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 紫藤のところではいつでも関係なしに病室を訪ねられたが、普通の病院には面会時間に限りがあるため、夜も長谷川さんが来る頃はいつもギリギリでろくに話もできない状況が続き、結局話をするタイミングを掴めないまま安静期間は過ぎて、俺は退院の日を迎えてしまった。
 既にアパートは解約され、荷物も元々俺の部屋だった空室に運ばれているらしく、俺は病院で使っていた生活必需品の入ったボストンバッグ一つ持って実家に戻るだけだったが、迎えに来たのは義母さんでも父さんでもなく、長谷川さんだった。
 見慣れた黒いスーツではなく、カーキ色のコットンパンツにストライプのシャツを合わせ、その上からダークグレーのカジュアルジャケットを着ていた。
 そういうラフな格好を見たのは初めてで、思わず「かっこいい」を連発しそうになるのを堪えた。
 高い背を屈めて長谷川さんが退院手続きをしている間、近くの清潔そうな色をした長椅子でボストンバックを足元に挟みながら、その後ろ姿をぼんやり眺めていた。ふと周囲を見ると、どう見ても長谷川さんの方に目をやりながらひそひそと話を交わす女性がちらほらといて、俺は無意識のうちに眉を顰めて早く手続きが終わればいいのに、とつま先を鳴らした。
 戻ってきた長谷川さんは、俺がとにかく機嫌が悪いことを察して、どうしたのかと訊ねながら、さりげなく俺の荷物を持った。
 首を振って何でもないと言いながらも足早に病院を出た俺を、長谷川さんは長い足で悠々と車まで案内してくれた。
 そしてまた、いつもの黒ベンツではなく、国産車のマークが入ったセダンタイプの車で迎えに来ていたことに驚いた。
 どうやら今回の送迎は組とは全く関係ないように見せたいらしい。
 それは俺の家に対する配慮だろうと思うと、やっぱり宮村組とは縁を切らなければならないに違いないという考えが強くなる。
「ご実家の方に着きましたら、荷物を置いてまた車に戻ってきてください。退院したばかりで申し訳ありませんが、今日一日、私に付き合っていただけますか?」
 荷物と一緒に後部座席に乗り込んだ俺は、振り向いて突然デートに誘ってきた(…と考えていいんだよな?)長谷川さんの丁寧な申し入れを、妙に照れ臭くなりながら「別に、構わないけど……」と幾分か小さい声で承諾した。
 これがきっと最後になるのだから、二人で出かけようというのだろうか。だとしたら何故長谷川さんはそう言ってくれないのかと思いながら、自宅へと向かう車の中で嬉しい気持ちと同時に湧き起こる切ない感情に、会話はあまり弾むことがなかった。
 何かあったときにはすぐにかかる病院だったため、二十分ほどで春休みぶりに実家に戻ってきた俺は、久しぶりに見る玄関や手前の階段、廊下をぐるりと見渡した。
「おかえりなさい、拓海」
 バタバタと音がして奥のリビングから勢いよく出てきた義母さんに、俺は「ただいま」と言いながらどんな顔をすればわからず、微妙な笑みを浮かべた。
 昨日の午前中に会ったばかりだというのに、義母さんは心底安心したような表情で俺を抱きしめた。
 まだ完全に治ったわけではないため、いきなり抱きしめられた衝撃で走った小さな痛みに声を漏らすと、義母さんは「ごめんっ」と慌てて体を離してあわあわとした。
 こういうところが面白い人だから、何の抵抗もなく受け入れられたんだっけ、と思い出しながら靴を脱いで廊下に上がった。
「何か飲み物いる?」
「悪いけど、荷物置いたらすぐに戻ってくれって言われてるんだ」
 階段に足をかけながら言うと、義母さんは少し心配そうな顔をして「退院したばかりなのに、すぐ出かけるなんてよくないわ。少しでいいから休んでいきなさい」と言った。
「外の車で待ってるんだけど」
「じゃあ上がってもらえばいいじゃない。長谷川さんて方が送って下さったんでしょう? 今日、彼と出かけることは知っているわ。でも少しは休んだ方がいいわ。入院すると体力って落ちるものなのよ?」
 いいから、すぐに呼んでらっしゃい、と言ってお茶の用意をするためにリビングに戻った義母さんが、何故長谷川さんと出かけることを知っているのかが気になり、車に戻って長谷川さんに事情を説明した後にそれを訊ねた。
「ところで、何で義母さんが今日出かけること知ってんの?」
「あなたのためだからですよ」
「俺のため?」
「ええ」
 それは、俺のことは責任を持って送り届けます、という証明なのだろうか、それとも俺がこれから長谷川さんと行く場所が、俺のためになるということなのだろうか。
 長谷川さんはそれ以上語らず、楽しげな笑みを浮かべた。どこかで見た表情だと思いながら、長谷川さんが来客用の駐車スペースに相変わらずの綺麗なハンドルさばきで車を停めるのを見ていた。
 二人で家に入ると、再びリビングから出てきた義母さんがスリッパを一組玄関マットの上に置いた。
 どうもすみません、と言いながら長谷川さんはスリッパを履いたが、普通サイズのスリッパでは小さいのか、踵が三分の一ほど足りなかった。
 義母さんは気付かずに戻ってしまったため、いたたまれずに俺が謝ると、いつものことですから、と長谷川さんの方が笑っていた。
 慣れた様子でそのままリビングに行こうとした長谷川さんに、俺は堪えきれずに吹き出してしまい、やっぱやめて、とスリッパを脱ぐように頼んだ。
 スリッパを元に戻してリビングに案内すると、片付いた室内に置かれた楕円形の食卓に数種類のクッキーが盛られた皿と、三人分のカップが置かれていた。
 丁度ティーポットにお湯を注ぎ終えた義母さんが、俺たちを見て好きなところにどうぞ、と言った。
 俺は均等に並んだ椅子で、いつも座っている真ん中の椅子に腰を下ろし、父さんが座っている椅子に長谷川さんを促した。
 一杯分に分けられた紅茶用のミルクを盛った容器とティーシュガーの入った蓋付きカップをテーブルに置いて、義母さんがやっと腰を下ろし、まだ何にも手をつけていなかった長谷川さんに「どうぞ飲んでくださいな」と勧めた。
「では、いただきます」
 軽く頭を下げてからミルクもシュガーも入れずにカップを持って一口啜る仕草を、俺はミルクを入れかけた手を止めてじっと見ていた。
 ラフな格好を今まで一度も見たことがないせいか、どんなことをしても物珍しくて……いや多分それ以外の感情も込みで、つい目でそれを追ってしまう。
 カップをソーサーに音をなるべく立てないようにして置いた長谷川さんと一瞬目が合い、それに慌てて目を逸らした俺は、ミルクをソーサーに垂らす羽目になり、それを目ざとく見咎めた義母さんはすぐにティッシュ箱を突き出した。
「さんきゅ」
「よそ見してるからよー、もう」
 幸いにも、どこを見ていたのかまではばれていないようだ。
 苦笑いを浮かべて紅茶を啜り、義母さんの手作りであろう大小さまざまな形をしたクッキーをつまんだ。
 形はまあまあだが、味は市販のものより美味しい。久しぶりに食べた手作りのお菓子は、以前よりも腕が上がったように思えた。
「拓海が戻ってくるから、一番美味しくできるクッキーにしてみたの。どう?」
「うん、美味い。……長谷川さんも遠慮しないで食べたら」
 バリボリ食べながら言うと、あなたは少し遠慮しなさいとしっかり釘を刺される。
 長谷川さんはココアとプレーンの生地がマーブル模様に混ざったクッキーを一枚食べ、お世辞でなく「美味しいです」と義母さんに笑いかけた。
「本当に笑顔が素敵な方ね」
 うっとりした様子で微笑んだ義母さんが面白くなくて、浮気だ、と軽く睨むと、「あら、ブラウン管の中のアイドルにはしゃぐ人はみんな浮気になるのかしら?」と痛い突っ込みを返された。
「大体、拓海とお父さんがいるのに、これ以上男増やしてどうするの」
「何だそれ」
「いい男は、二人もいれば十分なのよ。男の子にはわからない乙女心ってやつねー」
 複雑なのよ、と義母さんは上品に笑った。『いい男』という言葉が、褒めているのかそうでないのか、判断に迷うところだ。
 黙ってやりとりを見ていた長谷川さんは、もう一度紅茶を啜った。俺は自分でもガキっぽく思える状況に、急に恥ずかしくなる。
 考えてみれば、恋人に親とのやりとりを傍観されるって、物凄く恥ずかしい。こんなこと自体今までなかったから、どう反応すればいいのかもわからない。
 それをごまかそうとして紅茶を飲んだが、慎重に飲むことを忘れて思いきり舌を火傷した。
「あっつ……」
「大丈夫ですか」
 間髪を入れずに長谷川さんが頬に手を触れてきた。俺は大丈夫と笑って、一瞬手を取りそうになったが、義母さんの前であることに対する恥ずかしさで、そんな気もなかったのに思ったよりも強くその手を払ってしまった。
「あ、と、ごめんっ」
「いえ、大丈夫ならいいんですけど」
「何だか、母親の私よりもよっぽど親子みたいね」
 義母さんは複雑な表情を浮かべながら、水でも飲む? と訊いてきた。俺はそれを断った。頬が妙に引き攣っていた。
 それを気にする様子もなく、数秒だけ漂った沈黙に、義母さんは些か引き締まった表情をして、長谷川さんに向き直った。
「この度は、息子を守っていただいて、本当にありがとうございました。二度とそのようなことが起こらないよう、監督をする立場として気を付けていきたいと思っています」
 深々と長谷川さんに頭を下げた義母さんにつられて、俺も頭を下げたが、長谷川さんはそれを「私が謝られる筋合いはありません」と慌てて言った。
「私は……いえ、今回のことは、私が拓海さんを巻き込んだのです。それによって傷つけられた者を守り、面倒を見るのは当然のことですし、むしろそうさせてしまった私が謝らなければならない立場にあります。本当に申し訳ありませんでした」
 椅子を引いて立ち上がり、腰を折って頭を下げられた。
「それでも、あなたがこの子を守ってくださったことに変わりはありません。あなたがいなければ、今頃拓海はどうなっていたか。たとえあなた自身が悪いのだと言っても、あなたは間違いなく拓海の、そして私たち家族の恩人です」
 俺も義母さんの言葉に深く頷いた。
 顔を上げた長谷川さんの表情は、それでも自責の念に駆られているようで、険しいままだった。
「夫ともあなた方との交流については何度か相談しましたが、一度関わりを持ってしまった以上、拓海に何かしらの影響が出ることは今回の件で十分理解しました。あなたが、あなた方が責任を持って拓海を守ってくださるというのであれば、私たちはその言葉を信じます」
「えっ……」
 はっきりと聞き取れる凛とした声で義母さんが言った言葉に、俺は耳を疑った。
 思わず義母さんの方を見ると、義母さんは俺の顔をちらりと見やってからすぐに長谷川さんに視線を戻して「息子を、お願いしてもいいですか?」と言った。
「…………っ」
「―――ええ、もちろん。命を懸けて、拓海さんをお守りいたします」
 そして長谷川さんは、真摯な眼差しを義母さんに向けて、まるで執事か何かのように胸元に手を当てながら微笑んだ。
「ほら、何ぽやっとしてるのよ。お世話になるのは拓海じゃないの。ちゃんと頭下げなさい」
「え、あ、うん。……よ、よろしくお願いします……?」
 何が起きたのか、あまり事態が飲み込めずにぽかんとしていたが、義母さんに小突かれて頭を下げる。
「こちらこそ」と聞こえた言葉には、義母さんにはわからない別の意味も含まれている気がして、俺はすぐに頭を上げることができなかった。
 みるみるうちに顔が熱くなる。不自然なくらい、赤くなっているのがわかった。
 再び腰を下ろした長谷川さんの方を見ながらゆっくり頭を上げると、長谷川さんは普段と違う格好をして、いつになく優しげな目で俺を見た。
 こんなときに、そんなことをするなよ……。
 俺は何とかなりそうだった顔がまたもや上気して、今度こそ赤い顔の言い訳をしなければならなくなった、と義母さんに隠れて恨みがましく睨んだ。
 顔の赤い理由を温かい紅茶のせいにして何とか誤魔化した俺は、その後の他愛もない近況報告や、義母さんが気にしていた宮村組についての話など、数十分の談話に参加しながら、長谷川さんや義母さんの一言一言に顔が赤らんだり青ざめたりした。
 共通の話題があまりないためなのか、それとも進んでそうしているのか、おそらくどちらもあるのだろうと思うのだが、ほとんどが俺に絡んでの話だった。
 俺が組員と興じるカードゲームに強いこととか、小さい頃から比較的人と打ち解けやすいとか、そんなことはまだ良かったが、そのせいで賭け事を時々することがあるだとか、彼女を家に連れてきたことがないのは相手をとっかえひっかえしているせいだと理人がこっそり教えてくれた、とかいう都合の悪い話になると、俺は二人の反応が怖くて、その度にクッキーをつまんでいたため、そろそろ出ようかという頃には、昼前にもかかわらずお腹がいっぱいになりかけていた。
「お昼はいいの? 今日はこれからうどんでも作るつもりだったんだけど」
「ええ。一度宮村の家に戻って、報告をしなければならないので、昼食はそのついでにとるつもりです」
 二人とも何かと成果のあった情報交換に満足らしく、その間でげっそりしている俺とは対照的に怖いくらいにこにこしていた。
「ではお邪魔いたしました。遅くても九時までに拓海さんをこちらまでお送りします」
「わかりました。よろしくお願いします」
 一足先に出た長谷川さんに、俺も続こうとしたが、義母さんに引き止められた。
「何」
「長谷川さん、とてもいい人ね。拓海のことをちゃんと見てる。何年も一緒にいた私も気付かなかったことも、全部。……母親っていう自信、なくしそうよ」
 父さんに紹介されてから、おそらく初めて見る義母さんの不安に曇る瞳に、俺はドアにかけた手を下ろして、義母さんと向き合う。
 俺が知らないだけで、きっと俺との付き合い方に関して、父さんには数え切れないほど見せていたのだろうと、容易に推し量れた。
「長谷川さんは人並みはずれた洞察力の持ち主だから、仕方ないだろ。いちいち気にすることじゃない。今、俺の母親は義母さんだ」
 義母さんに向かってこういうことを言うのはやっぱり慣れなくて、照れ隠しに後頭部を指で掻いた。
「……そうね。そんなこと息子に言われちゃ、それこそ母親失格よね……! まぁ……次は、息子として付き合っていくことよりも、あなたを婿に出す覚悟の方が必要かしらねー」
「…………へっ?」
「あら、私何か言った? ……ほら、早く出かけなきゃなんでしょ。待たせちゃダメよ」
「う、うん……。じゃあ」
 ぼそぼそとして聞こえなかった義母さんの独り言の中に、何か重大なことが混じっていた気がしたが、あくまで何も言うつもりはないらしい義母さんに、それ以上問い詰めることはできなかった。
 まるで追い出されるように家から出た俺は、完全に仕事抜きだと言ったわりに、律儀にドアを開けてくれた長谷川さんに苦笑しながら、宮村家へと向かった。


This continues in the next time.
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