-4- ―――誰かが、今にも泣きそうな声で話していた。 ねぇ、今日も帰って来れないの? ……お願いよ、早く会いたいのに。 きっとよ、きっと明日には帰ってきて。 …………。 ―――「あの人」が望んだから、私はあんたを産んだの。 何でっ、何で……ッ、わかってくれないの。 あんたなんか、私はいらないの! どっかにいって! あんたの顔、見たくないっ。 ……っ……ぅっ……ッ。 早く、早く帰ってきて。ねぇ……ッ。 ……その人は、痛々しいまでにか細い声で、声を押し殺して泣いている。 とても寂しがっている。そんな気がした。 でも、俺はその人に触れることができない。 俺が俺だから、触れることができないのをわかっていた。 この人に触れられるのは、この人が待ち焦がれている「あの人」だけだ。 金切り声を上げて、傷つけているのは、誰? この声は、言葉は、誰を傷つけているんだろう。 俺? 「あの人」? ―――あなた? 「……くみさん、拓海さん」 「――――っ、ぇ?」 両肩を軽く揺すられ、俺は目を覚ました。 気付くと車はどこかの広い駐車場に止まっていて、肩を揺らす人は、俺が寝ぼけまなこのままのっそり顔を向けると、にこりと微笑んだ。 「おはようございます。本屋さん、着きましたよ。駐車場と店舗が離れているので、少し歩くことになります」 「……ふあ、っ…ぁ〜い」 あくび交じりに返事をすると、長谷川さんは俺が手を伸ばす前にシートベルトを外してくれた。 財布だけを制服の後ろのポケットに入れて車を出てから、同じ姿勢ですっかり固まった体を伸ばす。秋のどこか懐かしい匂いの空気を同時に吸い込むと、肩と背中の真ん中あたりが小さくきしんだ。 ついでに軽く首も左右に振るとコキコキと音がして気持ちが良かった。 数歩先で、急かさずに待っていてくれる長谷川さんに「何か体が固まっちゃったよ」と笑って、歩き始めた。 「ところでココ、どこ?」 「皆林堂っていう大型書店です。新書を探すのであれば、組や拓海さんの家の近くの本屋よりも種類が揃っているので、少々遠いですがおすすめです。拓海さんのアパートからだと……駅四つ分ですかね。でも駅からは徒歩五分で着きます」 「へぇ。じゃあ来れない距離じゃないな。長谷川さん、本屋めぐりが趣味だったりすんの? よく知ってる」 経済書とかなら今でも必要な分野だろうし、無縁というわけではないかもしれないが、ヤクザという一般的なイメージとはやはりかけ離れていて、思わず目を丸くする。 すると長谷川さんは頭の後ろをぽりぽりと掻いて苦笑いを浮かべた。 「まぁ……随分昔に色々と読み漁った経験があるので。丁度拓海さんの年と同じ頃でしたね。今も時々読みますが」 そして長谷川さんは俺を見ると「拓海さんも、今の時期はたくさん本を読んでおいた方がいいですよ」と諭すように言った。 「みんな同じこと言うのな。でも俺、活字見ると頭痛くなるんだよなぁ」 「では、ついでにそんな拓海さんでも読める本も選びましょうか。最近のものは忙しくてあまり読んでいないのでわかりませんが、ここ一年くらいの作品で面白いと思ったものを何冊か。新書だけでなく、品揃えのいいところですから」 そっちには持っていきたくないと思ったからわざとそう言っただけなのに、長谷川さんは蒸し返すどころかさらに取り返しのつかないところまで持っていってしまった。 もっと別の言い方で逃げれば良かった……。 軽く唸ると、右隣で「大丈夫ですよ。ちゃんと面白いですから」と長谷川さんはぽんぽんと俺の肩を叩いた。 そんなこと心配したんじゃないっつーのに。 また、だ。また長谷川さんのペースに持っていかれてる。 俺なんかが抵抗したところで敵うわけがないってことは何となく予想がつく。でもやられっぱなしは男として悔しい。たとえ相手が二十年以上も長く生きている人生の「大先輩」だとしても、だ。 何かないかな。 ……何か。 考えてみて、とりあえず思い浮かぶのが若さだけっていうのが余計に情けなくて、考えない方がよほどマシという結果に行き着く。 先ほど見た暗い夢と一緒に、さらに気分を落ち込ませた。 あの夢を見るのは、何年ぶりだろうかと思う。 もうすっかり忘れていた。 いや、思い出さなかっただけだ。本当は、意識の奥底に根強く残っている。 でもそれは仕方のないことだ。 俺があの人の子供だという事実は変わらない。 今更思い出しても、何も思わないほどには慣れていた。 「あ、信号。本屋さんって、あの向かい側のとこだよな?」 目の前で歩道の青信号が点滅し始めたのを見て、俺は長谷川さんに訊いた。道路を挟んだ向かい側の建物の入り口には、ローマ字で「Bookstore KAIRINDO」とある。 「そうですね。ちょっと急ぎましょうか。時差信号機で、待ち時間も長いですし」 言うがいなや、俺と長谷川さんは同時に小走りになって、歩道の手前のガードレールの隙間から道路に入り、車の目と鼻の先を走り抜けた。 そのままの勢いで本屋の前まできた。外から見ても、結構大型の店舗なのだとわかる。 「さ、行きましょうか」 心なしか楽しげに聞こえる長谷川さんのその言葉に、思わず「マジ、レポート用の本以外はいらないから」と呟いて中へ入った。 店内は入ってすぐ、長谷川さんは案内板も見ずにエスカレーターで二階へ上った。ちらりと見た一階部分は奥行きがあり、ついでに帰宅の時間帯ともあって少し込んでいた。 二階に着くと、これまた奥まで続く本棚の列の、三番目くらいのところに長谷川さんは迷わず入った。かなり通い慣れているとみて間違いない。俺は広い店内の背の高い本棚と並ぶ書籍を横目に、すたすたと先へ行く長谷川さんを追いかけてその場所に入った。 すると両側の棚全てに、学校の図書室でも見かけたことのある装丁の新書がずらりと並んでいた。 「……っ、わ、すげ……。ここ全部新書?」 学校の棚一つ分なんて比べ物にならない数の本やさまざまなジャンルに、目が回りそうだった。 「ええ。ここと、あと隣の両棚とこの裏の棚も全部そうですよ。こっちの棚には比較的文体や論理構造がしっかりしていて、わかりやすい著者の本があります。まぁあまり変わりはないんですけど、個人的な感想として。……ところで、レポートのテーマとかはもう決まっていますか?」 適当に「現代の家族間におけるコミュニケーションの現状」という題の本を手にとっていた俺は「家族間の問題ですか?」と言われて、すぐにそれをしまった。 「いや、えーと……何でもいいから環境問題について何かテーマにしろって言われてんだけど、それもさっぱりで……。テーマ決定が一週間後で、提出が学期末。枚数制限なしだって」 何とも面倒な課題を出してくれた社会の教師と全く同じ言葉を復唱し、環境問題自体あんまり興味持ったことないし、とぼやいた。 レポートも化学の実験やら体育の授業レポート以外は書いたことがないため、論文の形式自体よく知らない。適当に何冊か流し読みして、重要そうな部分を抜き出して書き方を自分流にアレンジして組み合わせていけばいい、くらいにしか思っていなかった。 すると長谷川さんは意外にも難しい表情をしてみせた。 「何、何か俺変なこと言った?」 「いえ、随分と厳しいと思いまして。…本来レポートや小論文などを真面目に一本書こうと思った場合、まずテーマを決めるのに最低でも二週間は必要です。環境問題というのなら、二酸化炭素の排出やオゾン層破壊など、とにかくそれについて書かれている本をたくさん読んで、それがレポートのテーマとするのに値する内容かを吟味し、そしてテーマの内容を深く掘り下げて、なるべく具体的にし、またそれによって範囲を限定していく必要があります。テーマを決めるのに時間が必要なのは、それらの下調べに費やす時間がいるからなんです」 あまりに唐突に「レポートの書き方講座・基本編」的なことを話し始められて、一瞬何のことを話しているのかがわからず、レポートについての話だと気付くと、今度はレポートの何を話しているのかがよくわからなかった。 「……は、ぅ…え……?」 「それから限定範囲を含めたテーマそのものが決まってからは、そのテーマに近いものだけでなく、あまり関連性のないものまで幅広く知識を集め、その中から必要だったり、使える知識を拾っていく作業に入ります。そうしなければ、レポートの中身自体が薄っぺらくなって、ちょっと専門知識のある人に読まれたときに、よくわかっていないのだという風に捉えられかねませんから」 「……はぁ」 「まぁ文句を言っていても仕方ありませんね。決められた期日は守るのが、提出物の最低限の原則ですし。とにかく、環境問題というのであれば、拓海さんのわかる範囲内でなるべくテーマを限定していく必要があります。……拓海さん?」 「……へぁ?」 ぽかんとしながら話をただ流し聞いていた俺は、いきなり名前を呼ばれてつい間抜けな声が洩れた。 ポン、と肩に手を置かれてギクリとなり、目を何度か瞬きさせると、普段どおりの長谷川さんが「大丈夫ですか?」と心配そうに顔を覗きこんできた。 「あ、う……うん。な、何の話、だっけ……?」 「レポートのテーマです。環境問題の何について調べようと思っているのか、訊いたんですよ」 「えと……ち、地球温暖化……かな」 やっと自分の理解できる短い言葉が耳に入ってきて、俺は何とか考えていたことを口にした。 「温暖化ですか……。私もあまり環境問題については考えたことはないので、偉そうなことは言えないのですが、地球温暖化問題についてはこれまでに様々な論文が出ていますし、多くの人間が何冊もの本を書いています。また論理上の意見だけでなく、科学の分野からも様々な研究がなされ、さらに多くの文献や資料が出ていると思うので、「地球温暖化」というだけでは漠然すぎて何を中心にレポートを展開していくのかを決めるには不十分ですね。かといって、私もそれ以上詳しいことはあまり言えないので……うーん、地道に探していきましょう」 「う……うん……?」 にこりと善意のみの微笑みを浮かべて、棚から目的の本を探し始めた長谷川さんの隣で、俺は困った。 いつも日常的な会話しかしなかった人からいきなり小難しい話をされて、頭が回転せずに全て理解出来なかったからだ。わかったのは、とにかくレポートを書くのには時間が必要だというところまで。 ……正確には、呆気に取られすぎていてまともに話も聞けていなかった。 だって普通、保育士が突然高校の先生に化けるなんて誰も思わないだろ。 レポートに使う地球温暖化に関連する本を探せばいいとわかっていたが、それだと長谷川さんに悪い気がして。 「ごめん長谷川さん。……もっ回、言って?」 とても言いづらかったが言うしかなかった。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |