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 自分が一体何をしたのか、よくわかっていた。
 車の後部座席で、俺の一言にすぐさま稽古を抜けて帰り支度を済ませた長谷川さんが、トランクに荷物を積み込むのを俺は黙って待っていた。
 長谷川さんも何も言わなかった。
 けれど多分、考えていることは同じだと思った。
 走り出した車の中で、熱に侵されて未だに体が異様に興奮しているのがわかったが、俺自身にもどうしようもなかった。
 長谷川さんがそれをどういう風に感じているのか、そして車を走らせてどこへ行こうとしているのか。今すぐにでも触れたいという衝動を抑えつけながら、そればかりが気がかりだった。
 お互いに沈黙を守ったまま、長谷川さんは目的地へと車を走らせ、見たこともない外観のマンションの地下駐車場へ入っていった。
 スペースの一画にこれも華麗なテクニックで車を停めると、長谷川さんはやっと「降りてください」と何かを押し殺したような口調で言うが否や、俺の顔も見ずに車から降りた。俺もハッとなって車から降りる。
 広い駐車場からエレベーターに乗って四階に来ると、長谷川さんは間接照明に照らされた静かな廊下を突っ切って、一番奥の部屋の前に来た。
 ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差込み、こげ茶色のシックなデザインのドアを開け、俺は無言で中にいざなわれた。
 玄関は一般的な住宅のように靴を脱ぐ場所はなく、洋風に造られている部屋のようだ。
 だが長谷川さんはすぐに脇にある棚から真新しいスリッパを取り出して、その場に二組揃えた。
 靴を履いたまま居住スペースに入ることはやはり慣れないのだろうかと少し笑いそうになりながら、何も言わずに従う。
 廊下の手前にはマンションなのに階段がついていて、所謂ルーフつきの部屋なのだとわかった。真っ直ぐに見える開かれた空間は廊下から覗いただけでも、かなり広いものだとわかる。
 長谷川さんはすぐ手前の部屋に入ったので俺もその後に続いた。しかしそこがベッドルームだということに気付き、一気に顔が強張った。
 広い部屋だとか、ここが長谷川さんの本当の家なのかとか、何かしら言うことはたくさんあるのに、俺は綺麗にメイクされたキングサイズのベッドを見て、それから先に室内に入った長谷川さんを見た。
「…………あの」
「何ですか?」
 長谷川さんは壁際にあるクローゼットを開いて、ジャケットをハンガーにかけてしまいながら、何事もないような口ぶりで訊いてきた。
 いきなりあんなことをして、そして自分でもそれが何なのかわかっていないわけじゃない。それに今でも、体に熱は篭ったままで「そういう行為」を望んでいないと言えば嘘になる。
 無言で肯定的なのに、普段どおりで何も感じていないようなふりをする、長谷川さんの意図がまったくわからず困惑していた。
 すると長谷川さんはタオルと下着らしきものを持ってクローゼットを閉めてから、ゆっくりと俺の方へ歩み寄り、促す程度の力で俺を開けたばかりの寝室のドアに押し付け、視線を合わせるように姿勢を低くした。
 その時に見た長谷川さんの目は、またがらりと雰囲気が変わっていた。
 いつもの穏やかな目でも、相手を射殺しそうなほどの力強い目でも、さっきのように何かを楽しむような目でもなかった。
 確かなのは、それらのもの以外の何か、俺の知らない長谷川さんの中にあるものが宿っているということだった。
 本能的にその瞳の力強さを感じ取って、いたたまれずに肩を竦めた。でもそれは恐怖からくる震えとは異なるものだった。
「これから、シャワーを浴びてくる。もし、拓海さんがこれ以上のことを望んでいなければ、その間にここから出ていってくれ。エントランスから出て左に真っ直ぐ行けば五分ほどで最寄り駅に着く。サイドテーブルの引き出しに金が入っているから、それを使ってくれて構わない」
 そして今度は俺の顎を掴んで長谷川さんから深いキスをしてきた。
「んん……っ、は…」
 一度舌を絡めてすぐに離すと、長谷川さんは階段の下にある部屋へと消えた。
 少ししてシャワーの音が微かに聞こえてきたが、俺はその場に呆然としながら寝室のドアに寄りかかった状態で固まっていた。
 下肢が異常な早さで熱を持ったことに気付いて、ジーンズに抑えられたその箇所を押さえ、ずるずるとその場に座り込んだ。
「……ぅ」
 硬い布越しからでも、思った以上にやばい状態だと気付いた。
 あんな腹を探るようなキスに感じるとは自分でも思っていなかった。さっき自分が仕掛けたものに比べれば何でもないようなキスに、さっき以上に感じてしまったことが信じられない。
 長谷川さんを好きになるまで、ここ最近は恋人もいなかったし、二週間近く病院にいたせいで抜けなかったのもあると思う。相当溜まっているに違いない。
 俺は衝動に抗えず、その場でジーンズのジッパーを下ろして前を寛げ、下着に手を入れて直に自分のものに触れた。
「っ……ぁ、く」
 軽く握って全体を擦るように手を上下に動かしながら、もう片方の手で先端を刺激すると、先走りが溢れ出た。
 刺激をしている箇所から頭にかけて走った快感に顎を仰け反らすと、見覚えのない天井や照明が目に入り、ここが自分の部屋のベッドの上ではなく、長谷川さんの寝室の入り口であることを思い出す。
 だがそれで自身を弄る手の動きが止まるというわけではなく、むしろ、耳に心地よい長谷川さんの低い声や、さっきの言い様のない力を宿した瞳に射抜かれた感覚をまざまざと感じて、それだけで俺はのぼりつめてしまった。
「あ…あ、ぁ…っ」
 どろりと生暖かい液体を手の平で受け止めながら、肩で荒い息を繰り返して、火照った体が静まるのを待ったものの、状況はまるで変わらなかった。
 体を満たす熱も、耳に残る低く響く声音も、口腔に残る舌の蠢く感覚も……。
 どうすれば治まるのかと考えながらも、体はその答えを知っているようだった。俺は虚脱感の残る体で立ち上がり、覚束ない足取りで、長谷川さんの消えたドアへと向かった。
 ドアには鍵が掛かっていないようで、ノブは簡単に回り、ふらふらと中へ入る。
 洗面所兼脱衣所になっていて、正面に鏡と洗面台があり、その右側にはドラム式の洗濯乾燥機と、くもりガラスの窓がついていた。
 脱衣スペースには着替えを入れるためのかごが一つあり、そこに長谷川さんが着ていたジャケット以外の服が無造作に放り込まれていた。
 ぼんやりとそれらを眺めていた俺は、シャワーの水が床に叩きつけられる音が止んだことにも気付かないまま、その後すぐに風呂場から出てきた長谷川さんに驚いて後ずさってしまった。
 一糸纏わぬ姿で浴びたばかりの温水を体中から滴らせながら、長谷川さんは俺の存在に気付いて目を丸くした。そしてすぐ、視線が下肢へ集中する。
「……う、…え、と…これは……その……」
 俺もその反応に自分の下肢を見て、ジーンズの前が未だにはだけ、下着にわずかながら染みがついていることに気付き、我に還った。
 考えてみれば片手は自分で放った精液にまみれたままだし、どんな理由にせよ、こんな状態を人に見せるのは恥ずかしすぎた。
 だから、ジーンズに精液がつくのも構わずもたもたと前を直そうとした俺の腕を長谷川さんが掴んだときは、心臓が止まるかと思った。
 根はきっちりしている人だから、もしかしたら俺のこの様相を見てはしたないと怒っているのかもしれないと一瞬思ったが、どうやら違うようだった。
 マットに滴り落ちる水滴もそのままに、長谷川さんは掴んだ腕を引っ張って俺を引き寄せると、そのまま鍛えられた体で抱き込んだ。
 濡れた胸板に顔を押し付けるような状態になり、ふわりと漂う石鹸の匂いが、長谷川さんが「野暮用だ」と出て行って、帰ってきたときに香った匂いと同じものだと気付いた。
 長谷川さんは、道場へ行って稽古をしたあと、ここに寄ってシャワーを浴びてから宮村家へ戻ってきていたのか。
 だが今はそんなことを考えている余裕などないことを思い出す。
「……せがわさん……あの……」
「そんな格好で自分からやってくるくらいだ。覚悟はとうにできていると思っていたが?」
 素の口調で問いかける長谷川さんは意識しているのかそうでないのか、声のトーンが低くなって余計に響きやすくなり、俺はそれだけで若干腰を引かなければならなかった。
「………そうだよ」
「なら、今更戸惑ったり、逃げたりするのはやめるんだな。もう遅い」
 何が、と訊ねる間もなく、噛み付くようなキスで口を塞がれてしまった。
 手を回そうとして、片手が物凄いことになっていることを思い出した俺は、キスの合間に長谷川さんに頼んだ。
「長谷川さ……ごめ、俺……俺も、シャワー浴びたい……」
 股間も手もべとべとしていてあまりよろしくない状態だったのが単に嫌だっただけなのに、長谷川さんは「わかった」と言って何故か俺を連れて出てきたばかりの浴室に戻った。
「寝室に行ったからって、大して準備しているわけでもないしな。むしろこっちの方が助かる」
「……?」
「とりあえずソレは脱げ。濡れると脱ぎにくくなるぞ」
 俺は先の言葉に引っかかりを覚えながら、言われたとおりにもたもたとジーンズを脱いで脱衣所に戻し、また浴室のドアを閉めた。


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