-20-


 できるだけゆっくりお茶を飲みながら、野暮用について自分ひとりで考えてみると、長谷川さんを知る人がいない中で誰とも情報交換もせずにそれを考えることがどれだけ難しいものなのかということがわかっただけだった。
 世話をかいがいしく焼いてくれる長谷川さんは俺のことを俺よりも理解している。そんな気がする。それに引き換え俺は長谷川さんに迷惑をかけてばかりいるし、知らないことだらけで長谷川さんが何をすれば喜んでくれるとか、気をわずらわせなくて済むとか、そういうこともわからないのだと、何も変わっていない事実を自覚させるだけで終わってしまった。
 二時を過ぎたあたりで、長谷川さんが「そろそろ行きましょう」と言って立ち上がり、俺もそれに従った。
 裏門の前に停められた車の後部座席に座って、シートの貼られていないクリアな窓ガラスから、後ろに単調なスピードで流れていく午後の街並みを目で追いつつ、これから一体どこへ行くのかというのを何となく訊けずにいた。
 いつの間にか野暮用そのものではなく、長谷川さんについて何も知らないんだということにばかり気がいってしまい、長谷川さんに彼女がいるだとか、そういった問題すら忘れかけていた頃、車が駐車場に入ったことにハッとなった。
 何も考えていなかったが、出かける前までどこかの歓楽街にでも入ると思っていた俺は、ぐるりと窓から見える範囲を見渡し、ここが寺だということに気付いた。
「ここに……野暮用? お参りでもすんの?」
「いえ……まぁ、しても構いませんが。まだ少し時間がありますし」
 サイドブレーキを引き上げてから腕時計で時間を確認して長谷川さんは言った。
 参拝以外の用事がこの寺にあるのだろうか。というかもし参拝が用事なら、週に二度も三度も参拝するというのは少し変だ。長谷川さんが参拝好きというのなら話は別だが。
 でも「まだ少し時間がある」と言うことは用事は参拝とは別のものらしい。
 どうします、と振り向いた長谷川さんに、俺は「長谷川さんに任せる」と答えた。
 長谷川さんがドアを開ける前に自分で車から降りて周りを見ると、十台くらいが停められるあまり広くはない駐車場の出口から左向きの矢印がついた看板が立っていて、その先を目で追うと、小ぢんまりとした門の向こうに石灯籠と本道が見えた。
 京都とかにある有名な寺院とは比べ物にならないほどに小規模だが、門から伸びる囲いは広く、土地自体はかなり広いものだとわかる。
 長谷川さんがロックをかけて本道の方へ歩き出したので俺もそれについて行くと、門をくぐったところで真っ直ぐに本道へ伸びる道へは進まず、すぐに右に曲がった。
 生い茂る木々の間に作られた小道を歩いていくと、本道とは別の大きな建物が見えてきた。
 参拝の受付だとか、お札やお守りを置いている場所は、本道の左にあったのをちらりと見ていたため、おそらくここは別の用途で使われているのだろうと何となく予想がついた。
「ここに用事?」
「そうです。多分もう鍵は開いているでしょうから、一度中に入りましょう」
「ああ、うん……」
 石畳で作られた道を進み、その建物の入り口へ来ると、長谷川さんの言うように既に扉は開け放たれていた。
 入り口(というより、玄関口)は広く取られていて、木製の下駄箱の前に置かれたすのこのところで靴を脱ぎ、中へ上がった。
 下駄箱の向かい側にある受付のようなところは窓が閉まり布がかかっていて中が見えない状態だったが、勝手知ったるなんとやらとばかりに長谷川さんは左右に分かれた廊下を左へ進んだ。
 光が入らず薄暗い廊下をただひたすらくっついていき、途中トイレと更衣室の札がかかったドアを通り過ぎて、一番奥の部屋の前まで来た。そこは普通のドアではなく古い木製の引き戸で、両開き仕様になっている。
 長谷川さんが片側の引き戸に手をかけると、戸はスルスルと静かに開いた。
「う、わ……広い」
 そこは体育館の半分はあろうかというほど広い空間だった。
 左右の壁の上方についた窓はすべて開け放たれ、風の通りがよかった。正面には大きな布がかけられていて、白の地にくっきりと太い筆の文字が書かれている。その布の左側には大きな鏡がついていたが、何に使うのか俺にはわからなかった。
 床は全面板張りになっていて、古びて年季の入った色をした床板はところどころガムテープでお粗末に修繕されている。
「何かの……道場?」
「ええ。寺の先代の住職が管理している道場です。ちょっと早めに来てしまったのでまだ誰もいませんが、今日はこの後剣道の稽古があるんですよ。いつもは夜に来ているのですが、そうすると帰宅時間が遅くなってしまうので。ここからだとアパートよりも遠いですし」
「剣道の稽古って……長谷川さん、やるの?」
「ええ」
 じゃあ野暮用って……と道場を見渡してから長谷川さんの顔を見ると、俺が考えていることがわかるかのように、小さく頷いた。
 長谷川さんが道場で剣道をしていることを初めて知って驚いたのと同時に、組の人との勘繰りからてっきり修羅場を想像していた俺はホッとした。
 それにしても、これくらいなら普通に「剣道の稽古」と断ればいいのに、何故わざわざ誤魔化すのだろうか?
「何で『野暮用』なの?」
「あまり知られたくないんですよ。組員にも、ここに通ってくる方々にも。ここで稽古される方は一般人ですから」
 じゃあここに来ている人たちは長谷川さんがヤクザであることを知らないんだ。まぁヤクザだと知られて得をすることもないだろうし、むしろ皆怖がって、逆に稽古をしているどころじゃないだろうな。
「先代の住職だけは知っていますが。以前は会長もここで稽古なさっていたんですよ。そのつてで紹介されたんです」
 あとは稽古の時に組を離れてしまうことを了承している宮村さんだけしか、この事は知らないらしい。
「俺を連れてこようと思ったのは、どうして?」
 純粋な気持ちでついて出た言葉だったが、長谷川さんは、何故か口元に手を持ってきて、眉を顰めながら顔を逸らした。
 何か気分を害したのかと思って少し不安になった俺は、「言いたくないなら別に……」と慌てて手を振ると、長谷川さんが待ったというようにもう片方の手を上げて答えた。
「……私や宮村家と関わっていくということは、それだけ危険を伴うことは、拓海さんもわかっていますよね」
「うん」
「私が傍にいられない場合……この前のことがいい例ですが、自分でもある程度身を守れるよう、訓練をしていただきたいと思っていたんです」
 別に剣道をやれと言っているわけではないが、今回の件をきっかけに、どんな理由にせよ、俺自身も狙われる可能性があることが判明したからには、身を守る手段を得なければならないと、長谷川さんは言った。
 なるほど、だから長谷川さんは「俺のため」と言ったのか。それなら義母さんが俺と長谷川さんが出かけるのを知っているのも頷ける。退院してすぐに連れ出すのだって、考えてみれば心配性な義母さんがそうそう許してくれるはずがない。
 だが、それなら何故、長谷川さんがそれを訊いたときに眉を顰めて顔を逸らすのかわからなかった。
「何だ、そんなことか。てっきり長谷川さんが言いたくない理由でもあるのかと思ったよ。いきなり不機嫌そうな顔するんだもん」
 すると長谷川さんはそれを否定するように一度首を横に振った。
「?」
「いえ、それだけではなく……知ってもらいたかったからです。拓海さんに、私のことを」
 ………へ?
 思いもよらなかった返答に、俺は一瞬目が点になり、そしてみるみるうちに頭に血が上っていくのを感じた。
「…………っ」
 確かに、ただ護身のために身に着けるのなら、剣道なんて棒状のものがなければ役に立たない(……と思う)ものより、柔道や空手や合気道の方がいいはずだ。
 そして、ほとんどの組員や稽古をしている人たちには明かさないようにしていることを、あえて俺に教える理由は。
 だから、つまり。
 俺が、他の人とは違っていて。
 それは、特別だということで……。
「すみません。こういうことは、言い慣れていないもので」
「あ、……そ、か……それは……うん……」
「私自身の勝手な理由で、こんなところに連れてきてしまって、申し訳ありません」
「や、全然……うん、全然……大丈夫…っ」
 色んなものが一気に体中を駆け巡って、俺は何を言いたいのかもわからずにただ赤くなりながら意味もなく何度も頷いた。
 う、わ……何だこれ……。物凄く心臓の鼓動が速い……。
 というか、じゃあ今の反応って……長谷川さんの……『照れ隠し』ってことか?
「……っ! ……っ!」
 この状況で何かしら奇声を上げなかった俺は、かなりの忍耐力の持ち主だと思った。
 長谷川さんが照れるなんて、あり得ないことだと思っていた(だから考えたこともなかった)だけに、かつてないほどの衝撃を伴った不意打ちを食らったような気分だった。
 まともに長谷川さんの顔が見れなくなって、俺は俯いた。熱を出したときのように熱くなった顔を、窓から入りこむ風がさらりと撫でていった。
「あの……住職に話してきます。ついでに道具一式を車から持ってきますから、ここで待っていて下さい」
「……わかった」
 裏返りそうになった声を何とか抑えて言うと、長谷川さんは足早に道場から出て行った。
 そこまで急ぐ必要もないのにそうしたのは、いたたまれなかったからだろうと思った。
 俺は小さな足音が遠ざかり、そして完全にそれが聴こえなくなった途端、へなへなとその場にしゃがみこんだ。
「不意打ちにも、程があるだろぉ……」
 頭を抱えて、自分の膝にぼそりと呟いた声は、誰の前でも発したことがないくらい情けないものだった。
 しばらくそのまましゃがんでいると、やがて体のうちからドクンドクンと大きく鳴り響く音が小さくなっていき、徐々に外側の音が耳に入り込んできた。
 左右の壁にある窓すべてから、道場の傍に立つ木々の葉の擦れる音がする。
 風が吹くたびざわざわと耳に心地よく響くそれは、俺を少しずつ落ち着かせていった。
「…………」
 俺はゆっくり立ち上がり、履いていた靴下を脱いでぺたぺたと道場の中を歩き回った。
 引き戸の左手の隅には縦長の木の箱が置かれていて、鉛筆立てに入っている鉛筆のように、何本もの長さの違う竹刀が無造作に収まっていた。
 右の隅には背の低い物干し竿のようなものがあり、そこに何枚も汚れた雑巾がかかっていた。
 多分あれで雑巾がけとかするんだろうなぁと思っていると、風に揺れる葉の音以外の音が、廊下の方から聴こえてきた。
 俺は道場の真ん中あたりで、誰が来るのかと開いたままの出入り口から廊下を見た。
 光が入りにくく暗い廊下から姿を現したのは、灰色のトレーナーと黒いハーフパンツを履いた、六十歳くらいの頭の禿げたおじいさんと長谷川さんだった。
 多分さっき長谷川さんが言っていた先代の住職さんだろうな、と思いながら、すぐに入り口のところへ戻った。
「拓海さん、こちらが先代の住職でこの道場の管理をなさっている御園さんです」
 こんにちは、と頭を下げると、目尻にたくさんの皺を寄せ、人の好さそうな笑みを浮かべながら挨拶を返してくれた。
「今日はこの子が見学しますので、よろしくお願いします」
 長谷川さんが頭を下げたので、俺ももう一度小さく頭を下げる。
「どうぞどうぞ。いくらでも見てってくれ。昼間の稽古にはあまり学生は来ないが、夕方にはちらほらと近くの中学生が来るから、若い者同士のが見たいなら、夕方のも見ていくといい」
 どうやら今日も夕方に稽古がある日らしい。それを長谷川さんが時間がないという理由で丁寧に断ると、御園さんは特に気にした様子もなく、「なら仕方ない。また次の時の機会があったら見てってくれよ」と言った。
「剣道は初めてか、君」
「はい」
「そうか……。ん? 手の怪我、一体どうしたい? 剣道をやっているなら、打たれて怪我するってのはよくあることだが……」
 竹刀も振れんだろうに、と心配そうに右手に触れてきた御園さんに、俺はどう答えればいいかわからず、長谷川さんを見た。
「ちょっと転んだときに手を変についてしまったみたいで、しばらく包帯は取れないそうです。なので、今日は見学だけでお願いします」
 すかさず長谷川さんが助け舟を出してくれて、ホッと息をついた。だがすぐに俺にも普通に答えられたことだと気付いた。
 御園さんは稽古の前にやることがあるから、とその場を後にし、長谷川さんは着替えてくると言って、すぐ近くの男性用更衣室に入っていった。


This continues in the next time.
*ご意見・ご感想など*

≪BACK    NEXT≫


≪MENU≫