-7-


 今日の夕飯は天ぷらだった。
 サクサクの衣、しゃきしゃき野菜、ぷりぷりの海老。
 ほかほかご飯とつゆにつけた天ぷらを交互に食べて、それはもうほっぺたが落ちそうなほど美味しかった。
 何食わぬ顔でいつもと同じように食卓を囲み、宮村の「じゃれあい」に辟易した理人の逃げ場にされて呆れ、理人を引き寄せようと腰を浮かせる宮村を軽く窘める長谷川さんと、息子が食事中にサカるのをただ眺めながらビール瓶をコップに傾ける剛さん。変わらない光景だ。
 違うのは、俺だけだった。
 夕飯から帰るまでにやったゲームに至るまで、一度も長谷川さんの方を見ることが出来なかった。
 それに長谷川さんが気付かないはずもなく、車の中でそれはもう単刀直入に訊かれた。
 何かあったんですか? と。
「…………別に、何も」
 ハンドルを操りながら、時折視線を投げ寄越して、責めるわけでもなく、無理に言わなくてもいい、と言外に語る口調で。
 俺はそんな気遣いですら白々しいものにしか感じられず、自然と返す言葉は簡潔かつ感情の篭らないそれになっていく。
 そして確かに、本当のことを言った。俺の身には実際何も起こっていない。
 逆に俺が言いたい気分だった。
 何かあるのは長谷川さんの方なんじゃないの、と。
 喉まで出かかったその言葉が何よりの地雷だということを、理解しているつもりだ。だからそれ以上、何も言わないでいた。
「…………」
 沈黙だけが、俺と長谷川さんの間に漂う。
 それがなるべく悪い雰囲気にならないように、何も喋らず、表情もなくして、ただライトアップされた街並みを目で追い続ける。明らかに自分の態度が変わっていることを誤魔化しても長谷川さんにはバレバレだろうし、だからこのまま何事もなくアパートに着けるように、決して衝動的に口が開かないように注意を払った。
「……課題レポート、進んでますか?」
「…まぁまぁ」
「本、どれか読んでみました?」
「それなりに。……読みやすくて面白い」
 長谷川さんに買ってもらった本は、机の上に積み重ねて上から順に読んでいっている。まだ数日しか経っていないし、ハードカバーで厚さもある本を、活字に慣れていない俺はそれでもやっと一冊読み終えた。ミステリーとホラーを掛け合わせたような話だったが、時間も忘れて読みふけるほどに面白かった。
 書き方が斬新で、飽きさせず、思わず最後を先に読んでしまいたい衝動に幾度となく駆られた。
 反対に、課題レポートの進行状況はあまり芳しくない。何しろ読むのが遅い俺は、文芸書ばかりに気をとられていて新書の方はパラパラと斜め読みした程度だし、アウトラインも半分もいかないうちに面倒になって放置状態だ。提出が明後日なのは十分わかっているが、元々そんなに興味のない分野でなかなかエンジンがかからない。
 そしてその話から自然と、今日幾度となく思い出していた例の絡まれた一件がまたもや脳裏に蘇った。
 ただ今度は相手の何から何までムカつくような卑怯な真似よりも、長谷川さんの言葉が酷く強調される。
『悔しいですよ。ですが、あなたを無事に送り届けるという使命が最優先です。人を傷つけるだけのプライドなど、私は迷わず捨てます』
 その言葉が、長谷川さんが過去の出来事から学んだ教訓であることを、そしてただ単に「いい人」だからという理由で謝ったわけでもないということを、俺は知った。
「それは良かったです。また機会があれば、色々とお薦め出来るように私も読んでおかなくてはなりませんね。……皆林堂に行きたいときは、一言声をかけて下さい。あの一帯は、やはり危険です」
 過保護にも、ほどがある。
 何も知らないままでいたら、そう呆れて溜め息を洩らしたはずだ。
 でも、今は―――。
「何で? 別にいいじゃん。また同じ奴と遭遇する可能性もないわけじゃないけど、そんな頻繁に慰謝料詐欺をふっかけられるわけでもないし。危険回避能力くらい、俺にだってある。長谷川さんの手を煩わせる必要なんてないよ」
 顔が熱くなってくる。
 それはおそらく、頭に血が上っているからだ。
 怒りと似ているが違うもの……喉の奥が詰まるような、息苦しい感情が判断力を鈍らせていく。
 どこまで良くて、どこまでが悪いのか。
 長谷川さんにどうやったら、波風立てずにこの葛藤を伝えられるのか。
 そんな方法なんて、ないのに。
 あるはずがないのに。
 俺が―――。
「………ろ」
「え?」
「俺が邪魔なら、俺と一緒にいるのが面倒なら、そう言えばいいだろ」
 わけがわからなくなって、気付いたらその言葉は口から飛び出していた。
 はっとなって俯き加減になっていた頭を上げ、横を見ると、長谷川さんは進行方向を気にしながらも顔を微妙に斜めにして俺を見ようとしていた。
 何でもない、と取り繕うなんてことは、もう考えられなかった。
 ただ、剛さんの話を聞いてからずっと考えていたことを、なるべく感情的にならないように話した。
「長谷川さん、昔、奥さんと子供を抗争で亡くしたんだってな」
「…………っ」
 長谷川さんのどこか頼りなささえ感じるほどの心配そうな顔が、強張った。それでも運転は乱れなかった。
「誰にそれを……」
「剛さんだよ。だから長谷川さんは、あの時無抵抗だったんだろ。俺がいたから。俺がいなきゃ、あんな風に舐められることもなかった。本当は、周りが畏怖するくらい、強い人だったんだからさ」
「それは……違います」
 フロントガラスの向こうを見ながら、それでも違うと言ったときは、俺を見た。
 何に対して「違う」と言っているのかはわからない。無抵抗だった理由に対してなのか、畏怖されているということに対してなのか。
 俺は首を横に振った。考えに確信があったからだ。何を否定しているにせよ、今の言葉に対する「違う」こそ、違うのだと。
「一緒にいたのがもし他の誰かだったら、長谷川さんはきっと相手を瞬殺する勢いで伸していた。俺だったから、何もしなかった。そうなんだろ」
「何を言って――」
「あんたが」
 長谷川さんが言いかけたのを俺は語気を強めて遮った。敬称もなく、腹の底に抱えていた言葉を一気に吐き出す。
 もう止められなかった。
「あんたが喪った子供は、もし生きていれば俺と同じ年で……その子供の名前が『巧(たくみ)』だってことも、知ってんだよ……っ」
 言った瞬間、胸が締め付けられるような痛みに襲われて、同時に息が詰まった。
 同じ年に生を受けた、同じ名前の、子供。
 妻子が亡くなったのは今から十七年前で、『巧』は生後数ヶ月の赤ん坊だった。
 長谷川さんは酷く傷つき、その頃いた武闘派組織の組長が剛さんと懇意にしていたため、比較的平和な宮村組に預けられることになった。
 以来長谷川さんは、一度として拳を振るったことはないという。
 そして今、守ることが出来なかった子供と同じ年で同じ名前の他人を相手に世話をする羽目になっている。
 そのことに長谷川さんが何も感じないはずはない。
「俺が傍にいることで、あんたが余計な気遣いをすることになってる。つまりは、そういうことなんだろ」
 いつも柔和で温厚で優しくて。
 怒ったところを見せたことなんて一度もない。
 それどころか、まともに怒ることも出来ないくらいの「お人よし」で、見かけ倒しなのだと。
 心の中でいつも思っていたことを悪く言い換えれば、そんなところだ。
 裏社会にいて、その立場に合わない雰囲気の裏に、何もないなんてことはない。少し考えれば、すぐにわかることだ。
 それなのに俺は、傷つきながらもしたたかにかに生きるその強さに甘えていただけだった。
 何も考えずに。
 ただ笑って、心のどこかでバカにしていたんだ。
「拓海さ―――」
「やめろよ」
 その名前を呼ぶことに、抵抗がなかったわけじゃないんだろ?
 だったら、呼ぶなよ。
「もう、いい。……やってらんねぇ。結局俺が俺だから―――」
 ふと、すぐ前の信号が赤になったのに気付いた。ゆっくりとスピードを落とし、そして止まる。そのタイミングを見計らって、俺はドアを開けて外に飛び出すと歩道に走った。
「拓海さん!」
 すぐ後ろの車道で、開けっ放しのドアの内側から長谷川さんが焦った顔で呼ぶのがわかった。
 それを無視して、車の進行方向とは反対方向に走った。一度も振り返らず、大通りをはずれ、細く暗い路地を抜け、住宅地に入ったところで歩き、足を止めた。
 そこがどこかもわからなかったが、黒のベンツが追いかけてくる気配は全くなかった。
「―――っ」
 がくんと足の力が抜けて、その場にしゃがみこむ。周りには誰もいない。頭上で街灯がジジジ……と音を立てていた。
 頭を抱えて、荒い呼吸の中に洩れそうになる嗚咽を押し殺した。
 俺が俺だから、結局誰かを傷つけることしか出来なかった。
 母さんも、長谷川さんも。
 そんなのは、わかっていた。わかっていたはずだ。誰よりも、俺が。
 すぐ後ろにある塀の向こうで、家族の笑い声が聞こえた。食卓を囲みながらテレビに向かう一家の図が頭に浮かぶ。
 きっと長谷川さんもこうして宮村家の人たちと笑っていただろう。
 母さんも父さんと一緒に楽しく過ごせていただろう。
 ……俺がいなかったら。
 母さんはあんなにも悲しみに暮れることはなかっただろうか。
 俺が「たくみ」という名前ではなく、また一年か二年くらい年が違っていたら。
 俺が「俺」じゃなければ。
 長谷川さんは、舐められることもなければ、起こりうる事態に憂えることもなかっただろうか―――。
 一人うずくまる俺の周りにあるもの全てが、ささやかながらも確かな幸福に包まれている気がした。
 誰も傷つけることのない、平和で当たり前の日常(しあわせ)に。


This continues in the next time.
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