-5- 「何か……両手が重たいんだけど」 「それはそうでしょう。これだけの量を持っていれば。私も久しぶりに買いました」 「って、長谷川さん自分が読むものなんて買ってないだろ。全部俺が読むの、これ」 「当然です。そのために買ったんですから」 新書にしてもハードカバーの純文学にしても、読むのには時間がかかる。だから図書館で借りるより買ってしまったほうが焦らずゆっくり読めて、頭にも入りやすいというのが長谷川さんの持論らしい。 でもさ。 だからってさ。 何も二十冊近く買わなくてもいいと思うんだ。 ずしりと両の手にかかる紙の束の重さに、思わず呻き声を洩らした。 ご丁寧にも、再度懇切丁寧にレポートの情報収集の重要性を説きながら、長谷川さんは次々とテーマと関連性があると思しき本をとっては俺に見せ、新書の棚だけでも五、六冊は選んだ。 テーマ決めの期間は一週間だから、こんなに買っても読めない、と言うと、その中の一冊を見せながら「この本には基本的なものが要約されているので、そこからテーマの具体的なものを見つけられると思います。ほかの本は、この中にあるものをもっと深く書いてあるものなので、用途に応じて読めば大丈夫でしょう」と有無を言わせずにお買い上げ。しかも俺の本なのに、何故か長谷川さんが全額持ってくれた。 次に「読書の習慣をつけるのも大事です」と言って新書コーナーから文芸書コーナーへ移ると、長谷川さんが過去に読んだことのあるもので比較的読みやすく面白いと選んだ本が十冊ほど。最近映画化されて読んでみようかなと思っていた(あくまで「かな」だ。そこまで読みたいと思っていたわけじゃない)本も、じゃあそれも買いましょう、と即決された。 そして今、「ただの紙」だったものは「元は木だった紙」になって、俺の両腕を容赦なく引っ張っている。 結局俺は財布を出すこともなく、長谷川さんが札入れから諭吉さん数枚でちゃちゃっと勘定を済ませてしまった。 たった一冊だと思っていた買い物が、いつの間にか新書と文芸書の大人買い。 本屋で大人買いをするのを見たのは、生まれて初めてだった。本に何のためらいもなく万札を出す長谷川さんの感覚が異様としか思えないのは、単に文芸書を買う習慣がないだけなのか。 「長谷川さん、て……高校生の時、本の虫だったわけ?」 両肩もげる……と喘ぎながら訊ねると、これくらいは私の周りも含めて普通に読んでいましたよ、と当たり前のように言われる。 それはどこの世界での「当たり前」なんですかー。 長谷川さんは何の含みもなければ、嫌味でもなくそう言ったために、俺はただそれに絶句するだけだった。 「片方、持ちましょうか。その量はやはり一人では無理でしょう」 歩くペースがだんだんと遅くなっていくために、長谷川さんは立ち止まって、ハードカバーの文芸書が入った紙袋の取っ手を持つ。 「……いい。そんくらい、自分でできる」 「無理をして。指、真っ赤じゃないですか」 長谷川さんはもう片方の手で手首を強めに掴むと、俺の指を取っ手から外した。本の重さで指全体が圧迫されて、所々紫色にまでなっていた。相変わらず鋭い洞察力だ。 本も読まなければ、レポートを書いた経験もない。知識も教養も、長谷川さんには到底及ばないことが何となく悔しくて、意地になってまた袋の取っ手を掴んだ。 「全然平気だから。すぐそこなんだし、自分のもんは自分で持つ」 本当はきりきりと細い取っ手が手に食い込んで痛かった。長谷川さんはそれに気付いている。 「ダメですよ。手が切れてしまったらどうするんですか」 取っ手を引いて紙袋を半ば強引に長谷川さんの手から離す。ぐらぐらと揺れて指の圧迫が酷くなったが、それも表情に出すことなく、数メートル先まで小走りに進んでから、平気さをアピールした。 「そん時はそん時。ほら、もうすぐそこ……っ、わ!」 振り返って、心配そうな顔をしている長谷川さんに笑ってみせようとした時、俺は横から誰かにすごい勢いでぶつかられた。 その衝撃で歩道から路肩に倒れこんだ俺は、クラクションの音に体を強張らせたが、クラクションを鳴らした車はそのまま俺を避けて走り抜けていった。 幸いにも紙袋の中の本は両方の袋とも大人しく収まっていて、ほっと息をつく。 自分と本の無事を確認したところで、わざとぶつかられたということに気付いていた俺は、歩道脇で同じく尻餅をついていた男に文句を言おうと立ち上がった。 普通に歩いていたら、歩道から飛び出るほど派手に転ぶわけがない。 ―――なんつータチの悪さだ。マジムカつく……! 自分が余所見をしていたのも事実だが、あの勢いは間違いなくわざとだった。 ……が。 「おいガキッ! 何処見て歩いてんだよオラァ」 「…………っ」 先に怒鳴ったのは倒れた相手の連れらしい男だった。スキンヘッドで目つきの悪い、チンピラのような男が、ヤニ臭い息を撒き散らしながら俺のシャツの襟を掴んできた。一瞬、その勢いに怯む。 おい、おい、おい。 何で俺が怒鳴られる側なんだよ。 こっちは危うく車に轢かれるところだったんだぞ。 そっちのは単にコケただけじゃねぇか。 「はぁ? 知るかよ。そっちがぶつかってきたんだろ。じゃなきゃ歩道のど真ん中からどうやって車道にまで飛び出すっつーんだよ。謝るんならそっちだろ。こっちはそのせいで死にかけたんだぞっ」 紙袋を足元に置いて、襟を掴む手を引き剥がしながら、すぐに言い返す。本当にふざけんなって話だ。 数センチ上から見下ろすハゲ男の目を挑戦的に睨み返していると、男の後ろから呻く声が聞こえた。 「っ……つぅ、傷が……」 「大丈夫ですかっ、狩谷さん!」 見ると脇で座り込んだままの三十代後半くらいの男が足を抱えて苦痛に表情を歪めていた。 俺と対峙していたハゲ男は、その異変にすぐさま駆け寄る。 けっ、いい年して、当たっておいて自分で怪我してりゃ世話ないぜ。 ふん、と鼻を鳴らしてそのまま無視して行こうとしたとき、後ろから長谷川さんが声をかけてきた。 「大丈夫ですか?」 「うん。何か向こうからぶつかってきたくせに、自分が怪我してやんの。行こ行こ、やってらんねぇ」 「おいコラ、テメェ待ちやがれッ」 さっさとその場から離れようとしたとき、荒々しくまた怒鳴り声を上げてハゲ男が呼び止めた。 何なんだよ、一体……と思いながら二人の男の方を見ると、先ほどとは明らかに様子が違っていた。 座り込んでいた男のズボン、左足の脛の部分が何かで黒く染まっていた。 よく見て、それが血であると気付いたとき、またハゲ男が喚く。 「テメェが余所見してっから、そのでけぇ紙袋が当たって、傷口開いちまったんだよッ。どうしてくれる!」 語気荒く捲くし立てるが、そんなことは俺の知ったことじゃない。それに、確か袋には何も当たらなかった気がする。 ますます変だ。 周囲にはその異変に気付いた人が集まってきて、とっとと逃げたい気分だったが、何故か俺が加害者に仕立て上げられていて、そっちが悪いんだろと言っても、押し付けているようにしか見えない。 我ながら、冷静に考えて嫌になった。 どうしよう、と長谷川さんを見上げると、長谷川さんはジッと座り込んでいた男の血の滲む足を見ていた。 初めて長谷川さんのことに気付いたらしいハゲ男が、百九十近い高身長の長谷川さんを見上げて「なんだテメェ、やんのか」と無謀にもメンチを切る。 「いえ別に。怪我が酷いのでしたら、こんなところで喧嘩を売っていないで病院へ連れて行ったらどうですか?」 「あの足の治療費、テメェが払うって言えばとっとと行くんだよ。見りゃわかんだろ。加害者はそっちだってな」 「ちょっ……元々そんな足の悪い人が、普通に歩けるわけがない。明らかおかしいだろッ」 長谷川さんだって、うそ臭い怪我に気付いていないはずがない。今時古臭い、典型的な「慰謝料請求詐欺」だ。 「ンだとぉ……。ガキの癖に、口答えしてんじゃねぇ。テメェのせいだっての自覚しろっつってんだよ。痛い目見てぇのか、あぁ?」 ハゲ男は長谷川さんから視線を外すと、ギロリと鋭い目つきで俺を見据えた。 「ガキみたいな大人に言われたかないね。ハッタリはきかねぇよ。やれるもんなら、やってみろ」 単なる脅しだと思っていた。だからどんなに凄まれても、とことん睨み返してやった。 だが、俺のその考えは甘かったらしい。 「上等じゃねぇか、よッ」 ハゲ男はいきなり拳を構えると、両手が塞がって受身を取れないに向かって容赦なく殴りかかってきた。 ―――うっそ、マジ。 両の手が重さで軽く痺れていて、とっさに持ち上げることもできず、避けられない、と目を瞑った。 ガツッ、と。 その場に、肉のぶつかり合う音が小さく響く。 俺は肩を竦ませた。しかし痛みどころか衝撃すら感じられなくて、小さく目を開けると、目の前に黒い大きな背中が見えた。 「長谷川さん!」 「っ……たかだか高校生相手に、いい大人が手を上げるもんじゃないですよ。ご要望どおり、治療費はお支払いしましょう。それでこの場はとりあえず収めていただけませんか」 長谷川さんは鎖骨あたりを殴られていた。それでも足を一歩後ろに引いただけで、顔色一つ変えずに財布を取り出すと、札を全て抜き取ってハゲ男に突きつけた。 「最初から、そうしときゃいいんだよ。……フン、図体だけで殴り返す度胸もない腰抜けが」 「なっ……! ふざけ―――」 「行きますよ、拓海さん」 小さくてもはっきりと聞き取れる声でせせら笑ったハゲ男に、さすがの俺もキレたが、長谷川さんはそれ以上騒ぐなといわんばかりに俺の背中を押して駐車場に促す。 左手に持っていた紙袋も、いつの間にか長谷川さんの手に提げられていた。 ぶつかって傷が開いたって、あいつらの方が悪い。どうして長谷川さんがわざわざ大金払わなきゃいけないんだと、未練がましく振り返る。 すると地面に座り込んでいた男は支えられながら立ち上がり、路肩に停めてあった車に乗り込むのが見えた。片方の手は赤く染まっていて、何故かビニール袋のようなものを握っていた。 「…………?」 何だアレ。 思わず立ち止まって考える。 血まみれの手の平のビニール袋、何であんな状況でビニール袋を持っているのか、最初はあんなもの持っていたか、と考えていると、長谷川さんに呼ばれた。 車に戻って後部座席に本の入った袋を入れ、また助手席に乗り込んだとき、あの血が本物ではないことに気付いた。 「長谷川さん……血のり袋だよ、アレ」 ふつふつと湧き起こる怒りに、思わず洩らしたその言葉にも、長谷川さんは冷静に相槌を打った。 「……知っていましたよ、最初から」 「じゃあ何でっ……いくらでも変なところはあっただろ! しかも最後の……あんなことまで言われて、何で長谷川さん、黙って言うこと聞いたんだよ!?」 「ああいうのは、相手にしないことが一番なんです。下手に騒いで、向こうの息のかかった病院にでも行ってごらんなさい。余計ややこしいことになる。それに、あの場であれ以上言い返していたら、拓海さんも転んだだけでは済みませんよ。私の仕事はあくまであなたを無事に家まで送り届けることなんですから」 「病院じゃなくて、先に警察だろっ」 「警察でも同じです。……この辺りは宮村と隣の組のシマの境界域なんです。大抵地元警察と暴力団組織というのは密接に繋がっていますからね。下手をすると、相手にされない場合もあります」 だから、余計な騒ぎを起こさずにその場で済ませるのが一番賢いやり方ですよ、と、長谷川さんは柔和で優しげな表情を引っ込め、至極真面目にそう言ってエンジンをかけた。 「一般人は……それがいいのかもしれないけどさ……。長谷川さん、ヤクザだろ? 悔しくないわけ、あんな言い方されて」 「悔しいですよ。ですが、あなたを無事に送り届けるという使命が最優先です。人を傷つけるだけのプライドなど、私は迷わず捨てますよ。……組を侮辱されたわけでもありませんしね」 悔しいどころか、意にも介していないというような口調言うと、それっきりで長谷川さんは口を閉じてしまった。 一発くらい殴り返しても、罰は当たらないと思うのは俺だけなのか? ちらりと横目で長谷川さんの様子を盗み見る。 長谷川さんは気にする様子もなく、何事もなかったかのように運転している。相変わらず丁寧で、怒りに任せてアクセルを踏み込むなんてことは全くなかった。 あんなことを言われたら、普通の人だって頭にきてもおかしくない。なのに長谷川さんは全くの平常心だ。俺だけが無意味に熱を上げていて、当人の冷静さに逆に苛立たしささえ感じる。 「…………」 ……何で俺がこんなにムカムカしなきゃいけないんだよ。 自分でも険しい顔になっているのが嫌というほどわかる。他人のことでこんなに腹立たしく感じたのは、多分これが初めてだ。 とにかく、落ち着け、俺。 アパートの方向に向かって進む車から、徐々に見慣れたものへと移りゆく景色を眺めて小さく息をつく。 ……長谷川さんは、知れば知るほど一般的に認識されているヤクザとは、正反対の気質の持ち主だとわかる。 この人なら、いくらでも転職の口はあると思うのに。 「……あぁ」 突然、長谷川さんが思い出したように声を洩らす。 「何……?」 「面倒ごととはいえ、実際に被害を受けたのは拓海さんです。あんなにあっさりと言いなりになったのを怒っているのなら、謝ります」 なんだそんなことか、と思いそうになったが、ここで長谷川さんが謝るのは筋違いだ。 確かに苛々もしている。でもそれはそんな理由からじゃない。 だから俺は何も言わずに、ただ首を左右に振った。 「…………」 結局のところ、この人はいい人過ぎる。 いい人過ぎて―――呆れる。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |