-8- 「……断っときゃよかった」 晴れの昼休みには屋上に行く。 開放禁止なんて貼り紙も、鍵を持っている人間にとっては無意味だ。危険だとかいう理由でどこも屋上は開放禁止になっているらしいが、多人数のひしめく人口過密の施設で、こんなに開放的なところを使わせないというのは勿体無い以外の何物でもないとつくづく思う。 先輩から譲り受けた、と自慢げにちらつかせてきた理人から鍵を掠め取り、即行で合鍵を作った俺は、今では理人がいなくても自由に屋上に行くことが出来る。 理人は部活の昼練で今この場にはいなかった。 「何が?」 真っ青な空に流れる雲を見るともなく眺めながら呟いた独り言に反応したのは、特権に便乗してやってきた奈津だった。 シャツに砂埃がつくのも構わずに寝そべったまま、視線だけを向ける。真横でサンドイッチを頬張る奈津は、数日前教室に押しかけてきたときよりは大分落ち着いているようだ。 何でもねーと返して奈津のいる方とは反対向きに寝返りを打つと、背中に「嘘だー」といういささか不満げな言葉が投げかけられた。 「嘘だとしても、奈津にはぜってー言わね」 「あ、そー」 やる気のない返答に逆に脱力する。 だが、奈津とは恋人同士だった頃からそんな付き合いしかしていないというのも事実で、だからこれもいつも通りのやりとりには違いなかった。 長谷川さんの車を飛び出した日から、もう指折り数えて五日ほど経っていた。 あの後、近くを通りかかった人に最寄り駅までの道を教えてもらい、そこから一人で帰宅した俺は、長谷川さんの携帯ではなく、宮村家の方に連絡を入れて無事帰宅したことを伝え、それから翌日にかけて何度か入った着信を無視し続けた。 そんな状態でも週に三回宮村家に行くという義務は果たさなければならず、いつもの時間に長谷川さんは優雅な運転で学校裏に黒のベンツを停めて俺を待っていた。 俺はそれも無視して、電車で最寄り駅へ行ってそこから歩いて宮村家を訪ねることにした。 あんな別れ方をしておいて、またいつものように「ただいま」などと言えるほど俺はお気楽な性格でもないし、あの時長谷川さんに言ったことは全て本当に思っていたことで、それを考えれば長谷川さんには極力関わらないようにした方が互いのためだと思った。 先に宮村家に行っていた俺に、長谷川さんは何も言わなかった。「おかえりなさい」と柔らかな笑みを浮かべ、何事もなかったかのように接してくるだけだった。 何も言わない、ということは俺が考えていたこと――亡くなった子供の影がちらついて思うように動けない――が本当のことだったという何よりの証拠だ。 正直、キツいものがあった。 そうやって事実を突きつけられて勝手に傷ついている自分にも嫌気が差してくる。 何も知らずにいるよりは、その後どうなってしまおうとも、自分の傍にいる人間が自分のせいで憂えていることを自覚する方がよっぽどマシだとわかってはいるが。 こんな風に自己嫌悪に陥るほど、予想外にショックを受けてしまうとわかっていたなら、気付かないままでいたかったと思ってしまうのは、単に俺が弱いからだ。 無防備にぽろりと零れた本音も、ただの弱音に過ぎない。 きっと長谷川さんは俺なんかよりもっと辛いことを経験してきている。それでもあんな風に笑えるのは、それだけ強い人間だからだ。 俺はこんな風にごろりと寝転がって、溜め息と弱音を交互に吐き出すことしか出来ない。 自覚させてくれた剛さんをも恨む勢いで、負の感情が全身を支配する。だが、誰が悪いという問題ではないとわかっているから、体が鉛のように重たい。 これからどうすればいいのか。 多分、長谷川さんとは距離を置かなければならない。 その結論を、心のどこかで拒絶する自分がいる。 いつもなら、それでこの状況が改善できるならそうしようと割り切れた。理人相手でも、そう出来たと思う。実際、宮村から「二度と理人に近づくな」と言われることは十分に考えられたことだったため、いつ言われてもいいように覚悟は出来ていたし、仕方ないと諦められた。 今回だって、それとあまり変わらないことだというのに、何故かそれを受け入れられない。 「つっても、どうしようもねぇしな……」 「あんまり独り言が多いとバカになるよ」 「……ほっとけよ。これ以上バカになる余地ねぇんだから」 「ソレ、自分で言う?」 「お前が黙るなら言うね」 「ムカつく」 ……独り言にのってきたのは奈津、お前だ。勝手に逆ギレするな。 考え事を遮られるどころか、空の紙パックまで後頭部にスコンと投げつけられて、さすがにムカついた俺は起き上がると、その紙パックをまた投げ返した。 強めに投げたそれを、奈津は難なくキャッチして眉間に縦皺を作りながらさらに続ける。 「さっきから溜め息ばっかりで、いい加減うざい」 「じゃあどっか行けばいいだろ。ついて来たのはお前の方だ」 「い、や。ここ気持ちいいんだもん。こんな気分いいのに、真隣でゴロゴロしながら溜め息とお経のような独り言を交互に吐き出されちゃ、誰だってイラつくわよ」 「悪かったな。俺はお前と違って繊細なの」 どういう意味よソレ、と声音に険を交えて凄まれても、奈津相手だと全く動じない。 そのまんま、と呟いた瞬間平手が頭頂部に飛んできたのをギリギリでかわして、立ち上がった。 「俺はマジ、真剣に悩んでんの。ふざけあってる場合じゃねぇんだよ。お前がどこにも行く気がないんなら、俺が行く」 「拓海が真剣に悩む、ね。明日は雷でも落ちてくるかも」 「…………」 だから、そういう冗談に付き合ってる余裕は色んな意味でないんだよボケ。 まったく手をつけていないコンビニ弁当の袋を持ってさっさと屋上をあとにしようとした俺を、待ちなさいよ、と強い口調で奈津は呼び止めてきた。 「んだよ」 「言い方が悪かった。……これでも、そのいかにも切羽詰った様子気にしてんだから、ちょっとくらい話してくれてもいいじゃない」 あれで心配しているつもりだったのかお前は。 振り向くと、座ったままの奈津は俺が向き直ると思っていなかったのか、じっと見つめていた目を逸らした。 「話して、どうなるんだよ」 「少なくとも解決するために一緒に考えてあげられる。それに、悩み事って人に話すと結構楽になれることもあるもんよ?」 一度逸らした目を、すぐに奈津は俺に向けた。 その目は何かを咎めるように眇められていて、俺自身の弱さを見透かされたような気分になる。 いたたまれなくなって俺の方から目を逸らすと、「ほら」と奈津は何か納得したように呟いた。 「やっぱりね」 「……何が」 「今まで……付き合っていた時も含めて、あんたは一度もそんな顔をしたことなんてなかった」 「そんな顔……って」 「そうやって、本気で悩んだり、不安になったりしていても、いつも笑ってた。余裕ぶってて、逆にこっちはいつも不安だらけだった」 思わぬ指摘に言葉が詰まる。 全くそんなつもりはなかったと言えば嘘になる。だが、当時不安を感じていたことをはっきりと奈津の口から聞いたのは初めてだった。 「恋愛ってそんなもんかな、って思った。相手の腹を探り合ってさ。けど、そうしながらも、好きって、信じていたいって気持ちがわからなくさせるの。それが耐えられなくて拓海と別れた」 そんなの今じゃ全く気にしてもいないけどね、と引きずっているわけではないということも付け加えられる。 言われて考えてみると、俺は今まで付き合ってきた相手に対して何か不満を洩らしたり、それこそ今の奈津のように本音をぶつけ合って、喧嘩をしたりなんてことは一度もなかった。 悩みや不安がなかったわけじゃない。ただ、それも気付かれないように隠して、言わないようにしていた。 それは相手に心配をかけたくなかったからじゃない。むやみに踏み込まれないように、また自分も相手に依存しないように、無意識に張った予防線があったからだ。 それに気付かれたのは、初めてだった。……いや、隠し通せていたと思い込んでいただけで、本当は気付いても最後まで言わずにいた相手がもっといたのかもしれない。 隠すことは触れられたくないという一番手っ取り早い意思表示だ。 「別れてからも、拓海はそんな顔しなかった。だから今、そうやって思い詰めた顔を曝していることがどれだけ異常な事態なのかも、わかってるつもりだけど?」 「……!」 「ははん、図星だ」 にやりと口角を上げて、見たこともないくらい不敵に笑う奈津に、正直「まいった」としか言いようがなかった。 「ま、伊達に別れても一緒にいるわけじゃないってことね。むしろ、別れてからの方が、余裕持って観察出来る分、拓海のことを理解してるかも」 「……俺はさなぎかっつーの」 かろうじて出てきた言葉は、自分でも情けないとしか思えない肯定ばかりだ。 してやったりという顔でデザートに手を伸ばした奈津の隣に、もう一度腰を下ろす。 「……私には絶対言わないんじゃなかったの?」 「油断しすぎた自分に呆れて脱力したんだよ。奈津に見破られるなんて屈辱的以外の何物でもない」 「それはどぉも」 軽い嫌味も、一部とはいえ俺の本質を見破ることに成功した奈津は痛くも痒くもないらしい。 「誰も褒めてねぇよ」 ったく……。 額に手を当てて、まったく油断しすぎていたことをいくら悔やんでも、奈津の不敵な笑みは興味津々とばかりに向けられたままだった。 *ご意見・ご感想など* ≪BACK NEXT≫ |