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 宮村家に着くと、長谷川さんは車を裏門の脇に路駐して、そこから母屋の裏口まで少し歩くことになった。車が自前なため、車庫にスペースがないということに納得した。
 でも……じゃあいつもはどこに車を停めているんだろう? という疑問は、答えを聞く前に忘れてしまうことになった。
 裏口から入ってすぐ、たまたま廊下ですれ違った玄さんに「よく戻ってきた!」と何故か熱い抱擁を受ける羽目になって、その反動で考えていたことが一瞬にして飛んでいった。
 古参であるし、経験豊富でこんなことには慣れていなければおかしいくらいの人が、たかだか二週間にも満たない入院ごときに、こんなにも過剰な反応をするとは誰が想像できようか。
 後で聞くと、あの日長谷川さんに連絡が入る前に最後に話したのが自分で、八時までに来いなどと言ったから、慌てていたために周囲への注意力が散漫になって、襲われたのだろうと思っていたらしい。
 そんな馬鹿な、と思ったが、年季の入った目じりの皺に微かに涙のようなものが滲んでいたことに気づいて、やっぱり宮村組はいい人たちばかりだと思いながら、気にしないでよと笑った。
 一番手前の角を曲がってすぐ右手に洋式の木製ドアがあり、長谷川さんはそこをノックした。気づくと長谷川さんはいつの間にかシャツとジャケットのボタンをきちんと留めていた。
「入れ」
 俺はジーパンにカットソーだけという本当に楽な服装でいたため、入っていいのだろうかと思ったが、何をする間もなく室内に入ることになった。
 中は広く、正面の大きなガラス窓の前にどっしりとした執務机があり、革張りの大きな背凭れのついた椅子に、この部屋の主が優雅に足を組んで座っていた。
「軽装で失礼します。退院手続きのほど、完了いたしました」
「あぁ、ご苦労だった。こっちも近日中には片がつくと連絡が入った」
「ありがとうございます。忙しい中、過去の不始末からこのような事態になり、誠に申し訳ありませんでした」
「いい。親父からもある程度事情は聞いている。今回のことについて、藤次に非はないからな」
 深く腰を折って頭を下げた長谷川さんに言った後、不意に宮村さんの視線が俺の方に向けられて、内心ドキリとした。
「不測の事態とはいえ、こちら側の事情に巻き込んで悪かった。里見の一軒から身の安全を確保する目的で付き合いを半ば強制していたことが裏目に出たことは確かだ。申し訳なかった」
 組んだ足を外して、宮村さんは何の躊躇いもなく俺に頭を下げた。どうすればいいかわからずに長谷川さんを見ると、長谷川さんも一緒になって俺に向かって頭を下げているもんだから、何も形式ばったことなど言えるはずもなく「べ、別にもう気にしてないんで……け、結構ですからっ」とよくわからないまま口走った。
 組長が頭を下げる相手に、その下の人間も頭を下げなければならないということを、俺は初めて知った。
 その後俺は一旦その部屋から夕食を食べる広い座敷に案内された。長谷川さんはまだ宮村さんと他の話が残っている、もうすぐ昼食が運ばれるだろうから、先に食べていてくださいと、戻っていった。
 時計を見ると既に十二時を回っていて、ほどなくして依岡兄弟が座敷に姿を現した。
「お、久しぶりーたっくん。退院おめでとう」
「どうも」
 どうやら涼一の方は事情を知っているらしく、大丈夫だった? まー大丈夫じゃないから入院するのか、と一人ノリ突っ込みをしていた。
「……おめでとう」
 普段あまり話すことのなかった弟の涼二にまで小さな花束を渡されて、俺はお礼を言って小さく頭を下げた。
 二人が定位置に着くと、今度は剛さんが入ってきた。
「おお、久しぶりだなぁ大林の。元気にしとったか。病院じゃあ何も旨いもん食えんかったろう。たんと食ってけ」
「はぁ、ありがとうございます」
 何をそんなにちぢこまっとる、と自分がその原因であるとは思いもしていないだろう剛さんは、骨に響くほど無遠慮にばしばしと背中を叩いてきた。
 どういう意図で長谷川さんの過去を、あのタイミングで明かしてきたのかが未だによくわからない人物を相手にどう接していいのかがわからず、ぎこちない会話になってしまったが、タイミングよく昼食の盆を持った料理長が入ってきたので、何とかそこから逃げることができた。
 今日は俺の退院日であることを料理長が承知していたらしく、なんと赤飯が出た。最近知ったが、この家では何かめでたいことがあると、いつも赤飯が出るらしい。
 俺が退院して、この家にとってめでたいのかどうかという点については、出されてから言っても仕方がないため、何も言わないことにした。
 副菜や汁物、ほかの付け合わせなどが運ばれてきたところで、やっと長谷川さんと宮村さんがやってきた。
 全員が揃って食べる食事は、元々の味もあるが、大員数で食べると病院で食べていたときよりも数倍美味しく感じられた。
 入院中、宮村家であったことを涼一から色々と訊いた。
 今回俺を襲ってきた奴らの組の組長と直談判をしたこともそうだが、それより、長谷川さんが俺を紫藤のところまで送って宮村家に戻ってきたとき、相手の組に一人で殴りこみに行こうとしていた長谷川さんを剛さんの指示で数人の組員が何とかそれを阻止したという話にはさすがに驚いた。
 翌日何事もなかったように姿を現した長谷川さんが、そんな無茶なことをしようとしていたなんて、到底考えられなかった。
「母屋が煩くて見に行ってみたら、俺もびっくりしたよ。長谷川さんが見たことないくらいのおっかない顔して、鉄砲玉みたいなことしにいくって。そりゃあみんな止めるよ。長谷川さんに今死なれたら、最悪、抗争に発展しかねないからさ」
 涼一がそれはもう大変だった、と言って汁物を啜った。
 俺は綺麗に箸を持って動かしながら、淡々と食事をする長谷川さんを見つめた。
 そのとき長谷川さんが何を考えていたのかはわからない。俺があの夜に感じた胸騒ぎの正体はまさにこのことだったのだろう。
 きっとそのまま敵陣に突っ込んで行かなかったのは、最後に残っていた理性が、宮村家へと長谷川さんを向かわせたのだろうと思った。
 その必死さに俺への感情の強さや真摯さが反映されているのだと考えてしまうと、そのことに対して俺は喜んでいいのか、それとも組すら顧みない行為に走らせようとしてしまったと反省すべきなのか、判断がつかなかった。涼一の言葉になんら棘がなく、単に驚いたように話していたところを見ると、どうやら後者の心配はないように思えた。
 義母さん特製のクッキーでほとんど満たされていたとは思えないほどの食べっぷりで、俺は出されたものをすべて胃の中に収め、昼食を終えた。
 依岡兄弟や剛さん、そして宮村さんが各々座敷を離れ、俺と長谷川さんだけになる。
 食後に運ばれてきたお茶を啜りながら、俺は「私服で誘うから、一日デートだと思ったのに」と呟いて長谷川さんを軽く睨んだ。
「申し訳ありません。まさかあなたのお母様と話すことになるとは思いませんでしたから。昼も本当は外食にするつもりだったんですけど」
「でも、まぁ、結果的にはよかったけどな」
「ええ……色んな意味でね」
 俺は宮村家との付き合いを継続できることになった部分を言ったつもりだったが、長谷川さんは意味深に声を低くさせたため、ギクリとなった。
「ご、午後はどうすんの」
 これ以上話すと何か墓穴を掘ってしまいそうだと思った俺は、話題を変えた。
「そうですね。少し休んだら、拓海さんに私の『野暮用』に付き合っていただきたいのですが、お体の方は大丈夫ですか?」
 野暮用。どこかで聞いたような言葉だ、と頭を捻って、すぐに長谷川さんが「野暮用がある」と言って時々送迎の時間を変えることがあったことを思い出した。
 確か玄さんたちと話していて、彼女と会っているとかいう結論に……。
 ―――彼女?
「…………っ」
 俺は自分のことにいっぱいいっぱいですっかり失念していたことに気づいた。
 そうだ、長谷川さんには野暮用と称して会いに行く人物がいて、帰ってくるといつもシャワーを浴びた後のように石鹸のにおいがしていたはずだ。
 いかにも「ホテル帰り」っぽいこの状況に、俺が付き合えと?
 だが長谷川さんの性格上、二股をかけるなんてことは絶対にないと俺は信じていたため、すぐにその考えを頭の中から追い払う。
 きっとそれはやっぱり、俺たちの思い違いで、別の何かがあるに違いない。
 というか、そうでなかったら俺はどうすればいい?
 突然頭を抱えた俺を、長谷川さんが「どうかしましたか?」と覗き込んできたため、思わず「うわっ」とひっくり返ってしまった。
「何か深刻な顔をされていましたが、何か急な用事でもありましたか? もしそうであれば、私のことは後回しにしてくださって結構ですからそちらを優先させて……」
「や、何でもない……。行くよ、その…野暮用ってのに」
 そんなことあるわけがないと言い聞かせて言うと、長谷川さんはどこか嬉しそうににっこりと笑った。
 こんな笑顔を見せられた後で、別れろなんて言われても、無理に決まっていた。


This continues in the next time.
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