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 往生際悪く、体を離そうともがいても、長谷川さんは俺を離してはくれなかった。
「……めなんだって…っ」
 目元に熱いものがこみ上げるのを感じながら、挫けそうになる心に無駄な足掻きだと知りつつ叱咤する。
 離れられなくなって、遠い場所にいてもすぐに会いたいと、ずっと傍にいて欲しいと涙に暮れて、壊れてしまった母(ひと)を俺は知っている。
今まで、誰にも依存することなく、本気で互いを好きにはならない付き合いをしてきたはずだ。
 大抵の女は、理由はわからなくとも何となく俺が本気にならないことを感じ取って、ある程度のところで別れようと言ってきた。奈津もその一人だ。
  卑怯だと言われても構わない。一度本気になって、愛しいと思うあまり、相手を苦しめてしまうくらい依存してからでは何もかもが遅い。
 ……俺は、母さんの血を引く子供なんだ。
 突き放そうと押していた手で、長谷川さんの服を握り締める。
 父さんと愛しあっていながら、自らの想いの強さを抑えきれず、相手を苦しめることしかできなくなってしまった母さんは、ある夜ひとけのない山奥で首を吊って死んだ。
 母さんは子供を欲しがった父さんのために俺を産んだ。だが、俺が生まれて数年が経つと、父さんは起業の準備のために忙殺され、家に帰って来れない日が続いた。会いたくても会えないという不満からのストレスは全て俺にぶつけられた。
 幸いにも暴力に訴えることはなかったが、母さんは徹底的に目の前から俺の存在を排除しようとした。欲しいのは俺じゃないんだ、と。
 しかし父さんが帰ってくるようになると、今度は逆に俺に対して酷いことをしてしまったと自分を責めるようになった。
 自らを追い込んだかたちで、母さんは死んでしまった。
 それに気付いてやれなかったことを悔い、父さんは悲しんだ。親戚や周りの人もみんな、母さんの自殺に驚き、そして同じように深く悲しんだ。
 それから数年後、俺が中学二年の時に再婚した父さんは、決して母さんのようなことにはならないようにと、休日は必ず家にいて義母さんの傍にいるようにしている。それはもう過保護なくらいに。
 それくらい、父さんの悲しみは深かったということなんだろう。
 その悲しみを一番近くで見てきた俺だから、誰もそのことで傷つけたくないと思った。
 結局、それ以外のことで理人にも長谷川さんにも迷惑をかけてしまったが。
 言えばきっと、誰もが「気にしすぎ」と笑う。あるいは、お前はお前、母親は母親だろ、と。
 だから誰にも言わないでいた。誰もが「そんなことはない」と言うことを知っていたからだ。
「何が、駄目なんだ?」
 耳元で低い声が優しく訊ねる。
 こんなにも抗おうとしているのに、平気でそんなことを訊いてくる長谷川さんが恨めしかった。
 本当は言ってしまいたい。
 でも言いたくない。
 そんな相反する気持ちがせめぎあってどうすることもできず、俺は首を左右に振って拒否をした。
「ちゃんとこっちを向け。俺を見ろ」
 それにも首を振って答える。ここで甘えてしまったら、もう戻れないと言い聞かせて。
 すると長谷川さんは、俯く俺の顎を骨ばった指で掴んで強引に上を向かせた。必然的に、長谷川さんと目が合う。
「…………っ」
 日本人特有の深く暗い色をしたその双眸は、穏やかな眼差しではなく、感情的な力強い光を宿して真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「何がどう駄目なんだ? 巧の……死んだ子供のことなら、前にも言ったが本当に気にしてはいない。自分から下手に回ったのも、あの時答えたことが本当の理由だ。だからそんなことは問題じゃない」
 顎を掴まれたまま、そうじゃない、と口には出さずに首を振った。
 確かにそれも理由だった。だからそう言ってくれたことに多少安心した。だが、それは主要な理由じゃない。
 早く気付いて欲しかった。俺自身が長谷川さんを傷つけていることに。
「他にあと何がある? ヤクザと付き合うのが嫌だというのなら、指を詰めて足を洗おう。男相手だとか、年齢差は努力したって変えられはしないが、そんな単純な理由なら言えばいいだろう。何をそんなに頑なになる?」
 不可解だと言わんばかりに眉を顰める長谷川さんの顔が、ぼんやりと滲んできた。
 力なく何度も首を横に振る。
 命よりも大事な組を捨てるとまで言ってくれた人に対して、俺はきっとこの世界の誰よりも失礼なことをしている。
 俺は真摯な眼差しを向ける大切な人を目の前にして、途方に暮れてしまった。
「……拓海さん」
「…っかんねぇよ。何でそんな、俺に対して固執するんだ……? 俺に、そんなこと言う価値なんてない。俺はあんたなんか……嫌いだ」
「俺はあなたの傍にいて、あなたを守る。たとえ、あなたが俺を嫌っていたとしても。そう決めたんだよ、俺は」
「何で俺がそれに従わなきゃなんないんだ……っ」
「別に従えと言っているわけじゃない。話しかけたり、気にしたりする必要はない。空気だとでも思えばいい。ただ傍で守らせてくれればそれでいい」
「何だよ、それ……」
 拒む理由は、長谷川さんが知る限りでは確かにどこにもない。惚れただの、傍にいて守るだの、どうしてこの人は俺の困ることばかり言ってくるんだよ。
 どうあってもわかってくれなさそうな長谷川さんに、俺は仕方なく口を開いた。
「……俺は長谷川さんを……傍にいる人間を傷つけることしかできない。昨日だって、長谷川さんがどうにかしなきゃならないような事態になったのは、俺が一緒にいたせいだ。俺じゃなくて、もっと強くて頭のいい他の奴だったら、あんな場合でも上手く逃げられたかもしれない。俺は地面に転がされて強姦されそうになりながら、言うこと聞くしかなかった。挙句、奥さんと子供を亡くしてから一度も使ってないっていう拳を振るわせた。だから、もう駄目なんだ。俺のせいで誰かを傷つけたくはない」
 理人の時もそうだった。俺がもっと上手く里見の脅迫をかわせていれば、理人は酷い目に遭わなかったはずだ。
 想いを告げるのは拒むよりも単純だ。でもそうしてしまった時、その先また別のことで長谷川さんを傷つけるかもしれない。母さんと同じようなことにならないとは言い切れない。
 だから、どうか。
 もう、俺に構わないで欲しい。
「拓海さん……」
 俺はもう一度首を横に振った。顔を見せないように俯いても、長谷川さんは俺に顔を上げることを強制しなかった。
 束の間の沈黙が流れ、やがて長谷川さんが独り言のように「よくわかった」と呟いた。
 俺が拒む理由を理解して、もう諦めてくれるのだと思った俺は、小さく頷く。
 しかし長谷川さんは力なくベッドについていた俺の手を握り、落ち着いた声で話し始めた。
「拓海さんは、自分が何かしら関係していることで自分の友人や身近にいる人間が傷ついたり、嫌な思いをしたとき、自分が悪いと抱え込む癖がある。そしてそれを悟られないように隠すことにも慣れているんじゃないのか? それが辛くないわけがない。なのにあなたは、それを辛いとは言わない。自分のせいでもっと辛い思いをした人がいると、自分の感情やストレスを否定しているんだろう? 自分のせいで周りの人間が傷ついてばかりいると思い込んでいるために、『自分は傷つけることしかできない』という自己暗示にかかっている自覚がない」
「……違う」
「どこか違う? 俺は一度でも「お前のせいだ」と言ったか? 一緒にいることで迷惑しているだとか、一生殴らないつもりでいたのにやむを得ず敵を殴ってしまっただとか、そんなことを俺は言ったか? 言ってないだろう。実際そんなこと思っていないからな」
「……でも、事実じゃんか」
 違う、そうじゃない。
 言葉にはしなくても、たとえそう思っていなくても、危険な目に遭わせて迷惑をかけていることは事実だ。
 そんなことになるのは、もうたくさんだと言っているのに、どうしてそれがわからないんだ。
「事実かどうかを問題にしているわけじゃない。他人を傷つけることしかできない、これからも傷つけるかもしれないなんていうのは、拓海さんが勝手にそう思い込んでいるだけだと言っているんだ。それに、俺はそんな簡単に傷つくような人間じゃない」
 言ったことを素直に受け入れられない俺に対して、長谷川さんは語気を強めた。俺の手はさらに強く握り締められたために熱を帯び始める。
 その熱は俺の心臓にまで伝わってきたようで、胸の辺りがじわじわと熱くなってきた。
「本当の拓海さんは自分が思っている以上に優しい人間だ。同じ年、同じ名前の子供を喪っていた俺に嫌な思いをさせたくないと、車から飛び出すなんて無鉄砲なことをするくらいにな。……あなたはその優しさゆえに、俺を守ろうとしたんだろう? どうしてそれを愛しくないと思える? 必死な声で「来るな」と言ったあなたを、俺は何が何でも助けに行くと決めた。この先ずっと、俺の手で守ってやろうと思った。もう二度と、大切なものを喪わないように」
 長谷川さんの言葉を聞きながら、俺は口元に手を当てて、洩れそうになる嗚咽を必死に堪えた。涙腺はとっくに壊れていて、ぼろぼろと涙が止まらなかった。
「……っ、……ぅっ」
 そんなに迷惑だのなんだのと気にするんなら、離れられることの方が俺にとっちゃ迷惑なんだ、と付け足した長谷川さんは、俺が泣いていることに気付くとぎょっとした。
「何をそんなに泣く必要がある? 本当のことを言っただけだろうが」
 そう言われても一度流れ始めた涙はそうそう止まるものではなく、長谷川さんは困ったような顔になってから、思い出したように紙袋の中から新品のタオルを取り出した。
「大の高校生が泣くな」
 口に当てていた手を剥がして、涙だの鼻水だのでどろどろの顔をガシガシと少々乱暴に長谷川さんは拭った。口調が素(?)に戻ると、やり方も少し乱暴になるのかもしれない。
 けど、それでも良かった。
「……きなんだ」
「あん?」
 ――――嬉しかった。
 俺でさえ気付いていなかったことをいとも簡単に見つけ出して、問題ではないのだと教えてくれた。
 簡単には傷つかないと言ってくれた。
 こんな俺をずっと傍で守ってくれると、真摯な眼差しで話してくれた。
 強くて、優しくて。
 本当に誰よりも、何よりも好きだと思った。
 傷が痛むのも構わず、俺は長谷川さんの首に腕を回して、しっかりと抱きしめる。
 ―――ごめんな、俺。
 けど、頑張るから。過ちを繰り返さないように。
 自分を戒めるものを裏切って、俺は長谷川さんに全てを話そうと決心した。
「……っ、好き、なんだ…」
 だから、今度こそ、本気で。
 この人を、好きになってもいいですか。


This continues in the next time.
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