくれた。
 普通の病院では身辺警護などにも限度があるし、事情を説明するには些か問題が多すぎる場合が大半であるため、よくここで診てもらうらしい。
 ってことは、所謂闇医者ってやつか? 裏社会御用達で、医師免許は持っていない代わりに法外な額を請求する……。
 俺は一瞬、頭の中で白と黒のコントラストが特徴的な髪色をした、顔の真ん中につぎはぎのある名医を思い浮かべる。
 ……若干違う気もするが、とりあえずそう思っておくことにした。
「あ、と…それでさ……」
 ふと治療費のことを思い出して、どうすればいいのかを訊こうとしたが、男が担架を抱えて戻ってきたので話すタイミングを逃してしまった。
 長谷川さんも男を手伝って担架を組み立てると、俺の体に負担がかからないように慎重に座席から担架の上に移してくれた。
 そしてほぼ半裸状態だった俺は、男に薄手の毛布を上からかけられた。
「持ち上げるぞ。痛くても身じろいだりするなよ。落ちるからな」
 しつこいくらい釘を刺してくる男に、俺は首を縦に振った。
 生まれて初めて担架に乗せられて、俺は建物の中に入った。
 中は洋式のつくりになっているようで、二人は土足のまま奥へと進んだ。
 廊下にはあまり調度品の類はなく、途中の壁に一枚絵が飾られていたくらいだった。
 廊下の一番端に造られたエレベーターに乗って地下一階に下り、一番手前の部屋に入った。
 そこは毛布のない硬そうなベッドが二床あり、そのうちの一つに、俺は担架から移された。どうやらここが処置室らしい。
 それから数時間。
 全身打撲と擦り傷に加え、踏まれた方の手と、折れた骨とは別の肋骨数本にひびが入っていることが判明した俺は、時折情けない声を上げながら処置を受け、全て終わった頃には、首から下がほぼミイラのような状態になってしまった。
「何かあったら、その脇にあるボタン押せ。俺はリビングに戻る」
 ついでに「最低でも一ヶ月は絶対安静」、と処置室から普通の病室に移された俺に宣告して、男は病室から出て行った。せっかくの飯が冷めちまった、という小言から察するに、夕飯中に押しかけてしまったようだ。
 全身消毒液と湿布薬の匂いでプンプンさせながら、ぼんやり今何時だろうと思った。
 とりあえず、八時はとっくに過ぎているだろうということはわかる。玄さんの時間厳守の言葉を思い出して、心の中でゴメンと手を合わせた。
 八時に行くと言って行かなかった俺と血相を変えて飛び出した(んだと思う)長谷川さんに、さすがに宮村家の人間も何か異常を感じているだろうか。
 そういえば何も連絡を入れていない。
 気付いたはいいものの、手の届くところに携帯がなかったため、長谷川さんを呼んだ。
「……せがわさん」
 言いながら長谷川さんを探して上体をできるかぎり持ち上げたが、病室に長谷川さんの姿は見当たらなかった。
 処置室からここに移されるときは、確かに一緒にいたはずなのに……。
 もしかして連絡を入れにいってくれているとか? よく気が付くもんな。
 少し硬めの病人ベッドの上に体を戻して、蛍光灯で照らし出された白い天井を見上げる。
 一番納得できる予想をしたにも拘わらず、俺はすぐに不安を覚えた。
 理由はわからない。
 だけど今、長谷川さんがこの場にいないことに、妙な胸騒ぎを感じていた。
 普段は穏やかで落ち着いていて常に周囲に気を配っている長谷川さんが、あんな風にキレてしまうところを見たせいかもしれない。
 本当に―――鬼のような。
 長谷川さんの鋭い視線に射竦められたときの感覚がぞわぞわと背筋を這い上がってくる感じがして、俺は小さく頭を振った。
 きっと、すぐ戻ってくる。
 病室に入って、宮村家の人間がどんなリアクションをかましたかを教えてくれる。
 けど、長谷川さんはいつまで経っても病室に戻ってくることはなかった。


This continues in the next time.
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