-終-


 目が覚めると、俺はふかふかのベッドの上に横たわっていた。
 体は髪も含め完全に乾いていて、何となく、タオル地のようなものを身に纏っていることがわかった。
 意識はぼんやりとしていたが、自分の身に起きたことは全て覚えていた。光の量を絞った照明を見るともなく眺めながら、むしろ心地よいとさえ感じる甘い倦怠感に、身じろぎもせずにいた。
「目が覚めましたか?」
 上から顔を覗き込んできた長谷川さんに、俺は首を小さく上下に動かした。声を出そうとして、掠れた息が洩れた。
「すみません、年甲斐もなく焦りすぎました」
 申し訳なさそうに丁寧に謝る長谷川さんに、何だか妙な気分になった。人格が違う(多分)と頷けるようなことでも、元に戻ってみるとそんなことするような人には思えない。
 おかしさに笑いそうになりながら「いいよ。何も長谷川さんだけのせいじゃない」と言った。
 心地良い、と思った。
 時間には限りがあって、いつまでも続く時間なんて、この世には存在しない。一瞬一瞬が繋がって今という時間は流れている。
 母さんが、この一瞬を繋ぎとめておきたいがために壊れてしまったのだとしたら、それは仕方のないことなのかもしれないとさえ感じた。
 理人や、親と一緒にいるときとは違って、何もなくても、一緒にいるだけで満たされた気分になる。
 この感覚を一度知ってしまったら、誰もがそれに依存するだろう。
「長谷川さん」
 全てを話すと言って、ここまで何も話さずにきてしまっていた。
 自分でも驚くほどに無防備になっていた意識には、遮るものなど何もない。
 何ですか、とどんな音楽よりも心地良く耳に響く声に促されて、俺は少しずつ言葉を紡いでいった。
 今の母が産みの親ではないこと、実の母がどんな人だったのか、その母から自分が何をされていたのか、そして母がどうなってしまったのか。
 今になってよく夢を見るようになったことも含めて、全てを話した。
 若干掠れ気味の声で一方的に話すのを、長谷川さんは最後まで何も言わず、ただ俺の顔を見てそれを聞いていた。
「そんな親を見ながら小さい頃は育ったし、一人で悩んで抱え込む癖がそっくりだとも言われたこともある。いつか母さんみたいに、長谷川さんや周りの人を同じように傷つけるのが、俺は怖い」
 だから依存したくなかったのに、無防備でいられるこの瞬間にさえ、依存しそうな自分がいる。
 臆病だと言われても、この不安ばかりはどうしようもないことだった。
 それでも俺は、この人と一緒にいたい。そう切に願いながら、縋るような目で長谷川さんを見つめ返した。
「安心しろ」
 素の口調で言われ、大きな手で頭を優しく撫でられる。
「前にも言っただろう。俺は簡単には傷つかない。絶対と約束はできないが、できる限り拓海さんの傍にいるし、拓海さんが呼べばすぐに会いに行く。悩みがあるなら言ってほしい。俺は拓海さんを守ることはあっても、傷つけることはしない」
 よどみないその言葉は揺るぎなく、心の奥底にあるものの暗さや重みがするすると解けて霧散していくような気分になった。
「……うん。ありがとう、長谷川さん」
 この先、俺は何度同じことを考えて、長谷川さんに対して吐き出すことがあっても、きっと大きな手で同じように頭を撫で、変わらない言葉をかけてくれるだろうと思った。
 丁寧な言葉ではなく、本当の長谷川さんらしさでもって答えてくれた。その事実さえ、今の俺にとっては幸福の一つだった。
 長谷川さんの真似をして、今の気持ちを伝えるようなつもりで微笑む。すると長谷川さんは、とても敵いそうにない柔和な笑みを浮かべて、自然に俺の額に軽く口付け、またいつもの丁寧語に戻りながら言った。
「乾燥機にかけていた服が乾いたので、持ってきましたから、着替えてください。そろそろ時間ですから」
 我ながら恥ずかしいことをされたと思いながら、一瞬何のことかと首を捻る。
「何の?」
「あなたのお母様に、あなたを家に無事送り届けると約束しましたから」
 長谷川さんは、まるで十二時の鐘のように夢の終わりを告げる。
 そういえばそんなことを言っていたかもしれない、と窓の外を見るとすっかり真っ暗になってしまっていた。
 帰りたくない、と口から零れそうになった言葉を飲み込んで素直に頷いた。
 帰りたくない、なんて。……俺は乙女か。
 冷静に考えれば恥ずかしいことこの上ないが、自然にそんなことを考えてしまえるほど、逢瀬を惜しむということは初めてだった。
「そんな露骨な顔しないで下さいよ。帰したくなくなるじゃないですか」
「……え?」
「私は大人ですし、あなたの家族からの信頼を得なければ、あなたを連れまわすことも叶いませんから。しばらくは我慢することにします。その代わり、会ったときはそれ相応の付き合いをさせてもらうつもりですから、覚悟しておいて下さい」
 それ相応の付き合いって……。
 柔和な顔つきに、一瞬何やらただならぬものを感じた。
 俺はその意味深な言葉の思惑を探る間もなく、考えていることが顔に出てしまう。
「そんなに可愛らしい反応をされると、困りますね」
「どこがっ」
 からかうように、今度は唇を掠めるようにキスをして離れた長谷川さんに向かって、手元にあった枕を思わず投げてしまった。
 それを足の動きだけで躱すと、床に転がった枕と綺麗に畳まれた俺の服をベッドに置いて、「照れ隠しですか?」と長谷川さんは小さく笑った。
 悪いか。俺はあんなことをされるのには慣れてないんだ!
 心の中で言い返しつつ、軽く睨む。
「そんなに怖い顔をしないで下さいよ。着替えが終わりましたら、夕飯にしましょう。もう出来ていますから」
 そろそろお腹も空く頃だと思ったので、と言う長谷川さんに、俺は目を丸くした。
「長谷川さん、料理できんの!?」
「ええ、まぁ。料理長のように手の込んだものは作れませんが、軽食程度のものなら一通りは」
 夜の稽古の後、ここでシャワーを浴びるついでに軽食を自分で作って食べてから宮村家に戻ってきていたらしい。
「……味の保証は?」
「それなりに」
 少し意地悪く訊ねると、多少の自信はある、というような口振りですぐに長谷川さんは答えた。
 本当は美味しくても美味しくなくても、長谷川さんが俺のために作ってくれたこと、それだけで空腹も満たされそうだった。
「なら、楽しみだな」




End
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