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 長谷川さんが更衣室に入ってすぐ、玄関口の方で足音がして大きな荷物をかついだ人が更衣室へ入っていくのを見て、稽古に来た人だとわかった。
 道場の出入り口の近くで、更衣室の出入りが見える位置に腰を下ろすと、数分後にまた何人かの人がぞろぞろと更衣室へ入っていった。またしばらくすると、背の高い人が何かを抱えて廊下へ出てきた。
 長谷川さんだ、と思ってすぐに立ち上がった俺は、暗い廊下から道場の明るさが届くところに来た長谷川さんを見て、一瞬固まった。
「はせ……」
 剣道の稽古、ということは、剣道着に着替えるのは、まぁ当然のことだ。
 その時の俺は、多分さっきの不意打ちで頭の回転が遅くなった違いない。道着や袴がどんなものかはさすがの俺にだってわかるし、だからちょっと考えれば長谷川さんがそれを着たときどんな風に見えるのかだって、容易に想像がついたはずだ。それを楽しむことだってできただろうし、普通だったらからかう余裕さえあったかもしれない。
 だが、容易に想像できたはずのそれを、何の準備もなく唐突に目に入れてしまったせいで、声をかけることも忘れて見入る羽目になった。
 たった数十センチ、時間にすればほんの一瞬、俺との距離を詰めた長谷川さんを俺はじっと見つめていた。
「どうかなさいましたか?」
 丁寧口調で訊ねる長谷川さんは、どこからどう見ても全身剣道ルックだった。
 使い古されて、色がところどころ褪せた紺色の道着に、折り目も正しく、大切に使われていることが一目でわかる藍色の袴をまとった長谷川さんは、剣道着そのものが持っている渋みやそれ以外の形容しがたい雰囲気によって、言葉も忘れるほど格好よかった。
 格好よく、男らしいのにどこか綺麗にさえ見えた。
「や、えと……その、かっこいいなぁと…思って……」
 私服姿を見たとき以上に格好よく見えたもんだから、それ以外何も言えずに「それ、つけるんだろ」と脇に抱えた防具を指して長谷川さんを急かした。
 長谷川さんは「ありがとうございます」と嫌味にならない調子で言って、入り口から向かって左側の壁際まで防具を脇に抱え、反対側の手に竹刀を持って移動した。
 俺はなるべく邪魔にならず、また長谷川さんに動揺を悟られないように、入り口の右脇に腰を下ろして胡坐をかいた。ここなら俺がどんな表情をしても、長谷川さんにはわからないだろうと思ったからだ。
 長谷川さんは壁を背にして防具と竹刀を床に置いてから正座をした。
 その綺麗な動作一つ一つが絵になりそうだと思いながら、道場の中でただ一人防具を付け始めた長谷川さんを眺める。
 苗字が書いてある腰巻のようなもの(何と呼ぶのかわからない)をつけた後、胴をとって片手でそれを自分の腹部に押し付けて支えながら、長い紐を背中で交差させて両肩で結び、最後に短い紐を後ろで結わいた。
 胴で隠れていた面が長谷川さんの前に転がっていたが、面は紐を解いて中から小手を出し、小手を下に敷くようにしてその上に面を置いて、体の脇に寄せただけだった。どうやら後でつけるらしい。
 おもむろに脇に置いた竹刀を持って立ち上がった長谷川さんと一瞬目が合って、ギクリとなりながら引き攣る頬で無理矢理笑みを作った。さっきから、どうしても心臓が高鳴ったままだ。
 長谷川さんも無言で微笑みを浮かべた後、道場の奥にある鏡の前へ行って、鏡の中の自分を見ながら、何かを確認するようにゆっくり竹刀を振り上げ、また同じように丁度腹の高さまでゆっくりと下ろした。
 それを数度繰り返した後、長谷川さんはその場から一歩引き、鏡と十分な距離を置いた。
「…………あ」
 遠くから見ていて、それはほんのわずかな違いだった。俺は出入り口の右側にいて、長谷川さんは奥の左側に立っているため、長谷川さんを斜め後ろから見るようになるのだが、その表情が、少しだけ変わったような気がした。
 変化を感じ取って無意識に小さく声を洩らしたのと、長谷川さんが素振りを始めたのはほぼ同時だった。
「…………」
 竹刀を頭の上でほんの少し傾く程度にまで引き上げた後、素早く振り下ろされる。しかし勢いのついた竹刀は、両腕が肩の高さでぴたりと止まった。
 竹刀を振り上げながら右足を音もなく一歩前へ出し、そして振り下ろすと同時に左足をさっと右足に引きつける。その度に背筋がすっと真っ直ぐな状態になり、そして元の位置に戻るために左足から一歩下がる。竹刀を振り上げる前の、静かな姿勢へと戻り、また滑らかかつ素早く、乱れなく素振りを繰り返した。
 俺は他の人が道場へ入り、長谷川さんと同じように左の壁際で防具をつけ始め、そして鏡のところへ行かずにその場で素振りをし始めても、じっと長谷川さんの動きを目で追っていた。
 ……すごく、綺麗だと思った。
 他の人だってやっていることは同じだし、ちょっと見ていると長谷川さんと同じく綺麗な素振りをする人がほとんどだ。いや、俺自身がそういうものを見慣れていないから、全員が全員綺麗に見えるだけかもしれないが。
 長谷川さんは他の人たちよりも背が高いから、凛と背筋を伸ばしたり、竹刀を振るという一連の動作でさえも際立って見えてしまうのかもしれない。
 もっと近くで見てみたいと思った。
 まだ稽古は始まっていないし、各自準備運動をする時間だと何となくわかった。今なら、道場の真ん中を突っ切って、鏡の前で素振りをする長谷川さんを間近で見ても何ら問題はない。
 だが俺はその場から動くことはおろか、立ち上がることもできなかった。
 近づくことなんて、できるはずがなかった。
「…………っ」
 心臓がドキドキしっぱなしで、顔も未だに熱を帯びているこの状態を、どう言い訳していいのかがわからなかったからだ。
 長谷川さんとわざわざ離れたところに座っているのは、俺の動揺を見られないようにするためだ。自分からのこのこ出て行ったら、まったく意味がない。
 稽古時間がいったいどれくらいなのかはわからないが、とにかく自分が早く長谷川さんの知らなかったところに慣れて、稽古が終わる頃には余裕を持って感想が言えるくらいになっておかなければならない。
 それでも長谷川さんを追う目の動きは止まらず、準備運動だからか、素振りのやり方を変えるごとに、俺はそれを近くで見ていたいという欲求を抑える努力をしなければならなかった。
 動きの変化に応じて見え隠れする顔は、俺を助けてくれたときと同じくらい真剣なものだった。ただ、あの時とはまとっている雰囲気がまるで違っていた。
 あの時は正面から真後ろに立ってナイフを突きつける男を見据える長谷川さんを見たとき、助けられようとしている俺でさえ恐怖を感じるほどの殺気に近いものがあった。だが今はそんなものは微塵も感じられず、純粋に真剣な表情をしていて、しかもどこか楽しんでいるようにも感じられる。
 そんな表情は今まで見たことがなかった。
 だから余計に、惹きつけられてしまう。
 何も感じる様子もなく、素振りを続ける長谷川さんを恨みがましく思った。
 本当に、不意打ちにも程がある。
 ぎゅうぅ……と胸のあたりがしめつけられるように痛んで、俺はそこを左手で押さえつけ、俯いた。
 熱い。
 痛い。
 心臓が、壊れて暴走した機械みたいだ。
 こんな風におかしな苦しみ方をしたのは初めてだった。
 やがて準備運動も終わり、合計十数人集まった人はほとんど五十歳、六十歳を超えるおじいさんばかりで、全員が壁際に横一列になって並んだ。女性は一人もいなかった。
 まぁ平日の昼間に集まれる人なんて、定年後の趣味でやってるような人くらいだろうな、とさっきから余裕のない頭でふと考えた。
 御園さんが最後に防具をつけた状態で面を持って道場に入ってくると、左の壁際に正座して並んだ全員が床に手をつけて礼をしたため、俺も正座になって見よう見まねで礼をした。
「君も一緒に並んで」
 御園さんは俺に向かって言ってから、正座して並ぶ列の、出入り口に近い方の端を指した。
 俺は無言で立ち上がり、急ぎ足で右端に正座をした。御園さんは反対の端に他の人と同じく小手を並べ、その上に面を置いてから正座した。長谷川さんは列の中央よりも奥に座っていた。
 隣に正座していた人が張りのある声を出し、道場全体に響くように「黙想!」と号令をかけた。
 黙想が終わり、正面、師範、そして互いに稽古をする門下生に対して礼をした後、一斉に面を着け始めたため、俺は立ち上がって邪魔にならないように再び先ほどと同じ位置に座った。最初のうちは正座をしていたが、面を着け終わってアキレス腱を伸ばしたりしていた人が近寄ってきて、「足、崩しててもいいよ」と親切に声をかけてくれたため、俺はその後からずっと胡坐をかいて稽古を見ていた。
 全員が縦に二列になって並び、隣にいる人と稽古をしてから、一度礼をして右隣に動き、また別の人と稽古をする、というやり方だったため、ある程度時間が経つと稽古をしている人は動き、同じ場所にいたのは御園さんだけだった。
 だがほとんど全員が動く中、俺は長谷川さんばかり見ていた。
 雄々しい声を上げ、互いを牽制し、機会を窺って、一瞬のうちに狙った箇所を打つ。少なくとも俺にはそう見えた。長谷川さんは準備運動の素振りをしていたときと同じ表情で稽古に臨んでいた。
 真剣な眼差しは、相手への最大の敬意であり、そしてより強くなろうと技を磨きながら楽しんでいるように見える。
 それは子供と同じくらいの純粋さだった。
 もっと近くで見てみたい。俺の知らなかった長谷川さんを、もっと知りたい。
 自分が打たれて、それを取り返そうと躍起になる姿。落ち着いて相手の動きを見極め、技を仕掛けて綺麗に決める姿。竹刀の先を小刻みに動かしたりしながらじりじりと相手の隙を誘ったり、先手を打って竹刀を振るう姿……。
 それらすべてを眺めながら、俺は実際にそうはならないとわかっていたのに、自分が泣きそうだと思った。
 どんどん胸のうちで膨らんでいくものが、俺の中では収まりきらずに、涙になって溢れ出そうとしている、そんな感じだ。
 心臓は相変わらず高鳴ったままで、顔どころか体中が熱くなっていた。
 ……この人は、どれだけ俺を惹きつければ気が済むんだろう。
 堪らなくなって、俺は逃げるように道場を出てトイレへ駆け込んだ。
 道場から聞こえる気合いの声を遠くに聞きながら、手洗い場の水をザーザーと出して何度も顔を洗う。
「……っ、……はっ……ぅ」
 蛇口から勢いよく飛び出した水流が排水口に吸い込まれていくのを見て、脈打つ全身を落ち着かせようとした。
「大丈夫ですか?」
「!」
 突然背後から聞き慣れた声がして、そのまま振り返ってから、徐々にゆっくりになっていた鼓動が再び早まっていくのを感じた。
 冷水を被ってもどうにもならない熱を持て余しながら、いつの間にか肩で息をしていた俺の前に、面を外した長谷川さんが立っていた。
「なん……で…」
「あなたが急に立ち上がって道場から出て行くのを見て、すぐに抜けてきました」
 親からあなたを預かっている身としては、稽古なんて二の次、あなたを追うことが最優先事項ですと、いつもの調子に戻って長谷川さんは言った。
「気持ちが悪いんですか? 顔真っ赤ですよ。熱でもおありなんじゃ……」
 本気で体調の心配をしている長谷川さんに、俺は力なくふるふると左右に首を振った。
「でも……」
「違うから……でも…大丈夫って、わけじゃない、かも……」
 かろうじて答えた時には、俺の中に理性は欠片も残っていなかった。
 熱に浮かされるまま、俺はふらふらと長谷川さんに歩み寄り、体が触れるほど接近した。
 防具と汗と剣道着の匂いとが混ざって、慣れない独特の匂いが鼻腔を衝いたが、あまり気にはならなかった。気にする余裕もなかったと言うべきかもしれない。
「ど…………っ!」
 肩に手を当てて顔を覗き込んできた長谷川さんに、俺は自然に口付けた。
 突然のことに驚いて口元が開いたままなのをいいことに、俺はそのまま口蓋のわずかな隙間から舌を滑りこませ、歯列をなぞり舌を絡ませた。
「ん……ふ、ぅ……ん……」
 舌先からちりちりとした小さな快感が伝わってくると、まるでそれに飢えていたかのように、俺の体はその感覚にふるりと身震いをして、さらにそれを求めた。
「ふ、っく……んん……っ」
 唾液が溢れて、口の端から零れても俺は濃厚なキスをやめようとはしなかった。
 より大きな快感が欲しくて、目立った抵抗もない長谷川さんに、積極的に舌を絡め、唇を甘噛みした。
 遠く聞こえていた稽古の音が耳に入らなくなり、口腔から頭に直接響く湿った音にびりびりと手の指先が快感に痺れてきたころ、長谷川さんがぐいっと無理矢理俺の体を引き剥がした。
「……っぁ、…………っ」
 熱は治まらず、俺は何でもいいから舌に刺激が欲しくて、肩口をつかむ長谷川さんの手を取って指に舌を這わせた。
 けれどすぐに手を引っ込められて、俺は長谷川さんの方を見た。
 長谷川さんが怖い顔で、目を瞠って俺を見下ろしていたが、どうしてそんな顔をしているのかわからなかった。
「……………」
 何も言わず俺を凝視する長谷川さんに、俺は「……帰ろ」と蚊の鳴くような声で無意識に呟いた。


This continues in the next time.
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