-15- 今日、これから出かけるところがあるの。 拓海はいい子でお留守番しててね。 いつも泣いていたその人は、その日、とても穏やかな笑みを浮かべてそう言った。 思えば不審な点はいくつもあった。 普段はご飯と味噌汁とおかず一品の夕飯が、何故かハンバーグやらスパゲティやらロールキャベツやら、とにかく俺や父さんが好きなおかずがたくさん並んでいたこととか。 父さんが忙しくて帰って来ない日が何日も続いているのに、今日は泣いていないこととか。 出かける時間が夜の十時前だったこととか。 でもその違和感を「単なる違和感」で片付けてしまう程度の思考能力しか持っていなかった俺は、わかった、と言って送り出した。 ……ごめんね拓海、一人にさせて。 その言葉にどんな意味があるのかなんて、もちろん気付くはずもなかった。 決して、あなたのせいじゃないわ。 出かける間際、小さく聞こえた呟きは、一体誰に向けられたものだったのか、今となってはわかりようもない。 目が覚めると、自分の真上にある見慣れない天井に違和感を覚えたが、すぐに昨日あったことを思い出した。 「…………って」 わかっていても習慣がついているため、起きようと思って手を支えに腹に力を入れてしまい、すぐさま骨にひびの入った手と折れた肋骨が悲鳴をあげた。 傷をかばいつつ上体を起こすと、改めて深手を負っていることが現実であると認識できた。考えてみれば、処置をしてもらってからちゃんと体を起こすのは初めてだ。どうりで思うように動かせないわけだ。 いたるところが痛みと包帯やガーゼのごわごわ感で不快感を訴えているが、今の俺にはどうしようもない。何せ一ヶ月は絶対安静なのだから。 他にも、治療費や学校、親へどう説明すればいいのかなどなど、精神的に傷に障りそうな問題が俺の前には山積していた。 ふーっ、と長い息をついて、額に手をあてる。 ……最近よく、母さんが夢に出てくる。 よりにもよって今度は俺が見た最後の姿。……俺が一番嫌いな夢だ。 一番嫌いで、ないがしろにはできないもの。そうしてはいけないもの。 そんなものを見る理由を考えたら、どうしても行き着く答えは一つになる。 またか、と思う。 仕方ない、とも。 幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉が、再び蘇った。 ―――仕方ないだろ、だって俺は、母さんの子供なんだから。 「仕方ないだろ……」 いつもはそれで納得できるのに、今回は強くその言葉を拒む心に、正直参った俺は、伸ばしていた膝をゆっくりと立てて顔をうずめた。 ホント、どうしようもない―――。 そう思ったところで、がちゃりと病室のドアが開く音が聞こえた。 頭を上げると、そこには昨日と変わらない格好で――大きい紙袋を片方の手に提げてはいたが――立っていた。 「……おはよう、長谷川さん」 咄嗟に言葉が思いつかなかった俺は、とりあえず挨拶をした。 長谷川さんは、微笑みながらいつも通り「おはようございます」と返してくれたが、少し疲れているようだった。 中に入ってドアを閉めると、持っていた紙袋を持ち上げて「これ、当面の着替えです」と、ベッド脇にテーブルに立てかけるように下ろした。 「お体の方は大丈夫ですか」 「……全身が痛いってことをのぞけば大丈夫かな」 自分の身を心配してくれた人に対して、我ながら嫌な言い方だな、と思ったが、長谷川さんは「言い方を間違えてしまいましたね」と苦笑するだけだった。 「学校への連絡は既にこちらで済ませておきました。宮村家にも話はしておきましたので、後ほど坊ちゃんがこちらに来るそうです。理人さんは今学校ですので、放課後に見舞いに行くと言っていましたよ」 態度もいつもと何ら変わりはなく、昨日いなくなったのは、俺の着替えとか宮村家への連絡のためだったのか、と内心息をついた。 夕べの不安感は、ただの杞憂だったようだ。 「そっか。色々ごめん。迷惑かけて……」 「とんでもない。元々拓海さんのことは私が面倒を見るようにと言われています。迷惑だなんて思っていません。それに、私の問題に巻き込んでしまったがために、酷い目に遭わせてしまったのですから、これくらいのことはやって当然です」 腰を折って深々と頭を下げる長谷川さんに、いいよいいよ、と手を振りながら、俺はやっぱり駄目だと思った。 この人は強い。それゆえに優しすぎる。 どうしても俺はそれに甘えてしまいたくなる。 それじゃあ、駄目なんだって。 夢を見るのは、きっとそういう意味だ。 「今回の首謀者については、宮村の方から正式に話を通して然るべき処置をとってもらうことになりました。……今後二度とこのようなことが起きないよう、私の方も気をつけますので―――」 「……その必要はないよ」 誠意に満ちた言葉を遮って、諦めの悪い心が躊躇う隙を与えず、なるべく感情的にならないように告げた。 言ってしまってから、「嫌だ」とわめくように胸が痛んだが、そんな我侭を黙らせるように怪我をしていない方の手で強く胸を押さえた。 「何を言っているんですか……?」 わけがわからないと、眉を顰めた長谷川さんにわかるように、もう一度言う。 「何も。ただ、俺の世話なんて焼かなくてもいいって言ったんだ。たとえ宮村さんの言ったことだとしても」 そんなこと言っても長谷川さんを困らせる羽目になるだけだろうと知りながら。 「……何故」 当然のごとく訊ねられたが、今の俺にはよくわからないことだらけで、これだ、ときっぱりすっぱり答えられるものはなかった。 理由が色々ありすぎて、どう言っていいのかわからない。 「それは……色々あるけどさ。とにかく、今後一切、俺に関わらなくていいよ。その方が、お互いにとって良いと思うし」 適当に誤魔化して、何となく「長谷川さんとはもう関わりたくない」っていう意思が伝われば、長谷川さんも「わかりました」と気遣ってくれるだろうと高を括っていた。 しかし、その考えは甘かったようだ。 「色々……ね。そうやって適当に誤魔化しておけば、後は気を遣ってくれるだろうとでも思っているのか」 「……え?」 予想外の返答の上に、口調が昨日の夜と同じものに変化して、俺は驚いて目を瞠った。 今までの柔和な表情は一瞬にして消え、昨日ほどの恐ろしさはないものの、引き結ばれた口元と目つきは真剣そのものだった。ちょっとやそっとでは誤魔化すことなんて出来ないくらいの威圧感もある。 何でこんなときにそんな顔するんだよ、と睨み返しても、このまま黙って引いてくれそうにない。 「組の頭の命令は絶対だ。忠誠を誓う以上、俺はそれに従わなければならない。嫌だと言うのなら、せめて俺が、仕方ないと納得するだけの理由を言え」 そんなおっかない顔で言われたら、どんな理由も理由にしてもらえないような気がする。 「…………」 本当のことなんて、俺に言えるはずがない。 それにはたくさんの理由がある。俺の過去も、長谷川さんの過去も含めて。 きっとそれは他人から見たらくだらないことなのかもしれない。けど少なくとも俺にとっては重要なことだ。 それがわかっているから、言っても理解してもらえないことも知っている。なら、自分の本音なんて言わない方がマシだ。 「……長谷川さんが嫌いだからだよ」 面と向かってそんなことは言えなくて、何も言わずに見下ろしてくる長谷川さんから顔を背けた。 「嫌い、か」 「うん。そう。……俺さ、目に見えて気遣ってますーってのがわかって、こっちが恐縮するくらいなの、正直面倒なんだよ。しかも二重人格だし。昨日とか今とか、一体何? って感じ。何するかわかんないし、たまったもんじゃないよ」 そんな風に思ったことなんて一度もないけど。 包帯で覆われた手の甲にキリキリと鋭い痛みが走るまで、強く握りながら言い切った。 「ホント、迷惑……」 思っていることと真逆のことを言って、こんなにも辛いと感じたのは生まれて初めてかもしれない。 本当は、自分なんてどうなってもいいってくらい、俺はこの人が大切で、その息苦しさに泣きそうになってしまうくらい、この人が好きだ。 手の痛みがなくなったら、自分自身に負けてしまいそうな気がして、掛け布団の内側で拳が震えるほどに力を込める。 俺はあらゆる面においてひ弱だ。 金に関してはほとんど親に頼るしかないし、自立できていない高校生という立場も、身体的な能力も、まったくもって頼りない。 しかも長谷川さんは同じ年、同じ名前の子供を亡くしている。一緒にいることさえ、苦痛だと感じているんじゃないのか。 俺が弱いばっかりに、長谷川さんが今まで宮村組で築いてきたものを、拳を振るわないという決意を、台無しにしてしまった。 そんな俺ができることは、自分で長谷川さんから距離を置くことだと思った。 俺は、傷つけることしかできない俺自身から、長谷川さんを守らなきゃいけない。 好きだと思えば思うほど、俺はきっと大切な人を傷つける。 俺は”母さんの子供”だから。 「それが理由。こんなの本人には言うことじゃないから、適当に誤魔化そうと思ったのに」 無理矢理口の端を吊り上げて、ごめんね、と笑った。 殴られても仕方ないような態度だという自覚は十分あった。 わかっていてそうしたのは、「お前みたいなガキは二度と相手にするものか」と怒ってくれれば、長谷川さんからも近づいてくることはなくなると思ったからだ。 早く、怒れよ。 殴れよ。 二度と会わないと言って、足早に立ち去れ。 この強がりがいつまで続くか、俺にだってわからないんだ。 「……そうか」 表情を崩さないようにするので精一杯だった俺に、長谷川さんは静かに言った。 俺の態度にもそこまで怒りを露わにすることはなく、ただ少し眉根に皺を刻んだだけだった。 遠慮は無用、ムカつくんなら怒ってくれて構わないのに、長谷川さんはやっぱり長谷川さんだったようだ。 「―――でも俺は、自分で決めたからな。あなたの傍にいて、あなたを守ると。こればっかりは誰にも、あなたにだって譲る気はない」 「………え?」 苦々しく「わかった」と言って長谷川さんが病室を後にする図をぼんやりと思い浮かべていた俺にとって、それは思いもよらない返答だった。 驚きと困惑が綯い交ぜになって上手くリアクションができない俺に、長谷川さんは「わかるように言ってやろうか」と続けた。 「どういうわけか、俺は大林拓海に惚れちまったらしい。俺はこうと決めたら滅多なことじゃ覆したりしない。何を堪えているのか知らないが、諦めるんだな」 言うなり、長谷川さんはベッドに浅く腰掛けると、布団に隠れた俺の手を掴んだ。 傷に障るぞ、と握っていた手を引き寄せて、一本一本手のひらから指を剥がしていく長谷川さんを拒むことはできなかった。 惚れちまったらしい、と言われた。 動揺しないはずがない。 ―――長谷川さんが、俺を好き? 理由云々を考えるよりも、その一言だけで俺は胸のうちから嬉しさが溢れ出すのを感じた。 でもすぐに、冷静になって我に還る。 そんなんじゃダメなのに。 大切だから離れなきゃいけないのに。 指を強引だが丁寧に伸ばされた後、軽く握ってきた長谷川さんの手を乱暴に振り払う。 「……っなせ……! 早く出てけよ! あんたなんか……ッ」 大嫌いだ。 その一言が上手く言えない。 それは当然かもしれない。本当はそんなこと思っていない。いないどころか正反対なんだから。 それでも言わなきゃいけないとわかっていながら、声を出すことができなかった。 胸が痛くて、息苦しいほどだった。 「……んた、なんか………」 「もうやめておけ」 同じところで止まっては繰り返す俺を制して、そのまま長谷川さんは俺の体を優しく抱き寄せた。 「……そんな今にも泣きそうな顔で嫌いだって言われても、説得力なんてあるかよ」 抱き寄せられてしまったせいで、一言一言が耳だけでなく、触れ合う部分全てから響いて、体中に染み渡るのを感じる。 優しくて丁寧なものより、ぶっきらぼうでいかにもそれらしい言葉遣いが思いのほか温かかった。だから余計に辛い。 甘えてはいけない。 縋ってはいけない。 そうしたらきっと、俺はこの人から離れられなくなってしまうから。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |